18


 好きだから、傍にいたいのだ。だから踏み出す足を迷わせたりはしない。

「なあ弦……今まで、何があったん」

 腕の中で、ビクリと弦の肩が跳ねた。千寿はその強張りを撫でて慰める。

「言いたないんやったら訊かんとこ思てたけど。そうも言うてられへんなった」
「……どうして?」
「弦が好きやから」

 千寿の告白に顔を上げた弦の目が、まん丸でコロリと落ちそうなほど見開かれる。
 まるで幽霊か何かを見つけたみたいに、顔全体で「信じられない」と物語っていた。

「なんで……」
「なんでって。アカンの?」
「だって俺だよ」

 卑屈な言葉から卑屈さをなくしたら、痛々しいほど純粋な疑問になるのだと知った。不可解で仕方ないと言いたげな困惑も、あの男に躾けられた名残なのだろうか。
 これでは伝えたい好意が、真実のまま弦へ届かない。フラれるよりもずっと、悩ましい状況だった。

「……それはまた今度な。もうええって言うくらいじっくり教えたる。……今はそれより、お前がなんでこんな生活しとんか吐いてもらおか」
「ドラマの刑事さんみたい」
「はぐらかすな。……逃がさんぞ? いい加減、腹割ろうや、弦」

 弦は気まずげに口を閉じる。しかし暫く沈黙した後、心許なそうに千寿の腕の中から離れた。

「だね……もう、隠しても意味ないし……」

 意味がないとはどういうことか、引っかかったが口を噤む。話す気になった弦の気持ちを手折ることだけはしたくはなかった。

「俺の初めての彼氏は、高三のときついてくれた家庭教師の先生だったんだ」

 切り出した弦は、淡い溜め息を零す。

「その頃やっと恋愛対象が男なんだって自覚してさ。相談に乗ってくれた先生と、なんか付き合うことになったんだけど。すぐ先生が大学で働けることになって……引っ越すからって捨てられちゃったんだよね」
「ほう……」
「舞い上がってた分ショックでさ……心配してくれた親友に、つい話してた」

 く、と弦の口角が上がる。しかしそれは笑みでなく、嘲りの色を濃く宿していた。

「次の日から、指差して言われたよ。あいつホモなんだって。家庭教師と付き合ってたんだって。フラれて泣いてたって」
「おま、それ……」
「うん。……昨日まで一緒にご飯食べたり駄弁ってた友達が、俺を遠巻きに見てクスクス笑ってるんだ。仲良しだと思ってたけど、そうでもなかったみたい。その内、噂に尾ひれがつくようになって……学校に居場所はなくなったよ。でもさ、俺ってホント馬鹿で……」

 弦は両膝に肘を置き、組んだ拳に額を預ける。それは祈りでなく、懺悔しているように見えた。

「寂しくて、人の目が怖くて……言ったら困らせるってわかってたはずなのに、親に話してた。多分、助けてほしかったんだ。おかしくなったのは、そこから」
「……親御さんは」
「妹は無反応だったけど……母さんは動揺してた。うちは父さんが二代目の建設会社なんだけど、俺を継がせるつもりだったから怒り狂ってたよ。男色に育てたつもりはない、期待外れだ、お前はいらないって……初めて見た。あんな顔して怒る父さん」

 項垂れた肩がぶるりと震える。サイドの髪で横顔は隠れてしまっているが、苦痛に満ちた表情なのだろうと手に取るようにわかった。

「それで、家出たんか」
「うん……裏切られたみたいでショックだったけど、よくよく考えれば、先に裏切ったのは俺だったから。話した俺が浅はかだったし、妹に悪影響は与えたくないじゃん」
「連絡も取ってないん」
「母さんからはずっとメールがくるよ。でも……ちょっと自慢なくらい仲良かった家族壊したの、俺だし。申し訳なくて返信できてない。入学金返し終わったら、縁も切らなきゃって思ってる」

 弦は顔を上げ、千寿を見て笑う。明らかに場違いな表情は、迷いに迷った末浮かべたものなのだろう。
 友人もいない、実家もない、そう言ったあの日を思い出す。「ゲイなら安心」だと言ったのは、性的マイノリティが原因で人間関係が崩壊したせいだったのだと納得した。
 後ろ指を差され、拒絶され、絶望感の中へ一人沈んでいく弦の心情を考えると、息が止まりそうになる。無防備で柔らかい心が受け止めるには、あまりに痛い。
 弦が自信を失ったきっかけは、飼い主面の傍若無人な男のせいだと思っていた。だが、大元は地元で受けた傷だったのかもしれない。
 考えながら、弦が千寿にまで気をまわさないよう無表情を保った。憐みも、切なさも、苛立ちも悟らせないまま頷いて続きを促す。

「ほんで?」
「勉強とバイトですごく忙しかったけど、余計なこと考えなくて済むし、友達作る気ないし……ちょうどよかった。だけど、構内で声かけてきた先輩がいて……なんか、よくわかんない内に付き合うことになってた」
「なんでやねん、お前それ二回目……」
「気づいたら一緒に棲んでたっていうか……俺の学生寮、解約されちゃってて」

 呆れる千寿の脳裏に、腹の立つニヤケ面が浮かんだ。確かめる術はないが、その先輩とやらはオフィス街で声をかけてきた男だろう。

「で?」
「その人……最初はすっごく優しかったんだ。自分もゲイだよ、弦はおかしくないよって言ってくれた。けど少しずつ豹変してって……殴るし、お金にルーズだし、浮気するし、俺の私物壊したり売ったり……知り合いのボーイズバーで仕事させられたりしてた」
「ちょお待って、思てたよりクズい」

 思わず口元を引き攣らせるが、弦は苦々しく笑うだけで否定はしなかった。


リストへ戻る