5
「指示したものはできているか」
「……すぐ持ってくる」
再度同じ話題を口にする気力もなく、逃げるように席を立つ。用意していた訴状のコピーを佐古へ渡し、カーペットに腰を下ろした間宮は合わない視線を虚しく思うのが嫌で、膝を抱いた。
第一回口頭弁論までに、準備書面というものを提出するそうだ。間宮は佐古から、訴状の内容を正否、不知に分類して、母のことを記憶にあるだけ全て書き記せと言われていた。
とは言え初めての作業は疑問だらけな上、質問ができる状況でもなかった。彼の眉間に現れた深いしわを見て不安が募る。
「ねえ、それで合ってる?」
佐古は集中しているのか、返事すらしない。
諦めた間宮が呼ばれたのは、待ちくたびれてウトウトと微睡みかけたときだった。
「多く書いたな」
「んん? ……ああ、うん」
字が細かかったせいか、膝に訴状を置いた佐古は眼鏡をずらして目頭を揉む。
間宮は頭を振って眠気を散らした。
「何書けばいいかわかんないから、浮かんだこと全部書いたんだ。ごめん」
「構わない。必要か不必要かを考えるのは僕の仕事だ。情報が多いに越したことはない」
首を捻って関節を鳴らした男は次いで肩も回し、ソファの背もたれに沈む。
「生後二カ月で祖母に預けられ、六歳で初めて母と同居、八歳で二度目の蒸発、その後も短いスパンで同居と別居の繰り返し……母親は完全なネグレクトだが、父親は?」
「知らない。どっかにいるんじゃない?」
男の落ち着いた眼差しが、間宮を探るように見つめた。
「随分と他人事だな。こんな状況でも、君からは恨み一つ感じられない」
「どうでもよかったから。母さんがどこで誰と何をして、どんな目に合っていようが。いない方が平和だから、ホッとしてたくらい」
嫌いかと言われると恐らくそうでもないが、好きかと訊かれても頷くことはない。母への感情は回線がどこかで千切れているかのように、間宮の中に存在していなかった。
「まあ、さすがに警察から自殺したって電話かかってきたときは複雑だったけど」
「つらかったか」
「さあ……ただ、よかったな、とは思ったよ」
「よかった……? 死んだことがか」
間宮は膝に顎を乗せたまま、薄く微笑んだ。
「普通の生き方ができない人だったんだ。働くことも平凡な主婦をすることも、壊滅的に向いてなかった。そのくせ寂しがり屋で、甘え上手で……男何人も作って、貢いでもらって。揉めて大ごとになったのだって、俺が知ってるだけでも一度や二度じゃないし」
佐古が口を挟まないから、止めどころがわからない。誰にも話したことのない母への奇妙な感覚は、次々と口から零れ落ちた。
「あの人にこの世はすごく生きづらかったはずなんだ。男と喧嘩した勢いで薬いっぱい飲んで死んだらしいから、多分本人も本当に息が止まるなんて思ってなかっただろうけど……俺はあの人が楽な場所に逝ったなら、それでいいと思ったよ。一応、最後の身内だったから心細くはなったけどね」
そのくせ涙は一滴も出てこなくて、火葬を終えた間宮は非情な自分を嘲笑った。腹を痛めて生んだ息子すら捨て置いた母と、遺品や保険金ごと弔う義務を手離した息子は、きっと似合いの親子に違いない。
色褪せた感傷を想起し、はたと我に返る。
男の眉間には思った通り二本の谷間が刻まれており、咄嗟に笑みを浮かべた。
「ごめん。それより、他に話しといた方がいいことある?」
しかし男は何かを考えているのか、聞こえていないようだ。
「君の母が亡くなったのは……僕と出会うほんの少し前のようだが」
「え……あ、うん、そうだけど……」
「何故あの夜、君が僕に声をかけたのか、ずっと気になっていた。飛躍しすぎかもしれないが、もしかすると君は……」
膝上の訴状へ固定されていた男の視線が、ゆっくりと間宮を捉えた。
「傍にいて寂しさを埋めてくれるなら、僕じゃなくてもよかったんじゃないか?」
ヒンヤリとした嫌な汗が背筋を流れ、間宮は唇を無意味に開閉させる。その様子を見て、佐古は耐えかねたように鼻で笑った。
「は……っ。喧嘩一つしたことがなかったのに、どうして君がいなくなったのかと思っていた。知らぬ内に傷つけたのかと悩み抜いた。だがそうか、初めから……君の気持ちが僕になかったなら、全て納得できる。……とんだ裏切りだ。君に夢中な男を見るのはさぞかし気分がよかっただろうな」
真実を話さず、優しさを甘受していた罰なのだろうか。ただでさえ温度のない視線が、少しずつ確実に嫌悪へ変わっていく。
動けない間宮に、男は冷笑を浮かべた。
「そんな顔をするな。君に弄ばれていたからと言って、仕事で手を抜いたりはしない」
「ち、が……そうじゃ、なくて」
「弁解も必要ない。とうに終わったことだ」
「違う……っ!」
反射的に声を張り上げた間宮は、気づけば佐古に詰め寄って手首を掴んでいた。
今更何を言っても、言い訳になるだけだ。
頭ではわかっているのに、彼に与えてしまった誤解を解くことしか考えられない。
「確かに、誰でもよかったよ。でもそれは最初だけだった。軽い気持ちで春馬さんと一緒にいたわけじゃない」
「それを僕に信じろと?」
「し、信じられないと思う……けど、本当なんだ。春馬さんは特別な人だった」
「では何故、君は唐突にいなくなった」
「それは……」
口ごもる間宮の手を振り解いた男の目は、すっかり呆れ返っていた。
「言い訳くらい考えてから否定しろ。僕に無駄な時間を使わせるな」
話題への興味を失った佐古はソファを立つ。
しかし男はそれきり足を踏み出すことなく、不機嫌な顔で間宮を見下ろした。
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