須田薫1

組み立てていた予定が崩れる音は、思っていたよりあっけらかんとしていた。

目の前の男が唇を釣り上げる。
その直前に語った名は、今この場にいるはずのない人物のものだ。

「…っ恭也!?」

恐らく俺は青ざめていただろう。
勢い良く振り返った先、少し開いた扉の隙間から覗く恭也の顔は、いっそ比べ物にならない程白んでいたけれど。

「俺、もういらない…?」

か細い声は、最悪の事態を示唆していた。
どこから聞いていたのかどうかは、聞く必要のない問題だ。要は、恭也が傷ついたかどうか。そして彼の言葉は、深い絶望を色濃く乗せて震えていた。

「うん、いらないね」

どこから見ても、誰から見ても、恭也は細すぎる望みに自らを繋ごうとしている。
それなのに田所はあっさりと、いつもは見せない笑顔でもってそう言いきった。

このままじゃマズイ。
俺がしてきた事も、後輩たちが喜んだ事も、変わりかけていた恭也も、全て泡と化してしまう。

俺は後ろ手に田所の肩を思いきり突き、そのまま恭也の元へ駆けた。
扉を開ききり、頼りない長身を抱き締める。

「聞くな恭也、部屋に帰ろう」

もう田所を見なくてすむようにと、自分の肩で視界を遮る。
もう田所の吐く刃が刺さらないようにと、片腕と手のひらで耳を塞ぐ。
そして強く強く、その身を掻き抱いた。もう、田所に心が壊されないように。

暖かい部屋に早く連れて帰りたかった。
昨日までと同じように広いベッドで、ここに居るからなって伝わるように抱き締めて眠りたかった。

しかし、抱いたまま扉の外側へ踏み出そうとした足はそれ以上進めなかった。
抵抗されたのだ。ただの一度も俺のする事に抗わなかった恭也の力で。

「おれ、…俺、やくそく、まもれなかった…?」
「恭也!」
「ふくかいちょー、ねぇ、ねぇ…あの、おれ、ちゃんと出来るよ、お人形、すきでしょー…?お人形みたいに、なるよ、もっともっと、ねぇ、」
「恭也もういい、いいんだ、だからっ」
「まって、あとは何を捨てたらいいの?どんな風になれば、俺いらなく、なくなる?」
「恭也…!」

何度耳を塞いでも、目を隠しても、抱き寄せても、恭也はそこに俺が居ないかのように言葉を重ねた。
まるでいたちごっこだ。田所の呪縛は俺が追いかける姿すら嘲笑うように、あらゆる言葉を用いて恭也を傷付ける。

「はぁ…仕方ないなぁ。じゃあはっきり言ってあげるよ、わかんないみたいだから」
「何も言うな黙ってろ!」
「そもそも、約束ってなんの事?」
「…っ」
「頼むから、黙れよ…っ」

は、と腕の中から苦しそうな喘ぎが聞こえた。
これ以上はもう、恭也がもたない。

長い付き合いだろう田所にはそんな事安易にわかるはずなのに、彼はまた一つ、その声に鋭利な刃物を忍ばせた。

「なんか勘違いしてない?お前を助けたのは気まぐれだし、お前をいるいらないの前に、俺はお前を必要とした事なんて一度もないから」
「でも、やくそく、守れば、捨てないって」
「だから約束ってなんのこと?つーかお前重すぎ。お前のせいで俺の本命が逃げたらどうしてくれんの?」

田所に最も似合わない単語が、俺の目を見開かせた。
毎日毎日男を取っ替え引っ替えしている節操のない男が使う言葉として、それは違和感ばかりが目立った。

「お前…何言ってんだよ、本命って…」
「そ。本命。好きな奴。片思いの相手。意味わかる?」

ケロリと言った田所は、俺たち二人を見てニコリと笑う。

「…どんな、人なの?」

俯いた恭也の静かな問いに、ふっと田所が表情を消した。
あるべきパーツがあるべき場所へ収まっているだけの、人間っぽさのない表情だ。人形みたいになりたいと言った恭也よりずっと、今の田所は無機物に見えた。

「よく笑って、すぐ怒ってすぐに泣く、甘ったれで一人じゃ何も出来ないヤキモチ妬きだよ」
「……」
「しかも俺の言う事なんて全くきかないし、生意気。すごく可愛いと思わない?」

泣かない。怒らない。頼らない。縛らない。変更された五つ目の約束は、笑うな。

恭也と交わした約束をすっぽり忘れた田所は、自分の理想だと言った人物像とは真逆の人に片思いしていると言う。

「…ざ、けんなよ、何が本命だ…っ。じゃあ、今まで恭也は何のために、」
「わかった」
「っ」

恭也は何のためにお前との約束を守ってきたんだ。

そう続けるはずだった俺は、服を引かれる感覚を覚えそれを飲み込んだ。
田所から腕の中へ視線を戻す。俯いた恭也は、もう一度、いやにはっきりした声でわかったと呟いた。

「そ?よかった。じゃあさよなら、お人形さん。須田には捨てられないよう、頑張ってね?」
「っ、行くぞ恭也!」

恭也の反応を待たず俺は抵抗されないようにその身体を担ぎ上げた。
恭也は、白い顔色のまま目を閉じる。

「…ばいばい」

小さすぎる声が届いたのは、俺にだけだった。

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