10


自身が両親の子でないと知ったのは、小学校高学年の時だった。

小さな頃俺はすごく我が儘で、親にも教師にも手を焼かせていた。それは不良、とかいうカテゴリーではなく、自分では悪戯っ子で済むレベルだと今でも思っているけど。

捕まえた蛙を母に見せて悲鳴を上げさせたり、父親のネクタイを拝借してペットの犬と綱引きしたり、先生の椅子にブーブークッションを置いたりしてた。
それはそれは毎日怒られてばかりだったけど、最後はいつも「恭ちゃんは本当にわんぱくね」と母さんは笑っていたし、「男の子はこれくらい元気じゃないとな」と父さんはいつも頭を撫でてくれた。先生は若い割りにお説教が長かったけど、「昔は先生だってなぁ」と俺よりヤンチャな小学生時代の話でお説教を締め括った。

今思い出しても、あの時の幸せは鮮明に甦る。
そのありふれた、俺にとっての幸せだけが崩壊していった時の、無力感と共に。

+++

この学園に逃げ込む際、俺は祖父から色々な話を餞別代わりに聞いた。

俺の両親は若くして結婚したものの、不妊でずっと悩んでいたのだそうだ。
検査もしたし、人工授精も行ったんだとか。それでも授からなくて諦めかけたのは、両親が38歳の時。そしてそれは、4歳の俺が里子として迎え入れられたのと同じ時だ。

その頃の俺は、人見知りもなく、わんぱくで、子供らしい子供だったそうだ。祖父はしわくちゃの顔を更にしわくちゃにして、初孫が出来たと喜んでくれたらしい。

会社を経営してて忙しい父親と、お嬢様気質でちょっと抜けてる母親の元で、俺はすくすく育ち、やがて小学5年生になった。

俺一人だけが入れない幸せが始まったのは、そんな頃だった。

「恭ちゃん、お母さんね、お腹の中に赤ちゃんが出来たのよ」

泣きそうな顔で報告してくれた母さんに、俺は飛び上がって祝福した。父さんも、祖父も喜び勇んで、ちょっとした大騒ぎだった。
両親は45歳だった。ほぼ諦めていた夢を、叶えられる最後のチャンスだったんだ。

父さんと母さんは酷く神経質になっていった。俺の悪戯を許してはくれなくなったし、甘えたくて近寄ると危ないからと遠ざけられる。寂しくて、不安で、だけど初めての弟か妹が出来るんだと思ったら、我慢出来た。
元気な赤ちゃんが産まれれば、また二人共今までみたいに朗らかな両親に戻ってくれる。今だけだから、頑張ろう。父さんも母さんもあんなに頑張ってるんだから、俺が泣き言を言っちゃいけない。
ーー兄ちゃんになるんだから。

時々祖父に慰めて背中を押してもらいながら、十月十日の月日が流れ、とてもとても小さくて弱くて、堪らなく可愛い弟が産まれた後すぐに。

ーー我が家に俺の居場所はなくなったんだ。



「こんなことしかできんで、すまんなぁ…」
「いーよ。しかたないよ。今までありがとね、じい…義郎さん」

俺の精神状態に配慮し、全寮制の学園を探して勧めてくれたのは祖父ーー義郎さんだった。

手土産として聞かされた両親の過去には、正直何も感じない。
子供が出来ないからと里子を引き取り、子供が出来たからと里子から興味を無くす。
それは一般論では酷いのかもしれないけど、責める気はない。

約8年も育ててくれたのだし、ようやっと夢に見た「正しい家族」を手に入れたのだから、紛い物がいらなくなるのは当然の流れだと、たくさんたくさん泣いた俺は漸く納得出来たからだ。

