皆が続々と街に繰り出す準備をする中、くあ、と一つあくびをして、ゾロはマストを背もたれに芝生に腰を下ろした。つい一週間前に別の島を出発し、昨日到着したこの島の様子はざっと見たが、どうやら目欲しい店はないようだった。刀の手入れに使う道具も前の島で買った物がまだまだ残っているし、キッチンにはゾロお気に入りの酒もある。この島に降りる理由もないと船番を買って出たわけだが、春島というだけあってなるほどぽかぽかと良い陽気である。正直に言うとゾロは、全員が船を出て行ったら早々に夢の世界に旅立つつもりだった。春眠暁を覚えず、とはまさにそのとおりなのである。
ちゃんと起きてなさいよ、と念を押す美人航海士の長い橙色の髪を見送り、わーったよ、と適当に返事を返す。すぐに寝ます、なんて言ったら文字通り雷が落ちるのだからたまったものではない。まあ姿が見えなくなったらでいいか、ともう一つあくびを噛み殺すと、ひょこ、と柱の陰から出てきたルフィの顔。
「なーゾロ!ゾロの分の小遣いナミに言っておれに回してもいいか?」
「駄目だ、この島の分は次の分に繰り越す」
「えー!なんでだよ!金も早く使われたほうが喜ぶぞ!」
「何だその屁理屈!…ルフィ、そこ動くな」
ドン、と音がしそうな程重くなった空気は、ゾロから発せられている。動くなと言われた手前ルフィはその場からむやみに動くことをせずに、ただただゾロの様子を見ながら平然と立っていた。否、見ていたのは、ゆっくりとルフィに背を向けたゾロの視線の先、船にほど近い林の奥から歩いてくる影だ。
男は不思議な出で立ちをしていた。首から下はカーディガンとスラックス、街を歩くのに良い格好だ。だが顔の下半分にはマスク、頭にはウールハットを被っており、顔があまり良く見えない。極めつけはそう、一般人然とした服装だったがその左手に握られた棒状の凶器。黒い鞘にしまわれた、剣士の象徴であるそれが。
「…強い」
ゾロの唇がそう動き、そして口の端が好戦的ににやり、と釣り上がる。しかしいくらなんでも船の上で一戦交えるわけにも行かず、ゾロは男に向かって歩き、船の縁を蹴っ飛ばしてこの島への上陸一歩目を踏み出した。
「ロロノア…海賊狩りとお見受けする」
「よせよ、もうおれ自身が海賊だ」
「…手配書では見なかったが、その目の傷は?」
「修行でちょっとな、手配書は二年前のもんだ」
「ほう…それを補う為、覇気を習得したか」
「分かるか」
「こちらも心得がある」
「…へェ、面白ぇ」
にやり、とまた笑みが深くなる。相手の男の表情は読めないが、高揚している気配を感じる。殺気、ではない、これは、喜びだろうか。その感情の正体に、ゾロはまた気分が上がるのを感じた。
「その和道一文字、お前に相応しいものか…見極めさせてもらう」
「あァ、アンタも刀マニアかい」
幼馴染にそっくりの女海兵の台詞が思い浮かんだ。その幼馴染の刀、和道一文字は大業物だから海賊風情が持っていていいものではないという輩が度々奪いに来ることがあるのだ。しかしそういった輩とは一味違う雰囲気をこの男は醸し出していた。
「いくぞ、ロロノア」
刀を脇に構え、男が居合の格好で構える。手本のような隙のない構えに、ゾロも少し感心して一刀を構える。男のリクエストにお応えして和道一文字の白い鞘だ。ぴん、と空気が張り詰め、互いに親指で刀の鍔をじわり、と押し上げる。どこか不思議な雰囲気に、ふと、ゾロの中で男の影と何かが被ったような気がした。
ああ、なるほど、この男は。
「一刀流…居合」
「霜月流…一閃」
ルフィの見守る前で、ゾロと男の刀が太陽の光でぎらりと輝く。一瞬の内に二人の剣士の体がすれ違った時には、抜身の刀はどちらとも黒く染まって輝いていた。ギィン、と刃同士がぶつかり合う澄んだ音がその戦いの始まりを、そして終わりを知らせた。
「…見事」
「アンタもな…、名前」
男の手から離れて宙に舞った黒刀が、覇気を失って目の覚めるような輝きを持った鏡のような刀身に変わる。そして、さく、と静かに土を切って地面に突き刺さった。ゾロはその刀を知っていた。
「和道継定…久し振りにお目にかかるこって」
「和道一文字…おれもその刀は久し振りに見たよ、そのピアスもね」
和道一文字を鞘に戻すと、相手も地面から刀を抜き取り、鞘にしまう。聞きなれない声が、懐かしい口調でそう紡ぐ。そうしてマスクを顎まで下げてハットをとってしまえば、小さい頃に幼馴染と並んで追い掛けた背中の主が大人びた顔で微笑んでいた。血の気の失せた顔、目を瞑って微動だにしなかった顔、最後に見たのはそんな顔だった。その顔がもう一度自分の意志で、当時と変わらない笑みを浮かべている。ゾロの眉間に、意図せず皺が寄った。
「…っ具合は、もう、いいのか」
「見てのとおりだ、目が覚めてもう二年になるが突然身長が伸びたものでね…お前に訓練をしてやっていた頃からは格段に強くなっているがこの身体からして本調子ではないらしい、もっと強くなれるはずだ」
「くいなの、ことは」
「聞いたよ、墓参りもした…守り切れなかった、らしいな」
「…どうやってここまで来た?」
「もちろんこの身一つでさ、小さな帆船を頂いてね」
「そう…そう、か…」
そうか。ゾロはそれだけしか言うことが出来なかった。喉の奥に熱い塊が詰まったように声を出すのが苦しい。心なしか、鼻の奥もツンとするような気もする。どちらかともなくあと一歩ほどの距離まで歩み寄り、その辺りでぽすん、とさっきまで名前が被っていた帽子がゾロの頭に置かれる。
「十年とは長いな、弟弟子が名のある剣士になってしまうなんて」
しみじみ、と名前が長い時を生きた老人のようなことを言う。十年間も眠っていたのだからゾロより過ごした時間は短いはずなのに、どうやっても自分より大人である名前に、そこだけは敵わないな、と、ゆっくり目を閉じる。
「長ェよ…どんだけ寝りゃ気が済むんだ」
「はは、手厳しいな!これでもリハビリに五年はかかると言われたんだぞ?」
「…なら、褒めてやらァ」
「生意気さは変わらないな、安心した」
はは、とまた眉尻を下げて笑った名前は、そのままゆっくりと俯いたゾロの腕をぐい、と勢い良く引いた。その程度で傾くような鍛え方をしている訳ではないが、ゾロの体が素直に前に倒れる。軽い音を立てて名前の肩にゾロが顔を埋める姿勢になった。
「久し振り、本当に大きくなったなぁ…ただいま、ゾロ」
名前の言葉に、ゾロの頬を一筋だけ熱い雫が伝う。それから、自分が焦がれて追いかけた背中よりも幅の広くなったそこに存在を確かめるように腕を回した。
「…おかえり、名前」
それから空いていた時間を埋めるように二人がそうしていたのは、戦闘を見ていたルフィの怒涛の勧誘に妨害されるまでだった。
悠様、リクエストありがとうございました!
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