企画


BGM程度にとつけていたテレビが思わぬところでやんややんや騒ぎ出した。さっきまでニュースをやっていたのにな、と思いながら、名前はティーポットを傾けた。もう夕方の特集の時間らしい。テレビ画面に踊る「壁ドン!」の文字を食い入るように見つめているコラソンを見て苦笑した。若者に話題のその恋愛シチュエーションを、この道化師メイクの男が知っているだろうか。

「コラさん、壁ドンって知ってる?」

『?』

ひらりと突き付けられた紙に名前は、え、なんて声を上げたが、そう返ってくることはなんとなく分かっていた、土曜の午後。でもあくまで残念そうなポーズで名前はソファに座ってテレビを見ているコラソンと彼の分の紅茶をマグカップに入れて、トレーに二つ並べた。

今週の土日は、ドンキホーテ財閥から離れてコラソンと同居しているローが友達と旅行に行っている。そのため、名前は大学が終わった金曜の夕方から電車を乗り継いでこの片田舎までやってきていた。なぜかって、大人に対して言うことではないのだろうが、コラソン一人じゃ心配だ、というローたっての希望である。それに名前の同居人のドフラミンゴやほかの経営幹部からも直々にコラソンがやらかさないようにサポートしろと頼まれた。一人で残しておくと確かに家が滅茶苦茶になるか、ローが彼の与り知らぬところで火災でも起きて家なき子になりかねない。名前が長期休みまっただ中だから出来たことである。

コラソンは最近声帯の手術をした身で、あまり長時間声を出すことは良しとされていない。何かあってから、正確には起こしてから電話で助けを呼ぶのも心許ない。まぁ、体よく長期休みを使われた者としても、コラソンの為になら別にいいか、と名前は思っている。下心無しに来た訳ではないし、あわよくば上手い具合に間違いでも起きてくれないか、位は考えた、かもしれない。間違いなど起きなくても久し振りに思いがけない形で思い人と会えたのだ、それだけで及第点だ。

テレビでは「女子高生100人に聞きました!女の子がときめくシチュエーション」が放送されている。名前の二、三個年下の、短いスカートを更に折って短くしているような女子たちが答えていく。そうしてどういった意味合いがあるのか分からないアンケートの答えは半数近くが「壁ドン」である。

「あんなに話題だったのに?」

少しだけ揶揄する響きを混ぜたが、まだ自分を子供だと思っているコラソンには通じていないらしい。子供が大人に「ねぇねぇ知ってる?」と訊いてきた風景を見ているかのような、微笑ましそうな表情にどこか子供扱いを感じ少しムッとして、もったいぶりながらテーブルにマグカップを二つ置いた。

『なんだ』

壁ドン特集も終わりかけているため、壁ドンがどんなものかの概要は見逃してしまったらしい。コラソンが壁ドンを知らないことなんて少し考えれば察せそうな事だ。だがこの男は好奇心旺盛で少し子供に近い部分も無くはない。「なにそれ美味しいの?」というようなきょとんとした表情でそんな紙を見せられては、悪戯心が首をもたげるのが男というものだ。コラソンがこちらに答えを促してきた紙をソファに置いてマグカップを手にしたのを見計らってから口を開いた。テレビでやっていた方のとは違う方の意味を、少しだけ考えて思い出す。

「壁ドンってのは」

コラソンが小首を傾げる。にやり、とどこか淫猥な笑みを浮かべて名前は続けた。

「隣の部屋の喘ぎ声が五月蠅い時に静かにヤれや発情期のサル共って伝えるために壁を殴る事だよ」

ブフ、とコラソンの赤い口紅に縁どられた唇から紅茶が噴き出す。案の定だ。そのお約束過ぎる反応に思わず口元を押さえた。コラソンのドジを笑うと自分の里親のドフラミンゴに酷く怒られた経験があるから条件反射で隠してしまうのはもう幼少期から染みついた癖にすらなっている。

