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 愛情とは見返りを求めるものか、求めないことか。哲学には明るくないが、千寿にはどちらも平等な愛に思えた。
 弦に与えられた愛情で幸せに微睡む日がくることを願っている。しかし、ただ傍にいてくれればいい、と思う気持ちも嘘じゃない。
 千寿は弦が安心しきった顔で寄り添ってくれるだけで、嘘偽りなく幸福であると断言できるというのに。

「行ってまうんか」

 ボストンバッグを持ち上げた弦が、遠慮がちに千寿の頭を撫でた。広くはない玄関で、彼は千寿を避けて扉へ一歩近づく。

「……こんな俺で、ごめんね」

 結局、千寿は彼の仮宿にしかなれなかったのだろう。いつか必ず弦の気持ちが自分を向くのだと、能天気に思いこんでいた十数分前までが懐かしいほど遠く離れていく。
 これまで好き放題に愛して欲深い恋人へと育てた挙句、耐えかねて置き去りにしてきた千寿への、これは罰なのかもしれない。

「知らんかった。捨てられんのって、こんな悲しいもんなんやな」

 背後で小さく、乱れた呼吸音が聞こえた。零れ落ちた嗚咽のようなものが、都合のいい幻聴かどうか確かめる勇気はない。
 こんなにあっさりと、彼との別れがやってくるなど考えもしなかったせいだ。

「信じられんかったんやろけど……俺はお前と、ずっと一緒におりたかってんで」

 喪失感と共に、年上としてのプライドは影も形もなくなったようだ。
 千寿は自分の見た目が人に「か弱そう」だの、「気位が高そう」だのという印象を与えると知っていたから、普段から図太くて自信家の、頼り甲斐ある男であろうとした。その理想に産まれ持った器用さがついてきてくれたから、事実いつでも頼られる側だった。
 だが、このつらさは取り繕えない。左胸の奥が痛むのは、そこに増え続けている愛情が渡す当てを失うことに怯えているからだ。泣き言を口にする情けなさより、襲いくる寂しさのほうが容赦なく千寿を苦しめる。
 その苦痛も、やがて聞こえた扉の開閉音で慰めを失くした。

「……やっぱり、好きになんの向いてへん」

 千寿はノロノロと部屋へ入り、ベッドへ倒れこんだ。
 仕上がったプログラムのバグを探すように、弦に対する己の過ちをデバッグしていく。よかれと思ってかけた言葉も、喜んでほしくてやったことも、今となっては自己満足に思えて仕方なかった。
 年上ぶった余裕の告白が、彼の心に届かなかったのも無理はない。格好つけて待つくらいなら、見苦しくても真摯な本音を彼が疑う暇もなく囁き続ければよかった。弦と過ごす日々が無限であると思いこみ、恋に浮かれて、周りが見えていなかったに違いない。
 千寿はたっぷりと時間をかけて呆けた後、起き上がってバッグから白い紙袋を取り出した。国内時計ブランドのロゴが印刷されたその中には、さっき買ったばかりの腕時計が収められている。

「誕生日やのに……祝ったれんかったな」

 すっかり無用の長物となった贈り物を包装箱から出す。ゴミ箱へ入れるかどうか悩んだが、弦が今にも考え直して帰って来るかもしれない、という卑しい期待が躊躇いを生んだ。
 仕方なくテーブルへ時計を置いた千寿の視線が、弦の木製チェストを捉える。ベッドを離れてチェストの前へ腰を下ろし、上から順に引き出しを開けていった。
 空が三段続き、四段目には貸していたシャツが丁寧に畳まれていて無駄に傷つく。懲りずに一番下段を開けた千寿は、捨てさせたつもりでいた物を見つけて眉を寄せた。
 シンプルな、深緑色の大学ノートだ。忌々しいタイトルは視界に入るだけで心苦しくなったものの、手に取って捲っていった。
 以前と同じく弦の個人情報から始まるノートには、変わらず目を逸らしたくなる内容が並んでいる。千寿はどうしてか、書いてある内容を否定しようと躍起になっていた。

 ――食べ物に好き嫌いはない。シトラス系の香りを好む。色はブルーが好き。
 千寿の知っている弦は豆腐が嫌いだ。食べはするものの顔が引き攣っているし、醤油を多量にかけて味を誤魔化している。
 シャンプーを買いに行ったときはローズ系の香りばかりに興味を示していたし、服屋に立ち寄ったときは自ら「パステルピンクが一番好き」だと言っていた。
 その他にも、千寿の認識と相違する記述はいくつもあった。妙な優越感で、口元が綻ぶ。

「あの男、弦のこと、なんもわかっとらん」

 弦と過ごしたのは、たったの一カ月半だ。
 きっと今後も一緒にいれば、もっと色んな弦を知れただろう。それこそ、何故このノートを「置いて行った」のかも。
 静かに読み進める千寿は、白紙のページに差しかかったところで新たに書きこまれている丸文字を見つけた。

「……アホめ」

 何度も、追加された情報を読み直す。
 繰り返し読んだ後で、込み上げる喜びに泣かされそうになり、目を閉じた。ツンと鼻の奥が痛むから、指でつまんで息を止める。
 瞼の裏にいる弦は近頃よく見せてくれるようになった、屈託のない顔で笑ってくれた。
 ――千寿さんが好きだよ。
 弦の字で綴られた短い告白は、千寿自身が過ちだと結論づけた行いに花丸をつけた。項垂れている場合じゃない、さようならも言われていないだろう、と丸くなった背中を押す。
 記憶を漁り、瞼を開いた。大丈夫だ。まだ憶えている。まだ、弦を引き留めることができる。
 スーツのポケットから携帯を取り出し、蘇った番号へ発信する。コール音はたったの二度で途切れ、もう話すことはないと思っていた男の声が聞こえた。

『誰?』


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