全部夏のせいだ
「彼女が情熱的なんですわ!ワイがモッテモテやから不安なのよ、言うて!」

カッカッカ!と大声で開けっぴろげに笑う鳴子。部室内のパイプ椅子に座ったまま顔を上げれば、奴はサイジャの首元を寛げて、手嶋さんと青八木さんににやにやと見せびらかしていた。首筋の、喉仏の少し横。よくもまあ、練習後にそんな体力があるもんだ。小野田も今泉も杉元ももう帰ったというのに。思わず大きくため息をついて、中身をチェックしていた救急箱から虫さされの薬を選んで取った。

「鳴子」

「おぉ?なんや、マネージャー」

振り返った男に、ぽい、とロールオンタイプのそれを投げ渡す。おっとっと!とわざとらしくキャッチした鳴子に、そのまま一言。

「そこ、痒いっつってたの治ったの?」

「んなっ…!言うなやオマエ!」

鳴子の首筋には、赤い斑点がひとつ。それが今日の朝、鳴子が教室でボリボリ掻いていた虫刺されのあとだと言うことは、多分同じクラスの人間なら多少なりと耳に入っているだろう。朝、薬を求めて教室内を物乞いのように歩き回っていたし。手嶋さんは青八木さんと顔を見合わせて、それから苦笑して肩を竦めた。

「…だろうと思った、ったく、遊んでないで早く帰れよ」

「純太」

「そーだな、俺達も帰るか!」

じゃあな、鍵頼む。そう言い残して手嶋さんと青八木さんは部室を出た。青八木さんは相変わらず「純太」と一言言っただけだったのに、なんで言いたいことが伝わるのかいつも不思議である。ぴしゃり、と扉が閉まった。俺は並べた救急箱の中身をそっと箱に戻す。絆創膏と消毒液はやはり減りが早い。ぱたん、と蓋を閉じて立ち上がると、下は制服、上はジャージの中途半端な格好をした鳴子と目があった。

「……俺も帰るかな」

「ヲルァ!無反応やめんかい!」

少しからうと、まるで烈火のように燃え上がる。あれだけペダルを回したのにまだまだ余力があるらしい。明日寒咲さんと練習メニューを見直す算段でも立てようか、と苦笑すると、鳴子がビッ、とジャージの前のチャックを下ろした。

「どーせアホくさいとか思てんねやろ」

唇を尖らせて目を釣り上げた彼に、思わず苦笑する。「まさか」と肩を竦めると、ずぼ、と赤いTシャツを首に通した鳴子が大きく口を開けた。着るのか悪態をつくのかどちらかにしたらいいのに。

「ハァー!?嘘つけェ!モロ顔に出とるっちゅうねん!ワイの目は誤魔化せんからなァ!」

「もー、いいから早く準備して」

「しとるしとるめっちゃ準備しとる!ワイは浪速のスピードマンやからな!準備も最速や!」

言葉通り、バサッと半袖のワイシャツを羽織ってバッグを引っ掴んだ鳴子は、むしろ得意げな顔で俺に「はよ準備せえ」と声を掛けた。形勢逆転だ。救急箱を棚に戻して、俺も鞄を肩に掛けた。そのまま机の上に置いてあった鍵を手に取る。

「アホくさいとは思ってないよ、そういうの自慢したいタイプなのか、って思っただけ」

しゃり、と鍵が音を立てる。俺の入部前からついているこのキーホルダーは誰チョイスなのだろう。なんて思いながら返事が返ってこないのを不思議に思って鳴子に視線を戻せば、珍しく真顔でじ、と俺を見ていた。鳴子、と一度だけ呼べば、は、と罰が悪そうに足元に視線を落とした。