この男は自分が子供の頃からからかい甲斐がある、と名前は思っている。特に名前が思いがけず少しばかり卑猥さを滲ませる、所謂下ネタを話すと拳骨を食らわせて来たり反省文を書かせて来たりと忙しい。大人になった今ならとどんな反応をするのか気になったので、子供時代同様鉄拳制裁や説教が待っているのを覚悟でそんなことを口走った。紅茶の熱さとそれ以外の理由でわたわたと慌てるコラソンに真っ白な布巾を差し出す。彼が飲み物を飲む時、財閥の幹部なら絶対に用意するものだ。

「ふふ、ほらコラさん、そんなに慌てないでよ」

久し振りに見たその様子がおかしくて、思わず笑いを隠しきれなかった。その言葉になぜかびくりと肩を震わせたコラソンは、顔を隠すように俯いてぐい、とワイシャツの袖で口の周りを拭う。紅茶で滲んだ紅がピンク色の袖口の色をさらに濃くした。

「ちょ、コラさん何してんのそれ落ちないから!」

ダメでしょ止めなさい!と、今度はこちらが親にでもなったかのようにその腕を掴む。それを力ずくで振り払い、床に座ったままコラソンが後退した。立つ時間も惜しいというようにずささ、と音がしそうな距離を退がる。その背中が壁にとん、とぶつかって、それにも一つ、名前よりも幅の広い肩が大袈裟に跳ねた。その光景を判断の追いつかない頭で見ていた名前は、暫くして我に返って布巾を持ったまま容赦なくその縮こまった体に近づいた。

「…ごめんって、嫌だったよね、こんな話」

冷静になって口から出た言葉は、素直な謝罪だった。昔からコラソンが下世話な話に対しあんなにも過剰に名前を叱り続けていたのは、それほどそういった話が嫌いだったからなのだろう。なのに自分はそんな子供のように純粋なコラソンに不愉快な思いをさせてきたに違いない。後ろ暗さが胸の内に染み出して、しゃがみ込むコラソンの顔も見れずにその腕を取って、袖口のボタンを外して染み抜きに入った。コラソンの方から緊張や困惑が伝わってくる。

「出来るだけ、触らないから、じっとしてて」

自分にも言い聞かせるように言う。何が間違いでも起きればいい、だ。苦笑して布巾で赤くなった袖を叩き続ける。白い布が段々赤くぼやけていく。そのせいで手の動きがぶれて、コラソンの手首に指が触れた。

「…っ、…」

正面から息を詰める気配がした。それにはおいおい、と溜め息を吐きたくなる。そんなに自分が触れるのが嫌か。あからさまにする気はないが、遠回しに少し詰ってやる位のつもりで、思わず顔を上げた。

「…コラさん」

ふい、と、その顔が逸らされる。しかし何しろ距離が近いので簡単には隠しきれない。名前は思わず染み抜きの手を止めてその顔を凝視した。

その、生娘の反応のような、真っ赤な顔を。

「コラさん、どうしてそんなに顔赤いの」

びく。コラソンが大袈裟に反応する。表情は焦ったような照れたようなぐちゃぐちゃになってもう泣きそうなそんな表情で、また吊り上がった自分の頬を感じながら、忙しい表情筋だ、と的外れなことを考えた。なんだ、意外と不愉快な思いなんて、させていなかったのかもしれない。

「コラさん、近づいてもいい?」

ぐちゃぐちゃの表情の中に、困惑が混ざった。おかしくて仕方がない、そんな顔をしているだろう名前を見上げながら、こくん、とその金髪の頭が上下に揺れる。なら、と名前はまた笑う。布巾を持ったまま、コラソンの顔の横に名前の掌がとん、と置かれて、肘が、ぐいと曲がる。ああ、なるほど近いなぁ、と呑気に名前が思う中、コラソンはその様子をぽかんとして見上げた。キャパシティをオーバーしてしまったのかもしれない。間近に迫ったその顔に、名前は思わずふわりと笑った。

「これが、テレビで言ってた方の壁ドン、だよ」

その言葉に呆気に取られていたコラソンの顔が、数秒前とは比にならない程に真っ赤に染めあがってしまったのは、きっと最強の萌えシチュエーションのせいである。その日の夜に帰ってきたローは、唇をいやに赤くしてやはりどこか淫猥に微笑む名前からそんな話を聞いていたたまれなくなって、思わず一人暮らしという言葉を頭に思い浮かべた。




聖夜様、リクエストありがとうございました!




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