白い壁に囲まれた清潔感のある一室で、間宮は肩を狭めて息を殺す。定期的に奏でられていた紙の擦れる音が止み、十数枚の束がテーブルに置かれた。
 かれこれ五分ほど無言で書類に目を通し続けていた正面の男は、まるでロボットのように無機質な目で間宮を据える。咄嗟に逃がした視線は、手元に置いた名刺を映した。

 ――弁護士、佐古春馬。

 受け取ったばかりのそれは彼が、今から丁度三年前に捨てた元恋人であることを間宮に突きつけている。
 届いた訴状を握り締めて駆けこんだ弁護士事務所の一室という、信じられない状況での再会を運命と呼ぶのなら、それを司る女神はとんだ性悪に違いない。

「残念ですが、間宮さん」

 久方ぶりに彼が発した声は、間宮の知る佐古とは別人の如く冷めきっていた。

「あなたの母、沙也加さんが生前に原告の田沼から借り受けた約二千万円は、法定相続人である間宮さんの負債となります」

 尋常ではないバツの悪さすら霞む宣告が、間宮を項垂れさせる。

「どうにかして相続放棄とか……」
「先ほど申しましたが、あなたはお母様が生前に受け取るはずだった交通事故の示談金を相続済みですので、まず不可能でしょう。裁判で戦うか、諦めて負債を背負うか、自己破産するか。今ある選択肢は三つです」

 淡々と並べられた未来は、夜通しネットで調べ回って得た推測と同じだ。藁にも縋る思いで相談に来たが、もはや救いはないらしい。
 そもそも元恋人から借金相談をされる佐古の気分を考えるだけで、物理的に消えたくなる。たかか二十三年の生で培ってきた自尊心では絶望感に対抗しきれず、間宮の心はポキリと折れた。

「勘弁してよもう……」

 憤りも失望も越えて、疲弊感だけが残る。
 脳裏に浮かぶのは、美人で自由奔放で、捧げられる愛以上に人から憎まれた挙句に三年前、身勝手に世を去った母の顔だった。
 混乱が極まって頭を抱える間宮を、佐古は冷静に観察している。

「負債を全くご存知なかったのですか」
「俺が高校生のときから行方不明だったしね」
「死亡保険金などは」

「あったけど微々たるものだったし、内縁の夫って人に示談金ごと全部渡したから」
 怪訝な表情を見ずとも理解されていないのはわかっていたが、財産を手離した理由を話す必要はない。主張はただ一つ、母の借金を返済する気が一切ないことだけだ。
 育ててくれた祖母の尻拭いなら喜んでするが、間宮は母を母だと思っていない。親子として生活したのもトータル五年ほどで、あるはずの情は渇ききって久しかった。

「なんでこうなるんだろう……」

 遣る瀬なさが込み上げ、苦々しく呟く。
 すると佐古は見本のようないい姿勢を崩すことなく、唐突に提案した。

「では、戦ってみる気はありませんか」
「……はい?」
「こちらを今一度ご覧になってください」

 男は狼狽える間宮の前へ、証拠資料として添付されている三枚の借用書を並べる。そして彼が示す場所を順に目で追った間宮は、貸付日と金額が箇条書きで印刷された一枚目と二枚目の下部、署名部分に違和感を覚えた。

「……? これ、母さんの字じゃない」
「そうですね。明らかに手書きの借用書と筆跡が違います」

 佐古は全てが手書きで貸付金額が少ない三枚目を、他の二枚と離して置いた。
右上がりで終筆の曖昧な丸文字が気軽な文章を綴るそれは、署名の後に小さなハートまで添えられている。しかし驚くべき常識のなさは、間宮に母の片鱗を感じさせた。

「この三万円の借用書は、絶対母さん……」
「十年以上前から一度に数百万円ずつ、これだけの大金を貸すのに、正式な借用書を使用しないのも不思議です。まるで、急ごしらえで作成したように思えます」
「……この二枚が偽物かもってこと? 相手方の弁護士も、裁判所だって目を通してるんじゃないの」
「真偽を争うのは法廷内ですので、書面に不備がなければ前段階でふるいにかけることはありません。訴えた者勝ちですね」

 善良な一市民としては聞きたくなかった内情が、間宮の口元を引き攣らせる。

「じゃあ何、俺は存在が定かじゃない借金で訴えられてる?」
「あくまで可能性の話ですが。こういった貸金請求事件においては、被告人不在で原告の勝訴になることも多いので」

 不満とショックで言葉を失う間宮を呼ぶように、スラリと伸びた男の指先が並べた書類をこつこつ叩いた。

「要はこの二枚を偽物だと裁判官に思わせることができれば、あなたの勝ちです。たとえ本物でも、死人に口無しですから」

 身も蓋もない物言いだが、仄暗い絶望感の中に小さな希望が顔を出す。「戦う」という選択肢を考えもしなかった間宮にとって、それは光明のように感じられた。

「勝てたら、払わなくていい……?」
「ええ。ただ裁判をするとなると当然、弁護士費用もかかりますし、かなり精神的に疲弊しますのでよく考えてみてください。返事は今日でなくとも構いません」

 間宮はいつの間にか滲んでいた手汗をジーンズで拭いた。容易く頷くにはハードルが高いものの、納得できない負債を背負って生きていくのは我慢ならない。とはいえ悠長に悩んでいる時間はないだろう。

「……勝てる見込みは、どれくらい?」

「五分五分です。裁判に絶対はありませんので、弁護士として断言はできません。しかし」
「しかし?」
「私は個人的に、この訴訟が不愉快です」


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