「じいちゃん、でええよ」
「そういうわけにはいかないよ。今までお世話になりました」
「まるで、今生の別れみたいやの…」

義郎さんは少し寂しそうに、しわくちゃの顔を俯かせた。
本心がどうであれ、その表情だけでも俺にとっては意味があった。

今日、学園に入学する俺を見送ってくれたのは、彼だけだったから。

「あやつらも、今はおかしくなっとるんや。暫くすれば、きっと恭也への愛情を思い出す」
「それは、ないよ。もうやめよーよ。俺はやめたよ、無い物ねだりするの」
「恭也…」
「誰も悪くないんだよ。ただちょっと、タイミングが噛み合わなかっただけ」

赤ちゃんにかかりきりの両親は、恐らく俺が義郎さんの元で進路を決め、彼のツテで入寮する事を知らない。
本当ならば全うな孫が出来た義郎さんもたくさん赤ちゃんを構いたいだろうに、彼は年長者なせいか最後まで俺の面倒を見てくれた。迷惑をかけた事が、とても申し訳ない。

「本当にありがとう。大人になったら働いて、学費を返しに行くから、頑張って生きててね」
「…」
「さよなら、義郎さん」

頭を下げて、学園内へと足を踏み出す。
義郎さんからの返事はなかった。俺はその事にとても安堵して、もう一度口の中でさよなら、と呟いた。

+++

つつがなく学園生活を送るつもりだった俺には、同室者で唯一無二の親友が出来た。
頭が良くて、俺よりずっと男らしい見た目で、性格なんて良すぎるくらい出来た奴。名前は椎名といった。

家に居場所がなくなったからとここに逃げて来た俺に、居場所を作ってくれたのも椎名だ。彼は初等部からこの学園にいたから仲間も多く、たくさんの人に慕われていたし、その友人として俺も認知され、思った以上に充実した生活を送っていた。

彼のおかげで元のわんぱくな性格はまた顔を出し、二人で悪戯したり勉強したり、とてもとても幸せだった。
このまま高等部に進学して、付属大に行ってもルームメイトで居ようねって約束もしていた。

けど、そんな幸せも、たったの数ヵ月で終わりを迎えたんだ。

「恭也、あのさ」

椎名が、いつもの目映い笑顔を隠して、死にそうな程掠れた声で口を開いたのは、中等部で初めて迎える夏休みの数日前だった。
生い茂る木々に止まったセミが、我こそはと求愛の叫びを木霊させている。涼しい室内から覗く外の景色は、爽やかで、目の奥が痛むほど目映い太陽に照らされた晴れの日だった。

「どしたのー?…なんか、あった?」

椎名のそんな顔を見た事がなかった俺は、かなり困惑しながら彼の肩にそっと触れた。
ーー瞬間、反転する視界。
椎名の先輩から譲り受けた年代物のソファに押し倒されたと気付いた時には、多分、俺達はもう戻れない場所にいた。

「好きだよ、恭也…」

産まれて初めてしたキスは、歯がぶつかって切れた唇の血の味だった。
信じられなくて、ありえないと思った。この学園には男同士の恋人達がたくさんいたけど、俺も特に何も感じてなかったけど、まさか自分がその当事者になる事など考えた事はなかったからだ。
ましてや、相手は椎名だ。親友で、ずっと壊れない友情を交わしたはずだから。

無理だ。それしか浮かばなかった。

「やだって、ちょ、椎名っ、俺ら友達でしょ…っ!」

被さる椎名を必死で押し退けながら、確か俺はそんな趣旨の言葉を叫んだはずだ。
正直必死過ぎてあまり記憶が明瞭ではない。

「お願いだから落ち着いてよ、ね、ね?友達は、こんな事しないでしょ…?」

今ならまだ、俺の中で全部なかった事にしてしまえる。本気でそう思った。
力強い腕に押さえつけられた事も、痛いばかりで血の味がするファーストキスも、「そうだね、ごめん恭也」と言って椎名が笑ってくれたら、夢だったんだって思えるはずだ。

