全部夏のせいだ
からん、と氷が滑って鳴った。静寂、という程ではないが静かだったこの部屋に転がった音に、俺は微動だにしないまま小さく「うお」と声を上げる。

「驚いてるのか?それ」

寝転がって上を向いたままくく、と喉を鳴らして笑った隼人は、ゆっくりと体を起こして片膝を立てて座る格好になった。畳に同じ様に横たわっていた俺も、のそり、と起き上がる。

暑い。全く以って熱い。地球は度重なる寒さと熱さとの往復でとうとう壊れてしまったのか。出来れば俺が平和に天寿を全うするまでは人間が生活するに適した気候でいて欲しかったものだ。それとも、ここが東京というコンクリートジャングル、緑の存在しない密林だから、というのが原因なのだろうか。

今年の夏は記録的猛暑だ。天気予報の熱中症の危険度マップも赤を通り越して紫。まるで日本をまるごとサウナに入れたような陽気だ。それで、水風呂はどこにあるんですか。

そんなことだから、今日一日電気系統のメンテナンスで屋内の練習室が使えない明早大学自転車部は、利口なことに早々に練習を休みにしたらしい。昼まで寿一くんのひとり暮らしの家でローラーを回していたという隼人は、それを終えてひとっ風呂浴びたらすぐさま俺の家にやってきた。

えらい。休みの日にも練習するなんてえらい。流石あの箱根学園の卒業生である。高校時代特に自転車と関わりがなかった俺も、箱根学園と聞いたらぼんやりと知っているほどだ。ちなみに隼人は今、そこまでの間で入浴の甲斐もなく汗だくである。それだけ外は暑い。

空いた窓から抜けていく風も、頬を撫でるように温く湿っているのだから世話ないな、と床に無造作に置かれた教科書で顔を仰ぐ。重い。来る風の量と運動量が割に合っていない。ぽい、と万年床にそれを放って、小さなテーブルの上に置いてあるコップに視線を向けた。だけだというのに。

「あ、こら、それ俺の」

俺より僅かに肉厚な手が、百円均一で買った小さなウサギ柄のコップを攫う。すっかり角の取れた氷が泳いでいるのは、貧乏学生らしく水道水で薄めに作った麦茶だ。コップがかいた汗がテーブルの真ん中に丸く足跡を残していた。

「…まだ何も言ってないけど」

「いや、絶対飲もうとしてた、俺の目は誤魔化せないぜ」

笑う隼人の首筋に、つ、と一筋汗が伝った。やっぱりスポーツマンは代謝がいい。勝手に腑に落ちて肩を竦めると、隼人がこれ見よがしに小さなコップに口を付ける。ごくり、と動いた喉仏が麦茶を吸収していった。コップの水滴が親指を流れ落ちる。

何だというのだこの男は。暑いと言っている人間の前で、そんなにうまそうに冷えた麦茶を飲む必要があったのだろうか。恨めしさすら感じて、からん、と音を立てて天地の向きを正しく戻したコップをじ、と見詰めた。それからすす、と隼人が俺の横に近付いてくる。俺の貧相な二の腕と、隼人の引き締まった腕がくっついた。汗が蒸発したからか、冷えた俺の腕に触れた隼人の腕は、しっとりとして熱い。

「…暑いでしょ、俺んち」

ぽつり、と、そう静かに漏らす。学校用のカバンの中からいつの間にか俺のクリアファイルを取り出していた隼人が、それを使って顔に風を送っているところだった。風で前髪が上がると、だいぶ幼い印象になるな。俺の方にもおこぼれの風が来て、なかなかに涼しい。

親の仕送りと奨学金の範囲内だけで生活を送っているだけに、ケチってエアコンもつけない俺の家はいつもこんな感じだ。隼人の家はもう少し快適だが、いかんせん俺が外に出るのが億劫なので、いつもこいつが来てくれる。少し溜まった小遣いで扇風機でも買おうか。羽のないやつ。まあでも今日は十分我慢した。昼に差し掛かったし、これから一番熱い時間帯になる。そろそろエアコンに切り替えようかな、と考えながら、俺の分の麦茶も注ぐか。そう思いながら立ち上がると、隼人が小さい声で「それってさ、名前」と呟く。

「んー?」

小さな食器棚からコップを取り出して冷蔵庫を開けた。カエル。俺のコップはカエル柄。あのウサギのコップは、隼人がこれに合わせて同じサイズのものを買ってきた隼人用のコップだ。麦茶をとくとく、と八割ほど注いでから振り返ると、仰ぐ手を止めて少し肩を落とした隼人が、むう、と不満げに頬を膨らませた。

「触るな、ってこと?」

はぁ?と、咄嗟に声を上げなかった俺を褒めてほしい。しかし恐らく顔には出ている。全力の呆れ顔を晒している自覚はある。それだけ、それだけ隼人の発言は的外れもいいとこだ。暑いけど、だからといって触れたくないとでも。むしろ、こっちはお前とくっついてても暑くないようにって思って。否、これは、いくら頭で考えていても無駄な事だ。というか、その顔は何だ。あざとさが滲み出ているが、どうせ分かってやっているのだろう。これだから顔のいいやつは。

麦茶のボトルを冷蔵庫に仕舞って、コップをひっ掴んでウサギの横にタァン、と強めに置いた。音に驚いたのか、俺の行動を目を丸くして見つめる隼人。そんな顔をしていてもイケメンはイケメンだ。空いている窓をガラガラと手早く閉めて、その合間にテーブルの上に放置していたエアコンのリモコン、その運転スイッチを押した。

「…名前」

ピ、と短い音を立てて動き出したエアコンに、隼人が茫然と俺の名前を呼んだ。何だよ。俺がエアコン点けるの、そんなにおかしいか。決して低い温度設定ではないが、部屋の温度が高いからか冷たい風が一気に吹き付けた。ここは直撃の位置だ。まだ目を丸くしてる隼人の隣に座って、意趣返しのつもりで二の腕同士がピッタリとくっつく距離に座る。冷えた麦茶を呷ると、染み渡るように身体に馴染んだような気がした。

「暑いから麦茶がうまいだろ、って意味だよ、…でも、くっつくにはちょっと暑かっ」

た、から。そう続けようとしたところで、隼人が大型犬のように飛び付いてきた。ちょっとした交通事故のような衝撃だったが、半分以上飲み干した麦茶はコップから逃げた様子はない。ほ、と一息ついて、動けない上半身はそのままに何とかコップをテーブルの上に置いて、空いた手を隼人の背中に回して、ぽんぽん、と軽く叩いた。

「俺、おめさんのそういう回りくどいところ、好きだぜ」

「回りくどいところだけ、と」

そう言うと、隼人が少しだけ体を離す。至近距離に現れた、憎たらしいほど整った顔は、少し赤い。何だこいつ、暑いのか。冷たい風が当たっているのにも関わらずかっかと熱い自分の事を棚に上げて、その厚い唇にキスを落とした。

「麦茶、もう一杯いる?」

「…あとで」

でも、どうせ二人でいたら暑くたってくっつくんだから、エアコン掛けるまでも無かったかもな。ぐぐ、と俺を引き倒そうとさり気なく体重をかけてくる隼人の重みと戦いながら、俺はカエルのコップを手にとって麦茶を飲み干した。今から熱中症にならないといいのだけれど。






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