違反生徒の問題を処理し終わった時には、部屋を出てから一時間弱が経過していた。

早足というより駆け足で部屋へ帰り、急く気持ちのまま荒々しく扉を開ける。
そこに恭也の靴があった事に安堵し、俺は寝室へ向かった。

「ただいま恭也、遅くなって悪……」

扉を開けながら言い、こちらに背を向けたままベッドに座り込む恭也を視界に収める。
その瞬間背筋を走った悪寒に、俺は息を止めた。

「…恭也?」

スラリとした背中は微動だにしない。
いや、それより。

充満している血の匂いは、なんだ?

「恭也…?」

俯いて晒されたうなじが、やけに頼りなく見えた。
一抹の不安が心臓を激しく追いたてる。

俺はコンビニの袋をその場に落とし、そろりと恭也の背中に近付いた。

一歩近付く度に濃くなる錆びた匂い。反応のない恭也。
焦りと、不安と…恐怖が胸を巣食っていく。

そっとベッドに乗り上げ、薄い肩に手をかけた。
ぐいと引くのは一秒にも満たないのに、俺にはそれが、とてつもなく長い時間に思えた。

「…っ何してんだ!」

薄暗い寝室のライトでも、その赤ははっきりと認識できた。

覗きこんだ先、恭也の手足と白いシーツに広がるのはおびただしい色をした赤、だったものだ。
これは、なんだ。いや、わかってる。これはーー血だ。

「恭也!」

普通に生きていれば見る事のない量の赤に、冷静さが吹っ飛んでいく。
恭也を無理矢理こちらに向かせると、俺の混乱はこれ以上ない程極まった。

「なん、こんな、お前…っ」

さ迷う恭也の視線が、自分の両手を捉えた。
釣られるように同じ場所を見た俺は、無意識に彼の持つカッターを奪った。

「あ…」
「てめーはアホか!このアンポンタン…!」

衝動のまま、汚れたカッターの刃を全て出して指で折り捨てた。それを見た恭也の目がまんまるく見開かれる。

「か、かいちょー…?」
「うるせー黙ってろ!」

一喝すると、俺よりずっと線の細い身体がビクリと震える。
けれど俺にはそれに構う余裕も時間もなくて、とにかく血を止めないとって焦り、着ていたシャツを脱いで恭也の腕を取った。

「くそ、どこだ…っ」

一番血塗れになっている手首の内側を探し、切った場所を見つけた。
どうやらそこまで深くはないらしく、赤が噴き出していないのだけは救いだった。

「今止血するからな、お前、後で覚えてろよ、絶対絶対、もうしないって誓わせてやるからなっ」
「かいちょー…」
「めっちゃ反省させてやる、反省文も書かすからな、だから、だから、もう、こんな事やめてくれよ…!」

みっともない。そう思っても、涙声は止められなかった。
シャツで患部を圧迫し、掴んで心臓より上へと上げさせる。
そうしながら空いた手で血に濡れた手足に、他の切った跡がないか確認していった。

「遅くなってごめんな、俺がもっと早く帰ってれば、こんな、事…っ、」

その他大勢を取った罰、なんだろうか。
飲酒喫煙なんて、恭也と天秤にかける程のものだったろうか。俺はあの時、迷わず恭也の元へ帰るべきだった。

懲りずに選択を間違えた結果がこれだとは、俺は本当に救えない馬鹿野郎だ。

そんな自分が情けなくて、腹立たしくて、込み上げるものが目頭から鼻の横へと流れ落ちていった。
唇の中に入ったそれは酷く塩辛い。なんだか涙にすら役立たずと罵られているようで、胸のど真ん中がジクジク痛んだ。

「恭也、保険医のところに行こう。縫合がいるかもしれない」

一通り恭也を触って傷がない事を確かめた俺は、赤く汚れた手のひらを重ねて指を絡めた。
ぬるついてて背筋の寒い匂いは変わらない。が、組んだ指の根本には確かに、小さく脈動を感じる。

「、恭也?」

その時、手の甲に透明の何かがポタリと落ちた。
ふ、と顔を上げた俺の目には、グシャグシャに歪んだ表情が映る。息をのむ。時間が止まったかのように思えた。

「かいちょー、ごめんね…っ」

恭也は、泣いていた。
さっきまでの無表情が嘘みたいに、ボロボロと目尻から涙を落としていた。

「俺、ね…っ、本当に、田所くんが、好きだったんだよ」
「恭、也…」
「あの頃は、確かに、好きだったんだ…!」

悲痛に掠れた声だった。
絞り出すような、切ない泣き声は恭也の『本音』だった。

「でも、あの人は俺に何も求めなかった」
「何も、って」
「放課後の掃除当番も、パシる事も、セックスだって、他の子にはやらせるけど、俺は、ただ、無償で部屋に置いてくれてた」

唸ってぎゅっと閉じた恭也の目尻から、また新しい涙が溢れ出た。

「でも、田所はお前を抱いたって…」

俺は唖然としたまま、譫言のようにそう言った。
強く閉じた瞼が開く。赤くなりはじめた瞳が俺を映してゆるりと笑んだ。

「だ、って…そー言わなきゃ、田所くんを好きな人達に、俺が痛い事、されるかも、でしょ?」
「…っ」

田所が恭也を囲う理由が必要だったんだ、と気付けば、むやみやたらに胸が痛んだ。

恭也は知らないだろうが、俺は田所の過去を調べたから知っている。
何故この学園に居るのか。何故恭也を助けたのか。傍に置いたのか。
田所の心の中を読み解くつもりはないが、少なくとも、クエスチョンに対するアンサーは持っていたから。

「…あいつのファン、過激だもんな」
「ふふ、ぅ…っ、でしょ?俺一人だけ、あの子達とタイプが違うから…田所くんは何も言わなかった、けど…」

夏休みの間ずっと一緒に居たんだ。それくらいなら、わかるようになってたんだ。

恭也はそう言って、止まらない涙を拭う事なくまたクシャリと顔を歪めた。

「だから俺、何か役に立ちたくって…お人形みたいなのが好きって言ってたから、じゃあそうなろうって…っ」
「あぁ」
「だけど、頑張れば頑張る程、田所くんは俺を遠ざけるよーに、なって…」

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