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「ああ、千寿やけど」

 男は一瞬無言になり、嫌そうな声を絞り出す。

『……あんた、僕の番号破り捨ててたよね?』
「職業柄、英数字には強いねん。十一桁くらい一回見たら暫く覚えとるわ。それより……」

 千寿には、思い通り物事が運ぶ自信があった。根拠を付け足すのであれば、この男が自尊心の高さを隠さないことと、弦の気持ちが未だ千寿の傍にあることだ。

「弦が家出したんやわ。多分そっち行くやろから、住所言えや。迎えに行く」
『へえ……僕が正直に言うと思う?』
「言うやろ。お前は」

 聞き直さずに済むよう、手元にメモとペンを用意して唾をのむ。
訪ねて来た弦を、プライドが高い男は拒まない。見限られた千寿を嘲笑い、弦を手中に収めた気になるはずだ。
 そんな男が、自分と千寿のどちらかを弦に選ばせられる舞台を嫌うはずない。わかりやすい優劣は、彼に快感を与えるだろう。
 賭けたのは、弦との明日だ。ギャンブルは運よりも、情報と統計が大切なのだと教えてくれたのは、出会った頃の田辺だった。
 だから、このヤマは外さない。
 案の定、男は上機嫌で喉を鳴らし――千寿の望み通り住所を口にした。


 淡々とした女声のナビゲーターに案内されるまま車を走らせると、二階建てのマンションへ辿り着く。千寿は早速、男から聞き取った部屋番号を探し、一階の奥から二戸目、表札のない部屋のチャイムを鳴らした。
 中から人の話し声が聞こえ、扉が開かれる。
 ラフなスウェットに身を包んだ男は、千寿を見るなりニンマリと口角を上げた。

「来るの早いね。必死すぎてダサいよ?」

 一々神経を逆撫でしてくる男を押し退け、断りなく玄関内へ足を踏み入れる。無礼な態度に男は不満そうだが、千寿は気にせず室内を見回した。
 帰国したと言っていた通り、どうやら引っ越し直後らしい。廊下のないワンルームタイプの部屋には段ボール箱がいくつも積まれ、窓際に置かれたソファ以外に大型家具はまだない。
 そんな中、弦はロフトへ上がるための梯子に腰かけて目を見開いていた。

「え、……え、なんでここに……?」
「迎えに来た」

 口をパクパクと開閉する様は、さながら酸欠気味の金魚だ。男に何もされていないようで安堵する千寿だったが、背後から親しげに肩を組まれて不快指数が異常に高まった。

「触んなや、気色悪い」
「あんた口悪すぎでしょ。そりゃ、弦も僕の所に帰ってくるわけだ」

 頬に唇が触れそうな位置で囁かれ、千寿のこめかみに青筋が浮かぶ。数秒しか我慢できず手が出てしまいそうになったが、立ち上がった弦に意識を向けて誤魔化した。

「待ってよ先輩、俺、帰ってきたわけじゃないって言った」
「は? 誰に向かって口きいてんの?」

 男の声が一気にトーンを下げて刺々しさを醸し出すと、弦が表情を強張らせる。
 千寿は咄嗟に肩へ引っかかっている手首を掴み、男が弦に近づかないよう牽制した。

「えらい物の言い方やな。うちの弦に」

 決して捨てたつもりも、この男から弦を借りていたつもりもない。以前去り際に投げられた嫌味を返すと、男はその顔に嘲笑を作る。

「あんたも何言ってんの?」

 男は手首を掴まれた腕を振り解くでもなく、千寿の喉をぐっと圧迫する。驚いて呻くと、弦が焦った顔で一歩を踏み出した。

「ちょっ、と、何して……っ」
「結局、弦は僕から離れない。そうだろ?」

 男は千寿の喉を命に別状がない程度に絞めながら、片手間に弦へ問いかけた。

「僕はお前のことならなんでも知ってる。お前は賢いからわかるよね。誰に飼われるのが自分の幸せかってことくらい」
「俺の幸せ……」
「そう。知ってるよ。親も、僕が紹介してやった男も、その次もその次も、この男だって結局はお前から離れていっただろ? 戻ってきてやれるのは僕くらいだよ。簡単なことだから理解できるよね?」

 声さえ出せたら全力で罵倒してやるのに、もがいても仕事中毒のインドアである千寿は、若く逞しい男の力に敵わない。
 苦し紛れに足を踏もうと踵を落とすが、容易く避けられた上に片腕を背中側で捻り上げられてしまった。ちょっとの筋トレで腱を痛めてしまう千寿の関節は硬く、暴れると捻られた肘に痛みが走る。

「う、ぐぅ……ッ」
「ほら弦、早く追い出してあげないと、このお兄さん可哀想だよ? うーわ、涙目だし……弦?」

 軽く脂汗が滲み始めた千寿は、ふと気配を感じて近づいてくる弦を見た。
 彼は温度の感じられない無表情で面前へやってきて、す、と手を持ち上げる。
 掴んだのは――喉を絞める男の肘だった。

「何してくれてんの?」
「は? っぅ……い、痛いだろっ」
「っていうか聞いてないよ。なんで顔見知りになってんの? それって俺の知らないとこで接触したってことだよね? この人に何言ったの? 何したの? ねえ、いつまで千寿さんに触ってんの?」
「い、ってえよ馬鹿力、離せっ!」

 千寿がいくら引いても離せなかった腕を、弦は難無く剥がしてしまう。相当指先に力が入っていたのか、男は痛がって手を引いた。


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