風呂係


湯煙立ち上る景色に、真暗な空から冬の贈り物がしんしんと降ってくる。
どこもかしこも白い世界で、冷えた肩、暖かい湯。
ああ温泉とは何て素晴らしい!

「いっい湯っだーなっアハハン」

これで雪見酒なんてしようものなら今すぐ俺は天国へ昇るだろう。湯気と共に。
一人きりの露天風呂は実質の貸し切り状態で、俺の下手くそな音頭を聞く奴もいない。
足も手も伸ばしてだらりんちょ。バタ足したって怒られないのだ。
この至福!何物にも変えられない!
同級生は流行りのテーマパークや外国に行きたがるが、俺は雪の降る地方でのんびり露天風呂に入るか、もしくは紅葉狩りや寺巡りが旅行には一番相応しいと思っている。じじくさいと言われようが仕方ない、趣味なのだから。

「家の風呂も悪くないけど…やっぱ温泉はちげーなぁ…」

無意味にチャプチャプと湯を打ち鳴らして、調度良く出っ張った岩に後頭部を乗せる。
何度見上げても空は暗く、目を凝らさなくても数えられる星は感嘆の息をつきたくなる程綺麗だ。都会の喧騒に慣れた耳はこの静かな場所をいたく気に入ったかのように、小さな虫の鳴き声なんかを拾っている。

「さいっこー…でけー風呂毎日入れたら言う事ないよなぁ」
「そんなに温泉好きか」
「おうともよ。俺は熱めの湯が特に好きだね」
「ああ、あの逆上せる手前の浮遊感は堪らないな」
「そうそうそう! わかってるねー!」

チャプンと湯が波紋を作る。
ところでどんな客と話しているのだろう、とそちらに顔を向けた俺は、瞬間固まった。

誰も居ないのだ。誰も。
人が居ない。確かに話し声がしたし湯も揺れたのに、人らしき影が湯煙にない。

「え…?」

キョロキョロと辺りを見回すも、温泉好きそうなおじいさんもおじさんも、子供もいない。
熱い湯に浸かっているはずの身体が、寒気立った。

「っはー…気持ちいい。やはり風呂は毎日入らないとな」

でもまた声が聞こえた。
なぁ?と相槌を求める疑問符までが耳に届いて、俺は反射的に少し声を張り上げて明るく、どもった。

「だだだ誰ですかな! 隠れてないで風呂のよ良し悪しについてかかかか語ろうではありませぬか!」
「あ? んだよ、ここに居るじゃねぇか」

ゆらりとまた湯が揺れる。振動が肌を撫でる。
正体のわからない悪寒のせいで風呂から上がって逃げるという選択肢を忘れたまま、俺は馬鹿みたいに揺らめく湯煙の中を凝視していた。

そしてやがて、白い湯気の中から白い何かが顔を出す。よくよく目を凝らしてみて、俺は驚愕に言葉を失った。

「ニャンコーっ!!?」
「ニャンコじゃねぇよグレム様だ」
「ニャン語とか習った記憶ないんですけどー!」

俺の目の前、腰掛けられるようになった浅い場所で首の下までを湯に浸け、真っ白の雪と見紛うような真っ白い猫がはふんと口を開閉する。器用に小さな頭の上に乗ったこれまた小さな黒タオルが、奇妙なコントラストを突き付けた。
俺は受験生だから色んな参考書を片っ端から勉強したし、塾の傍ら英会話教室にも通っている。けれど、どの参考書にも先生にも猫の言葉など教えてもらった覚えはない。昔ロードショーでやってた動物と話せる医者の映画を思い出して納得しかけたけど、脳天気な俺でも辛うじてあれがバリバリのフィクションだって事は思い出せた。

「何て顔してんだ人間」
「いやだって、あの、猫、日本語、ニャン、化け猫!」
「あー、化け猫じゃねぇよ。ちょいとお忍びでこっち来てるだけ、まぁ落ち着け」
「落ち着けるかー!」
「大声出すな耳痛ぇ」

オーバーに動いたせいで、水しぶきが喋る猫の顔にかかる。
それをふるふると振り落とした猫は、唖然とする俺の隣に来て、濡れた前足をちょんと肩に乗せた。
冷えた肩に暖かい肉球が堪らなく気持ちいい。思わずほわんと顔を綻ばせた俺に、猫は言った。

「なぁお前、俺の風呂係になれ」
「ニャン球きもちー…は? ん?」
「猫って奴は水が嫌いでな。勿論風呂も嫌いで、俺はわざわざこうやってこっちの世界に来ねぇと風呂入れねぇんだ」
「はい…? 風呂なんて一人で入れるじゃん」
「素早い順応だなお前」
「まぁいっかって思って。猫が喋っても害ないし」

むしろ会話相手が猫とかすげくない?
何だか途端に面白くなってきた俺はさっきの驚愕もどこへやら、どうせならこの状況を楽しもうじゃないかと、猫の頭に乗ったタオルを弄って遊んだ。

「でだな。俺は王様で偉いから、一人で風呂入らせてもらえねぇんだよ。奇襲だとかあーだこーだ、家臣がうるせぇの」
「ふぅん…じゃあいつ入るの?」
「こうして地球に来た時と、一ヶ月に一回頼み込んで入るしかねぇ」
「汚…っ」
「やかましいわっ!」

ペタン、と猫パンチが俺の頬を叩く。肉球が当たるだけで、爪を立てられた訳じゃないからひたすらに気持ちいい。しかも異常な程可愛らしくて、ついつい俺の頬は緩んだ。

「かーわいいなぁ! 抱っこしたい! いい?」

とか伺いながらも俺の両手は猫の脇にスタンバイ。普通なら有無を言わさず抱っこしちゃうけど、せっかく話せるんだから許可もらわないとな。

「俺の要求をのむなら、好きなだけ俺を愛でていい」
「まじで?聞く聞く!」

もーお頬擦りしたい!
顔を寄せながら答えた俺に猫は鼻で笑うと、小さな白い鼻先を俺の鼻にくっつけた。

「よく言った。お前はもう俺の風呂係だ。…少なくとも飽きるまでは離してやれねぇが、まぁ、」

俺が風呂に飽きる事はないがな。

真っ赤な舌がちろりと俺の鼻先を舐め、その次には視界がブラックアウトしていた。
抱っこしそびれた。そんなどうでもいい事に悔しさを感じながら、俺は、猫の世界で猫のお風呂係として生きる事になったのだった。

(おわっとく)

意味のわからん異世界トリップ。
この後主人公は周りの家臣にいびられながら王様の風呂係を勤め、でもなんだかんだ脳天気に家臣達とも仲良くなったり、王様とラブっちゃったりするといい。


 

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