けれど、そんな俺の卑怯な言葉に、彼は泣きそうな顔をしてみせた。それからすぐ、無理矢理に軽薄な笑みを浮かべる。

「何言ってんの」
「椎名…?」
「俺は、恭也を友達だと思った事なんて、最初からないんだよ…っ好きだから、傍に置いてたんだ!」

それは、確かに告白だった。
俺と彼は、初対面のあの日から、色の違いすぎる好意を向けあっていたんだ。

このままじゃ、俺はまた大切な人を失ってしまう。心地いい人の傍にいられなくなったらまた、どこかへ逃げなければならなくなる。

「椎名、俺…」
「いいよ、何も言わなくて。これだけ嫌がられたら…恭也が俺を男としては見れないって事くらいわかる」
「ちが、でも」
「もう無理なんだよ、お前見てたら、頭おかしくなる…っ」

押し退ける手はもう不必要だった。
椎名は自分からソファを降り、床に座り込んで背中を向ける。どうしたの、とその震える方をもう一度叩くほど勇気はなくて、俺は、彼の傍を取り戻せないと知った。

「しーな…」

耳が痛い程室内は静かで、ひたすらに俺を責めていた。
間違えてしまったんだ。俺は押し倒された時点で、もっと自然に彼を受け入れるべきだった。そうすればまだ、椎名は俺を見ていてくれただろうに。

裏切られた、と感じる自分が気持ち悪い。居場所をくれた人に、そんな嫌悪感を抱く事自体おかしいのだから。

「…俺さ」

漸く椎名が口を開いたのは、長い沈黙の後だった。

「転校するんだ。夏休みが明けたら新しい学校に通う」

ーーなんだ、そういう事。

「これでやっと、恭也の顔を見ずに済むよ。さよならだ」
「そ、んなに…俺が嫌い…?」

小さな声に、椎名はやっと振り返ってくれた。
いつも優しげに微笑んでいるはずの彼の目は、外に比べて暗い室内のせいか、酷く濁って見えた。

椎名はそれでも笑う。
見た事のない顔で、聞いた事ない声で。
必死で抵抗した時の自分はあまり覚えていないけど、彼の言葉は一字一句違う事なく覚えてる。

「言っただろ。好きなんだ。頭がおかしくなりそうなくらい」

+++

俺はその後、フラフラと一人部屋を出た。
もうあの部屋に居られないのはわかっていた。顔を見ないで済む、と言われても尚椎名の傍に居られるほど、俺は図太くない。

(今度はどこに…逃げたら、いーのかな)

いらなくなったから、俺は居場所を無くしてここに逃げて来た。優しくしてくれた祖父にも別れを告げた。
そしてここでも、見つけた居場所は俺の一方通行だった。

(どこにも行くとことか、ないよ)

親に、そして親友に突き放された俺は、一体何のために存在しているんだろうか?
生きている事で誰の役に立ち、どんな意味を作れるんだろう。

「…も、いーや」

考える事に疲れた俺は、ふと見つけた空き部屋に誘われるように足を踏み入れた。
中は誰かの溜まり場になっているのか、煙草の臭いが残っている。

部屋の隅に腰を下ろせば、埃がふわりと舞い上がった。細やかな白い粒が空中を漂うのを見てしまえば、反射みたいに鼻がムズムズするのが可笑しい。

「おれ、どーすればよかったんだろ…」

無意味な事だ。今更何を後悔しても、俺が大切にしてきたものは戻らない。壊れたものは元の形にならない。継ぎ接ぎしても、歪ですぐにまた崩れてしまうだろう。

ならば、と近くに落ちていたカッターナイフを手に取った。
それは粘着テープを切ったのか、刃先に茶色いガムテープが残っていて少しべついていた。

(簡単だよ。ここを切ったらたくさん血が出るはず。どうせ部屋には帰れないし、あと数日経てば夏休み…ここでそのまま放っておいたら、いつか…)

もしかしたら死体を見つけるかもしれないこの部屋にくる生徒も、学費を出してくれてる祖父にも申し訳ないが、甘い誘惑は拒み切れない。
俺は躊躇いも何もなく、刃を手首に押し当てて一思いにスライドさせた。

