19/END


「じゃあ証人欄まで埋めなくてよかったんじゃないの? 一人で報告しちゃってさ……」
「もちろん挨拶には連れていくが、母の反応が読めなかったから念には念をと思い先に説明を済ませた。その件に関してはすまない。だが万が一、君の持病が顔を出したとしても、こうしておけば僕の身内に気が引けて逃げ出せないだろう画策した」

 ポカンと口を開けた間宮は、わかりやすく噛み砕かれた意図に驚愕した。

「……外堀から埋めようとしてる?」
「有り体に言えばそうだ。手っ取り早い首輪だと思え」
「俺犬じゃないよ」
「ああ、伴侶だ。それで書くのか、書かないのか。どっちだ」

 不遜な態度で目の前にチラつかされたペンを引ったくると、男の唇が艶めかしく口角を上げる。
 ソファを降り、握っていたせいで少ししわの寄った紙をテーブルへ叩きつけた間宮は、語気を強めて叫んだ。

「書くよ、当たり前だろ! ったくもう……やることが一々斜め上すぎるよ、弁護士のくせに。普通そこで婚姻届けとか思いつく?」
「素直に喜んだらどうだ。僕は思いついたときに、最高の案だと自画自賛した」
「すごい小細工……」
「君に看取られたい」
「仕方ないなあ……じゃあ俺は数年一人の生活を楽しんでから、寂しくなった頃にさくっと老衰で後追いするよ」
「老衰で後追い? 君はまた難しいことを」

 クスクスと鼓膜を震わせる男の笑い声が、幸せそうにとろけている。浮き足立つ内心を知られないように渋々を装ったのは、単に恥ずかしいからだ。それすらも、佐古には筒抜けなのだろうけれど。

「……ん。書けた」

 密かに緊張しつつ空欄を埋めると、頭の横から印鑑ケースが差し出される。

「一生使うものだから新しく作っておいた」
「用意周到すぎて怖いから」

 間宮は溜め息を吐き、新品の印鑑を署名の隣に押した。たちまちの内に完成した婚姻届けを畳み直し、顔を向けないまま背後の恋人へ渡す。

「はいできた。佐古智樹です」
「語呂もいい。同性婚ができるようになったなら責任を持って僕が提出しよう。死ぬまでに法が改正されそうになければ、頃合いを見て養子縁組を行うが問題ないな?」
「いいけど……そこまでしなきゃいけない?」

 押しが強いのはいつものことだが、佐古は妙に法律上の「家族」にこだわっているように思えた。
 間宮はどんな形であろうと、もう一生佐古の傍を離れる気がない。その思いさえ地に足がついていれば、書類で契約を交わすことは必須だと思えなかった。
 だが佐古は間宮の後頭部を婚姻届けで軽く叩き、これ見よがしな溜め息を落とす。

「当然だ。死ぬまで一緒にいるのに、死んでから別々の墓に入れられたら癪に障る」

 思いがけない回答に呆気にとられた間宮だったが、最も気になるのは男の思考回路ではなかった。

「春馬さんって俺のこと好きすぎない?」
「気づくのが遅い」

 振り向いた間宮の頭を満足そうに撫でた男は、丁寧に封筒へ婚姻届けを仕舞う。
 たった一枚の薄い紙には、二人分の覚悟がしたためられた。それは薄暗いバーで声をかけたときも、芽生えた恋を押し殺したときも、そして偶然に再会した日も想像し得なかった未来へ続いている。頑なに孤独を決めつけていた生の行方には、年老いた自分達の寄り添う姿を思い描けた。
 間宮はそんな自分が誇らしくなって、身体ごと恋人へ向く。気づいた男は相変わらず冷たさの拭えない目元を和らげて、自らの太腿を叩いた。

「今度は来るか?」

 こうして呼ばれるのが好きだ。
 間宮は破顔して頷き、膝の間に身体をねじこむ。枕となる腿に柔らかさはないのに、心地よくて堪らない。

「寝たらごめん」
「構わない。顔といい態度といい……君は野生を捨てた猫みたいだ」
「犬の次は猫? なんでもいいけど多頭飼いはNGだからね」
「僕を独占したいのか? 可愛い奴め」

 髪を撫でつけるように動く手が気持ちよく、ゆったりと目を閉じた。本当に寝るつもりはなかったはずなのに、彼の膝に懐くと反射的に欠伸を零してしまうから困る。
 襲いかかってくる睡魔に抗えない間宮は、ふわふわとした恍惚に身を任せて微睡んだ。

「ホントにさあ……まさか婚姻届けを書く日がくるとは思わなかった」
「僕も、よもや未来の妻にナンパをされるとは思っていなかった」
「妻はやめない? っていうか今更だけど声かけたとき、なんで断らなかったの」
「気になるか」
「なるよ。俺すごい軽く、付き合ってくんない? って訊いた気がするもん」

 少々潔癖なところのある彼の性格上、軽い付き合いはおろか一夜限りも受け入れがたいはずだ。今だからこそあの夜、佐古が頷いたことがどれだけ貴重かよくわかる。
 男の膝を叩いて答えを催促すると、佐古はその手を押さえて止めた。

「そうだな。確かに普段なら無視をした」
「もしかして俺の顔が好みだったとか?」
「君の顔立ちは非常に好ましい。それとあの日は何故か……この男と一緒にいなければ後悔する、と思った」
「何それー。じゃあ……運命だ」

 つまらない映画の影響でおどけて笑うが、男は妙に真剣な声色で「そうだ」と続ける。

「何度遠ざけても巡り合う自信がある。君と僕は、運命で結ばれているからな」

 間宮は堪えきれず吹き出した。眠気まで少し醒めてしまい、膝から顔を上げる。

「らしくないって言ってごめん。その台詞、意外と似合ってたね」
「どうだ。やはり重いか?」
「ううん……もっと重くていいよ。散々コケにしてきたけど、今なら運命の女神に馬鹿にしてごめんって謝れそう」
「あれは気まぐれがすぎる。すぐに他所を向いてしまうだろう」

 偶像に悪態を吐いた男の手が、間宮の頭を軽く押さえて腿へ促す。抗わずに間宮専用うたた寝枕へ頬を置くが、既に睡魔はどこにもなかった。まだ話をしていたくて、目線だけで男を見上げる。

「もしかしたら焦らし上手なのかもよ」
「ああ、とんだテクニシャンだ」

 言い回しがあまりに可笑しく、間宮は声を出して笑う。浮かんだ涙は佐古の指先が掠め取っていった。

「だが、今は感謝している」
「ん?」
「君がここにいる。僕はとても幸せだ」

 男が愛しげに目を細めるから、間宮は伸び上がるようにして佐古の首へ腕をかける。

「俺ね、春馬さんが大好きだよ」
「ああ……」

 背を抱き返す男は、溜め息を吐くように笑う。間宮はそれが心地よくて、気恥ずかしさで未だ言えていなかった重い願いを小声で囁いた。

「だから、一生愛して」

 素敵な運命でしょう、と耳打ちする誰かは、こちらを見つめて微笑んでいる気がした。

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