企画


「最高の名医」直後

船長室は、むせ返るような花のにおいで溢れかえっていた。それもそうだろう、床には青い薔薇の花弁と黄色のチューリップの花弁が絨毯のように散らばっているのだから。やはり比べれば青い薔薇が多いが、それは当然名前の方が早く花吐き病を発症したからで、病状も進行していたからである。確かにあれほど苦しい病はこれまでほとんど無かった、と名前は苦笑して、肩で息をしながら名前の右肩に額を当てて、右手で自分の体を支えるように彼のつなぎの胸板あたりにしがみ付くローの背中を呼吸に合わせて撫でた。まだ血を流す左手の親指が出来るだけローの服につかないように気をつけながら。

「っ、ハァ…っ!ゲホッ!」

食堂から花弁がせり上がってくる感覚は通常の風邪などで引き起こされる嘔吐とは訳が違う。口から花弁の形をしたものが綺麗にそのまま出てくるのだ。つまり喉を固形物が通り過ぎる。飲み込むのならともかく吐き出すとは中々に身体にも精神にも負担が掛かるのだ。尚且つダブルパンチで恋愛の悩みものしかかってくるのだから全く酷い病である。

「大丈夫ですから、ゆっくり息を…」

「ほんと、に…っ!」

背中を撫でながら呼吸を促す。ついさっき初めてこの病を発症したローにとっては辛い嘔吐感だろうと極力穏やかに話しかければ、縋り付かれた肩の手にぎり、と力を込められた。病人とは思えない程力強い。しかしそこで名前はあぁ、と思い直す。病人は病人だが直接健康状態には関わってこない病なのだ、これは。

「はい」

「本当に、お前は…ハァっ!」

肩で息をする合間に何かを問い掛けられる。この場合、この状況で尋ねられる事と言ったら他にはないだろうと合点して、名前は背中を擦っていた手を止めてローの上下する肩を抱き寄せた。

「はい、あなたのことが、好きです」

「…は、ぁっ…!」

う、とまた名前の言葉に餌付いたローは、彼の右肩に擦り付けた頭を力なく振った。行き場のない左手をおずおずと上げて、縋り付くように名前の脇腹当たりの布地を掴んだ。

「嘘なんて、言わせねぇからな…!」

「嘘じゃないです」

「おれが花吐き病に罹って、責任を感じてついた嘘でも…ぐっ」

「嘘じゃないですってば」

酷い疑われようだ、思わずそう苦笑した名前はもう一度ローの背中をさする動きに戻した。恐らくこの言葉を聞いたローはこれから。

「本当に、あなたを愛してます、ローさん」

「…ぅっ!げほっ!」

美しい銀色の百合を吐くのだろうから。

ひた、と名前の足とローの太股にいくつか音も無く銀色の花びらが舞い落ちる。細長いそれは紛れもなく百合の花だった。しがみ付くローの喉から溢れたものだ。ローは自分の口から零れ落ちたその花弁を見て、胸中でごった返す感情に思わず眉間に皺を寄せた。

ほんとうに、この男は自分のことが好きなのだ。

そうして目の前の、今彼自身がしがみ付いている男の背中にゆっくりと腕を回した。そうしていつからか、薔薇の匂いが混ざるようになった名前の匂いを胸いっぱいに吸い込む。ほんとうに、いつからだったのだろう。それが分かるほど、ベポに言われて名前を問い詰めるまで名前の花吐き病の発症に気が付かなかったローの嗅覚は鋭くなかった。

情けない、と思う。ローは医者で、船長だ。自分のクルーの、ましてやよく様々な病気に罹っている名前の、それだけでなく好いている相手の変化にも気が付かなかったのだ。一番早く気が付くのは自分でありたかった。ローは銀色の百合を見つめて俯いたまま咳き込んで掠れた声で言った。

