Incomplete us

とある全寮制男子校にある寮部屋の一室で、部屋主の生徒は携帯を片手にキッチンに居た。
左手は携帯を耳に当て、右手でグラスに水を注いでいく。
水に溶かされた氷がカランと音を立て、引っ掛かりのある角をまるく作り直していった。

通話相手が話せる場所に到着して声を発するのが先か、注いだ水がグラスの縁を越えてシンクに零れるのが先か。
少年はただ黙ってその結果を傍観していた。

『もしもし?悪い、ちょっと手間取った』
「いいよ。でも先生の負けね」
『何の話?』

別に。少年は笑い、シンクに流れていく水を見送る。
適当に放ったボトルからは次々と水が溢れていくが、少年は気にしない。結果が出た後に興味がないのだ。それこそ昔から、そういう性分だったから。

『心配してたんだぞ。最近めっきり連絡が来ないから』
「よく言うよ。先生が心配してたのは、恭也先輩の事だけでしょ」
『そんな訳ないだろ。カナの事も心配に決まってる』
「その呼び方やめてって言ってるよね?まだ紗栄子の旦那になった訳でもないんだから、馴れ馴れしくしないでほしいな」
『つれないな。阿笠君は、いつまで経っても』

男が笑うから、阿笠は面白くない気持ちのままグラスの中身をシンクにぶちまけた。
八つ当たりだ。わかっている。
わざと連絡しなかった事もどうせ知られているだろうから、弁解する気も、男の嘘に付き合ってやる気もなかった。
姉が連れて来た婚約者だが、真面目そうな見た目とは裏腹に食えない男だ。本当に、腹立ちのまま殺してやりたくなるくらいには。

「いいじゃん、どうせ先生とはそう長い付き合いにならない」
『酷いな。それは俺と紗栄子が別れると言いたいのか?』
「他に何があるって?婚約者の弟に、元教え子の動向を報告させるようなショタコンがこのまま結婚出来るとでも?」
『お願いはしたけど、強制はしていないはずだがな』
「先生みたいなのが小学校の教師だなんて、世も末だね」

クツクツと通話口から腹の立つ笑い声が聞こえてくる。
阿笠は溜め息を噛み殺し、そのままリビングのソファへ足を向けた。

ストレス発散に縛って遊んでいた"犬"が、もがきすぎてとんでもない体勢になっている。動くと絞まるよとあれほど言ったのに、相変わらず使えないペットだと阿笠は犬を蹴り転がした。

『まぁその辺りはおいおい話すとして。電話くれたって事は、恭也に何かあったんだろ?』

男が切り出した為、阿笠は仕方なく口を開く。
これが最後の電話になる。全てを傍観してきた阿笠は、男の知りたがった結末を教えてやり、電話帳と記憶の中から番号を消す為に発信ボタンを押したのだ。

「そ。恭也先輩、とうとう落ち着いたよ」
『へぇ。やっと?』
「やっと。一応大団円になるんじゃない?幸せそうだし」
『恭也がねぇ…感慨深いな』
「だろうね。小六の時からストーカーだったんっしょ?」

阿笠の投げやりな言葉の暴力にも、男はダメージを受けていないかのように笑う。
肯定も否定もしない男の話し方に苛立つのも、悔しくなるのも今日で終わりにしなければならない。

『俺はただ恭也が心配だっただけだって。色んな不運を自分から吸い寄せるような子だろ?気になって仕方ない』
「確かにね。あの人の周りには、まともな人間居ないから。先生も含めて、だけど」
『手厳しいな』

たった一年、小学校で担任教師をしただけの縁を、ここまで引きずってきたのは事実だ。それだけでも充分頭がおかしいのに、男は更に阿笠に逐一恭也の事を聞きたがる。
姉との交際もそれが目当てなんじゃないかと勘繰る程度には、男は不審だった。

『それにしても…本当に幸せなんだろうか?』
「知らないよ、そんな事まで。そんなに気になるなら、自分で確かめれば?」
『ははっ』

幾度となく繰り返した進言は、またもや一笑され届かなかった。阿笠は足元に転がっている犬の腹に足を乗せ、深くソファに沈みこんで指で眉間をほぐすように揉む。

『阿笠君は可愛いな。早く弟だって、連れ回したいよ』
「冗談キツイ。絶対嫌だね。早く別れてよ、紗栄子と」
『そうしたら告白してくれるかい?』
「自意識過剰なんじゃないの?俺、恭也先輩と同じくらい先生が嫌いだから」