「別に」

口数の多い彼らしからぬ、静かな声だった。驚いた。そんな声が、こいつから出るのかと。そんなに強い色をしているのに掻き消えそうだ。足が前に出る。

「…ええやんけ、ワイは名字のモンです、て、大っぴらに言う訳でも」

ないし。鳴子がそう言い切る前に、その胸倉を掴んで引き寄せた。「ぎゃ!何やねんやんのかゴルァ!?」と状況も把握できず喚く鳴子の首筋、虫刺されの少し下に、かぷりと優しく噛み付く。

「うひ!?」

鳴子の声がひっくり返る。それから柔く凹んだ歯型をべろりと舐め上げて、その真ん中にじゅ、と強めに吸いついた。汗をかいているからか、少ししょっぱい。何をされているか正しく理解したらしい鳴子は、少し黙ってから生き返ったように声を荒げた。

「いや何晒しとんねん!アホかコラァ!お前が周りには言うな、言うたんやろ!こんな、こんなもん…!」

ワイ、隠されへんぞ。と、最後はもう、声が震えていた。

お喋りで正直なこの男が、誰にも言えない秘密を抱えるなど、どれほどの我慢が必要だろう。ましてや男同士の恋人について。周りに明け透けに話す訳にもいかない内容でもある。

悩む事もあったろう、不安に思うことも。それでも俺は鳴子に、俺と付き合っていることを秘密にするように提案した。それがお互いのためだと思ったからだ。でも、そうじゃあない。そうじゃないことくらい、ずっと気が付いていたのに。そっと顔を埋めた首筋から離れて手もゆっくり離すと、鳴子は幽霊でも見るような目で俺を見ていた。よかった、泣いていなかった。親指で赤い跡の唾液を拭う。

「俺…彼女、って言われるの、そろそろ嫌だなって」

ぽつり、とそう零す。目を丸くした鳴子に穴が開くほど見つめられて、思わず半歩引き下がった。何を身勝手な事を、と怒られるかもしれない。そう思っていたが、俺は彼がそんな小さな男ではないと言う事を忘れていたのだ。がし、と、両手で俺のワイシャツの襟を掴んだ鳴子は、ニンマリと満足げに笑った。

「ほんならお前も、ワイのことちゃーんと自慢せえよ!」


***


「あれ、名字、お前も虫刺されか?」

今年は蚊少ないらしいけどな。救急箱に新しい絆創膏と消毒液を補充していると、声を掛けられた。そう言う手嶋さんに目を向けると、自分の何もない首元を指でとんとん、と示している。思わず自分の喉笛の同じ位置に触れ、あぁ、と昨夜の部室での出来事を思い出した。

「跡残るから掻くなよ」

「いえ、痒くないですし、大丈夫ですよ」

この薬達は部員のために揃えているのだ。部員、と言うと恐らくマネージャーである俺や寒咲さんのことも入るのだろうが、俺は今現在この薬を塗る必要がない。ふうん、とどことなく腑に落ちない様子で首を傾げる手嶋さんに、俺はそのままの声のトーンで言った。

「…恋人が、お前はワイのもんやから、ってつけたやつなので」

「オ゛ッ!?」

ゴッ、と背後で重い物が床に落ちた音がする。誰がどういう状態なのかは手に取るようにわかるので、手嶋さんから目を離さずいる。彼には珍しく零れ落ちんばかりに目を見開いていたが、俺の背後の鳴子の様子を見たのか、ふ、と納得したように笑った。

「へー!ってことは鳴子のもそうか?」

にやにやと言った手嶋さんに従って振り返れば、鞄を足の甲に落としたらしい鳴子が、しゃがんで爪先を擦っていた。「へっ?」と見られていることに気が付いた鳴子は、赤い斑点が二つ並んだ首をそっと手の平で隠した。

「わ、ワイのは…むしさされ、ですぅ」

顔を髪と同じくらい真っ赤にした鳴子が、そう蚊の鳴くような声で言った。いや、お前それ、逆にリアリティあるぞ。どうやら俺達が付き合っていることが部内に広まるのも、時間の問題である。






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