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「でも先輩がいると、寂しさが紛れたんだ。イイ子にしてたら優しかった。馬鹿だって思うだろうけど、俺が先輩を好きでいるには十分な理由だったよ」
「ん……それから?」
「先輩がカナダの姉妹校に留学する代表生徒に選ばれたんだ。結果が残せれば帰って来ないかもって……ペットは連れて行けないって言われた」

 目頭に唐突な熱さを覚え、千寿は思わず額を押さえた。噛みしめた奥歯が震える。平然と言う弦の横顔が変わらないのが、余計につらかった。

「俺は恋人だって思ってたんだけど、違うかったんだって。それで……貯金も取られてたし、お先真っ暗な俺を、先輩は知り合いの家に連れてった。そんでね、言ったんだ。今度はここのペットになりなよって。それが、千寿さんの質問に対する答え」

 絶句する千寿に、弦は軽い調子で「常識的に考えておかしいよね」と笑う。カラカラの喉から搾り出したその声は、掠れてしまってあまりに覇気がなかった。

「でも俺、行くとこなかったから。考えるのも疲れちゃって……その人にお世話になることにした。それから千寿さんに会うまで、その人入れて三人にお世話になったよ」
「そんなに……?」

 大学に入って一年も経たない間に、弦は先輩とやらを含めて四人の元で生活していたことになる。かなり短いスパンで転々としている理由がわからず、千寿は首を傾げた。
 すると弦は苦笑して、思い出を懐古するようにテーブルの上をぼんやりと見つめた。

「最初の人はちょっと怖かったな。いつも怒ってた。多分、俺がゲイだからだと思うけど」
「……お前それ、酷いことされたんちゃうん」
「……先輩よりは優しかったかな」

 千寿は眉を寄せるが、視線を下げた弦は気づかずに続ける。

「でも段々と笑うことが増えて……そのせいかな。結婚することが決まったんだ」
「それで次の人んとこ?」
「うん。次の人はストリートミュージシャンだったんだけど、なんだか夢と現実の瀬戸際にいるって感じだった。けどね、オーディションに受かってメジャーデビューが決まったんだよ。すごいでしょ。今でもたまに、元気? って連絡くれるよ。いい人だった」

 弦はほんの一節だけ、有線放送で聴いたことのあるメロディーを口ずさんで続ける。

「三人目は田辺さんだよ。あの人、俺が何者かも知らないのに最初からすごく優しくて……ビックリした」
「その田辺さんも、ニューヨーク行きが決まって……か」
「うん。でも田辺さんはちょっと、他の二人と違ったかな」
「なん?」
「一緒に来る? って、訊いてくれたんだ」

 千寿は思わず息をのんだ。田辺がどれほど弦を大切に想っていたか、気づいてしまったからだ。

「なんで……行かへんかったん」
「行けるわけない」
「じゃあ、行きたかった?」

 その問いに、弦は小さくだが確かに頷いた。

「ついてけば、もう寂しい思いしなくていいかなってズルいこと考えたよ。田辺さんは誰より俺に優しくしてくれたし……ゲイだってことに引け目感じなくて済むし。でも俺が一緒に行って、田辺さんのプラスになるとは思えなかった。未成年の学生なんて、足手まといになるに決まってるしね」

 千寿の手を握り、「僕じゃ駄目だった。変えてあげられなかった」と言った田辺の気持ちが、今はひしひしと感じられた。彼は弦ばかりが高々と掲げられる不自然な心の天秤を、正常なバランスに戻してやりたかったのだろう。
 だが強引に「ついてこい」と言える性格ではなく、弦は自分のために何かを選択する自信を失い、思うままに頷く勇気がなかった。
 一つ一つ、弦の本音と過去が紐解かれていく。聞いている千寿の胸も切り裂かれたように痛むのに、強がる弦は下手くそな笑顔を止めようとしなかった。

「ホントはわかってるんだよ。一人で生きてかなきゃいけないって。でも……もう無理なんだ。一人は怖い。なんでもするから、誰かの傍にいたかった。必要とされてなきゃ、生きてる意味がない気がした」

 額ごと目元を押さえ、徐々に弦の頭が俯いていく。千寿は項垂れる肩に一度手を置いてから、横顔を隠す髪を掻き上げて耳にかけてやった。

「それだけやないやろ」
「……どうしてそう思うの?」
「ちゃんと愛されたいって顔に書いとるから」

 突かれたくない核心だろうと知っていて、躊躇なくその言葉を吐いた。髪を避けられて露わになった横顔が笑み、指の隙間から悲しげな目元が覗く。

「そんなことは望んでないんだ。どうせ、また一人になるくらいなら……俺はただ、一秒でも長く飼われてたいだけだよ」

 頑なに認めようとしないから、千寿は大きく両腕を広げ、弦を強引に抱き締めた。そのままベッドへ転がると、胸元に埋まった弦が慌てて起き上がろうとする。

「ちょ、っと」
「じっとせえ」
「……っ」

 大人しくなった弦の髪を指で梳きながら、深い溜め息を吐いて目を閉じる。
 弦に何があってどう傷つき、今に至ったのかは全て一本の線で繋がった。


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