「…今度から、体調に変化があったらすぐおれに言え」

「いつもそうしてるつもりです」

「それなら今回はどうした」

「…あー…病気が病気だったんで…」

「どんな病気でも言え」

「こ、今度からはそうします…」

「ならいい」

それならいい。と繰り返して、ローは名前に抱きつく腕に力を込めた。ふふ、と頭の上から笑い声が転がり落ちて来て、名前の右手が背中に回ったのを感じて、ローは胸の奥からえも言われぬ幸福感が込み上げたのを感じた。

自分の中でこの男の事を思うたびに、花が咲くように心が弾んでいたのだろうか。ふと、ローの頭にそんな事が過ぎった。気持ちはそんな風に、蕾が花開くように綻んでいたとしても、それが実を結ぶのをどこかで諦めていたのだろうか。

否、ほとんど諦めていた。花弁は果実になれない。男女の恋ならばいざ知らず、同性同士の恋など、文字通り何も生み出さない不毛なものだ。それでも花は咲いた。今ここに数枚の銀色の百合が散らばっているだけで、ローは何もかも許されたような気分になるのだ。

青い薔薇の花言葉は「不可能」で、黄色のチューリップの花言葉は「望みのない恋」だ。それならば、今自分たちの足元に転がっているこのうつくしいいろの花は、何という花言葉なんだろう。きっと、さぞ甘い、幸せな言葉なんだろう。ふと頭を上げて、名前の横顔を見つめると、何ですか?と優しい目と視線があった。

「…なぁ、名前」

「はい」

「銀色の百合の花言葉は、何だ」

そうローが尋ねると、名前はえ、と口を開いて目を丸くした。その反応に思わず首を傾げると、名前は少し思案する様子で言葉をを続ける。

「…いや、調べたんですけど、そもそも銀色の百合が花吐き病でしかこの世に存在しないらしくて、無いんですよ」

「そうなのか」

勿体無い。とローは思った。こんなに大変な思いをしてやっと出会えた花なのに、それを彩る言葉が無いとは。彼にしては珍しくロマンチックな考えだがその熱に浮かされたような表情と今まさに思いの通じた相手から離れない様子からそれは仕方ないとも言えるだろう。少し押し黙った様子のローは、それがどうかしたのだろうかと首を傾げている名前に向けて微かに表情を綻ばせた。

「それなら、真実の愛…なんてどうだ」

ぽつり、とローが零した言葉に、名前は一瞬目を見開く。それから花言葉の事か、と合点して、何処となく得意げなように見えるローの表情に、微笑ましげに破顔した。

「残念でした、それは赤いチューリップの花言葉ですよ」

「愛の告白、はどうした」

「花言葉は一種類にいくつもある場合があるんです」

「…つまらねェな、お前そんな現実主義者だったか」

途端にむくれるローに、名前は苦笑した。確かに珍しくリアリズムから離れたことを口にした船長にかけるには冷たい言葉だっただろうか。否、それどころか恋人となった人の初めての戯れをこんな風に一蹴する(そんなつもりは微塵もなかったが)のも少し空気の読めていない言動だったかもしれない。ただ、その名前の言葉一つに顔を顰めたローが、可愛らしくて堪らないのだからその辺りは許してもらいたいものだ、と名前は思った。

「…あ」

「なんだ」

そんな風に目の前の男のことを考えていた名前は、そっと視線を下に向けた。引っ付いた姿勢になっているお互いの足や床に敷き詰められた花弁。その中に混ざる微かな銀色に、名前は一度ゆっくりと瞬きをして、それから怪訝そうにそちらを見つめる愛しい相手に、まるで花が綻ぶかのように微笑んだのだった。

「それなら、こんな花言葉はどうです?」

囁くようなその提案に、ローは一瞬目を見開いてから幸せそうに笑って頷いた。成る程その時の彼ら二人の表情は、まさしく花が咲いたようだった。





匿名様、リクエストありがとうございました!






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