「…?あれ、ふふ、あんま痛くないんだー…」

くぱ、と開いた肉の間から、どす黒い血が溢れて腕を伝っていった。
多分、動脈とかいう部分はまだ傷付いていない。朧気な知識でそう思い、もう一度同じ場所に刃先を向ける。

彼が現れたのはその時だった。

「何面白い事してんの?志藤恭也」
「うん…?」

突如開いた扉。手首から顔を上げた俺の目には、真面目そうに整った顔立ちの男子生徒が映る。

「誰?俺の事、知ってるの?」
「知ってる。金本椎名の腰巾着だろ」
「…もう、違うよ」
「そうみたいだね」

彼はケロリとそう言って、埃っぽくて血生臭い室内に躊躇いなく踏み込んできた。

「その様子だと、金本にでも襲われた?」
「…っ、なんで」
「こ、こ」

男は自分の唇をトントンと指差す。恐らく椎名の歯で切れた唇に、血が残っていたんだろう。

「あいつのやり方は生温いね。詰めが甘い」
「なに…?」
「囲い方を間違えるからこうなるんだ。やるなら徹底的にやんないと。そうだろ、志藤恭也?」

男が何を言ってるかわからなくて、俺はぼうっとその笑顔を見上げていた。
近付いて来た男が、持ったままのカッターを取り上げ、血で汚れた刃先をポキリと折る。やめてよ何すんの、と言おうとしたけど、このままにしておけばその内死ねるだろうと思い直し言わなかった。

「死にたいの?」

目の前でしゃがみこんだ男は、俺の前髪を指先でかきあげた。遮るもののない視界で微笑む男は、椎名の顔を見慣れた俺もビックリするくらい整っていた。

「うん…もー、ね、帰るとこ、ないから」
「金本がダメだからって諦め早いんだ?」
「…親にすら見放された俺を傍に置いてくれる人、なんて、もー居ないよ」

ふぅん。どうでもよさそうな声だった。
男は暫く真っ赤な俺の手首を見つめ、やがて投げ出した手に手を重ねる。

「なら、俺の傍に置いてあげようか?」
「…え?」
「条件として俺の言う約束を守る事。それさえ破らなければ、親や金本みたいに捨てないよ。ま、破った瞬間捨てるけど」

どうする?と軽い調子で言った男は、似合わない仕草で首を傾げ口角を上げた。

「約束…守れば、一人になら、ない?」
「そう。簡単だよ。見返りのない言葉は信用できないでしょ。親の愛してるも、金本の好きも、いつかなくなるものだから。俺はそんな事言わない。だから勝手に捨てたりしない。そろそろさ、新しいお友だち欲しかったんだよね。どう?条件飲む?頷くなら早くしないと、そろそろ死ぬよ?あ、血液型は何型?」
「AB…」
「あそ。なら、頷いたら俺の血あげてもいいよ。俺もAB。下手な言葉より、安心できない?」

言葉を募らせはしているが、男はまるでゲームでも楽しんでいるような口ぶりだった。
俺が要求をのもうが、蹴ろうが、どちらでもいい。

それはあまりに無関心でーー魅力的に思えた。

「わ、かった…傍に、置いて」
「いいよ」

重い頭がカクンと落ちる。
怠いばかりの思考がまともに動かないのを自覚して、俺は目を閉じた。

さわ、と頬に人の髪の感触。
同時に手首にぎゅうっと圧がかかったのはわかった。

「俺の名前は田所麻侍」
「う、ん…」
「俺が求めるのは五つだけ。一回しか言わないから、よーく聞きな」

いち、泣かない。
に、怒らない。
さん、頼らない。
よん、縛らない。
ご、笑っていること。

「…覚えたら、寝ていいよ。ちなみに俺、お前みたいな出来損ないは嫌いじゃない。お人形みたいで」

その日、俺は彼の中に堕ちた。
一人じゃなくなるのなら、その約束はどれも簡単過ぎると思った。

俺は小さく頷き、彼は笑う。
ーーそれが俺達二人の原点だった。

(彼はもう、覚えていないかもしれないけれど)

前へ 次へ
Mr.パーフェクトTOP