最初から最後まで受動的で、流されて生きる事しか能のない恭也は嫌いだ。見ているだけで吐き気がする。生温い世界で必死ぶっている姿が、阿笠にはいつも滑稽な悲劇のヒロインを気取っているように映った。

そして同様に、自らは何もせず、阿笠をコキ遣うこの男も嫌いだ。例え、逆手に取られた阿笠の恋心が人質だとしても。

『嘘が得意なのはいいけど、全人類平等に騙せると思っちゃいけないな。天の邪鬼は程々が愛らしい』
「…言ってろよ、カス野郎」
『まぁまぁそう怒らないで。…あぁ、もうそろそろ時間だ』

電話越しに、単調なチャイムの音が響く。時計を見た阿笠は、いつの間にか予鈴の時間になっていた針を戻してしまいたくなった。

「そんじゃ、これで報告は最後だから。俺の番号消しといて。紗栄子にバレてマズイのは先生だし」
『何言ってるんだ。未来の弟の番号を持っていて不自然なはずないだろ』
「足元見られて良いように使われるのは好きじゃないんだ」

どれだけ小まめに報告しようと、欲しい情報を掴んでこようと、男は阿笠の欲しがる見返りは寄越さない。
決して振り向いてくれはしないのだ。よりによって実の姉の婚約者に、抱いてはいけない感情を持ったところから阿笠の不運は始まっていたのだろう。

「恭也先輩は幸せになったし、話す事もなくなったからさ。さっさと結婚するなり別れるなりして消えてくんない?」

いやに心臓がドクドクと強い音を立てている。緊張していると気付いたところで利などないのだから、いっそ電話を切るまで思考する脳ミソも痛い胸の中も取り外してしまえたらよかった。
好きだと言えないこの口も、遠ざける事しか出来ない無意味な声も同じだ。

『その話もおいおいするよ。ご機嫌を取るのはうまいんだ。知ってるだろ?』
「……」
『はは。それじゃあな、阿笠君』

不機嫌なのを知っているなら、お得意のご機嫌取りをすればいいものを。
阿笠はふてくされ、無言のまま携帯を強く耳に押し当てた。最後だから。これで終わらせるから。恭也という口実を失った阿笠に価値はないと知っていたから。

『…あ、そうだ阿笠君』

しかし男はいつものようにあっさりと通話を終えず、珍しく阿笠を引き留めた。
まだ何か聞きたい事があったのだろうか。阿笠は更にふてくされる。

けれど男が発したのは、聞き慣れた『恭也』でも『紗栄子』でもなかった。

『今夜時間あるか?』
「は?なんで」
『今夜は紗栄子が居ないんだ。一人で夕飯を食べるのは楽しくないだろ』
「知るかそんなの」
『いいじゃないか。これからも長く付き合っていくんだから、飯くらい。今まで頑張ってくれたお礼と労いもしないとな』

出会って初めての誘いに、阿笠の心臓が期待を含んだ音を立てる。抱くだけ無駄なものだ。今すぐ電話を切るのが一番賢い選択だろう。

それなのに阿笠は、気付けば震えそうな声を搾り出していた。

「生半可なお礼じゃ…満足出来ないんだけど」
『知ってる。お前が貪欲なのも、倫理観が欠如してるのも、俺を欲しいのも』

掠れを帯びた厭らしい声だ。経験の差を如実に表され、阿笠は悔しさに唇を噛んだ。

「わかってんの?俺の思い通りにならないのは、先生だけだ」
『それも知ってる。あと、今夜の飯に付き合ってくれるのもな。面白いと思わないか?姉の婚約者に踊らされるのは』

夜迎えに行くよ、彼方。
男は愉快そうな笑い声の後、そう一言告げて至極あっさりと電話を切った。
残されたのは歯噛みする阿笠と、床に転がる犬だけだ。

「馬鹿みたい…俺だって、恭也先輩を笑えないじゃないか」

救いのない道を選んだ恭也と、阿笠に違いはない。
ただ一つ違うところを挙げろというのなら、阿笠はこれしかないと思っていた。

「あの人は何も知らずに流されていったけど。…俺は違う」

知っていて飛び込むのだ。
姉の婚約者の腕という不幸の中に。

(だってこの世に、完璧な幸福などどこにもないのだから)

END

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