17


 疲れ切って半ば気を失うように寝入ってから、数時間。目覚めた大雅は軋む身体を起こし、隣にある安らかな寝顔を見下ろす。
 ほぼ同時に眠ったものと思っていたが、汗と精液でドロドロだった身体は諒太が清めてくれたのか不快さがない。新しい服もきちんと着せられており、大雅は甲斐甲斐しい男の頭をゆったりと撫でてやった。

 出会ってから傍で過ごしてきた日々が、まるで走馬灯のように思い出される。気弱で大人しく、誰よりも優しい諒太の手を引いてどこへでも行ったこと。成長と共に見目麗しさに磨きがかる諒太へ、熱い視線を送る女性に対抗心を燃やし、好意を自覚して悩んだこと。しかし、すぐに開き直ったこと。

 付き合い始めてから行ったデート先も全て言える。大雅の言うことに頷いて笑う姿も、目どころか網膜に焼きついている。
 さすがにそれが大雅を独り占めするための作戦だとは思い至らなかったが、小賢しい計算ですら愛しい。どんな諒太も、大切にしたい存在であることに代わりなかった。

「本当の願いは叶った?」

 静かすぎる部屋の空気を、穏やかな女の声が震わせた。大雅は撫でる手を止め、それほど驚きもせず振り返る。

 ベッドの足元付近にちょこんと腰かけているのは、ベールを被り、紫のドレスを着た占い師ではない。そこにいたのは、賑やかな装飾のバッグを大切そうに抱える制服姿の少女だった。

「大兄、これからどうするの?」

 大雅がなんと答えるのか、彼女は知っているのだろう。優しげに細まる目元は、今日も諒太と同じで愛らしかった。

「諦めることにした」
「何を諦めるの?」
「諒太を諦めることを諦める」

 言い切ると、愛希奈は兄を起こさぬよう控えめに手を叩いて笑う。クスクスと奏でられる吐息の笑みは心底楽しげで、大雅も釣られて笑んでいた。

「笑いすぎだろ」
「笑っちゃうよ。そんなに諒兄が好き?」
「ああ、……好きだ」

 この気持ちを言葉にできることが、幸せだと思う。抱き続けることを怖がらないでいられるのは誇らしかった。
 愛希奈は身体を揺らして爪先をぶらつかせる。そして嬉しそうに目を伏せた。

「いいの? 二人は兄弟になるのに」
「死ぬほど謝って許してもらうしかねえな」
「あんなに苦しそうで、悩んで、擦れ違って……それでも恋をやめられないの」
「お前は息止めたままでいられるか?」
「無理だよ。死んじゃうもん」
「そういうこった」

 息をするより自然に恋をした。だからこの恋を止めたら、きっと息も止まる。もはやそれは、大雅ではなくなってしまう。

「諒太に……つらい思いさせたくねえって、幸せにしてやらないとって思ってた。けど、諒太が何を思ってるのか、そういえば訊いてやったことがなかったんだ」
「うん」
「こいつ俺が傍にいたら幸せなんだってよ。馬鹿だよなあ」
「似た者同士なんじゃない?」

 思いやりを滲ませて吐き捨てた愛希奈は、立ち上がって諒太のジーンズを拾い上げる。

「知ってた? 大兄は左ポケットで、涼兄は右ポケットなの」
「何が?」
「携帯を入れる場所」

 得意げに口角を上げる愛希奈は、言う通り右ポケットから諒太の携帯を取り出した。そしてつけたばかりの、願いの石が揺れるストラップを外す。

「二人共、手を繋いで歩く側に携帯を入れる癖があるんだよ。反対側はね、家の鍵。二人でいたら携帯見ないから。手を繋いだまま鍵を開けて家に入りたいから」
「……だから俺の左ポケット指差したのか」
「ふふっ、無自覚に惚気ててあたしが照れる。……じゃあ、そろそろ行こうかな」

 背を向けた愛希奈が小さな声で呟いた瞬間、大雅の胸が切なさで打ち震えた。戦慄く唇を無鉄砲に動かし、妹の名を呼ぶ。

「愛希奈」
「なあに?」
「ごめん、馬鹿な兄貴達で。心配させたよな」

 数秒の間を置いて、振り返った愛希奈は泣いていた。長い睫毛が瞬きの度、透明な雫を頬へと払う。それでも笑顔でいられる彼女を真似て、大雅は涙を堪えた。

「ありがとな」
「もう……大兄、全然あたしに気づかないんだもん。どうしようかと思っちゃった」
「そらお前、あんな怪しい格好してっから」
「それっぽくていいと思ったんだけどなあ」

 ポロポロと落ちる涙を袖で拭う愛希奈は、バッグを肩にかける。可愛らしい仕草で小首を傾げるから、諒太と同じ艶のある黒髪がふわりと揺れた。

「毎年、愛希奈にも二人でプレゼントくれるよね。嬉しかった。だからあたしも、一度でいいから二人にプレゼントがしたいって、神様にたくさんお祈りしたんだよ」
「ああ」
「だから二十歳の涼兄とも仲直りしたら、ちゃんと報告しにきてね。それから……」

 鼻を啜り、ほんのりと赤らんだそこを指で撫でる愛希奈は、少し不満そうな顔を作る。

「これ、このキーホルダー」


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