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 だがしかし、弦のいない自宅へ帰った後になって、酒井が何を言いたかったのか理解することとなる。

「あー……」

 異様に静かな部屋でベッドに背を預け、ビール片手に天井を仰ぐ千寿は不貞腐れていた。

「つまらん」

 どうやら千寿の日常には、弦が不可欠となっていたらしい。彼が一晩家を空けると知ったときも、酒井に話して聞かせたときも、一人の夜がこんなに味気ないものだとは思いもしなかった。今までよくこんな味気ない夜を過ごしていたものだ、と感心すらする。
 酒井はいつもふざけているが、相変わらず察しがいい。釘を刺されていなければ暇潰しに呼び出していたかもしれない。
 晩酌用の弦お手製焼き鳥を齧り、テーブル上の置手紙を見つめた。夕飯のおかずを温める分数や、予約してくれた湯張りが完了する時間、着替え一式の場所に明日の朝のことまで、事細かに連絡事項が綴られている。

「……もうこれ、ただの天使やん」

 成人間近の男を指すには薄ら寒い表現だが、それ以外に妥当な比喩が見当たらない。あの手この手で甘やかしても胡坐をかかない謙虚さは非常に好ましく、募る好意に拍車をかけていた。
 千寿が書き置きの下部にある「早く帰れるようにするね」というメッセージに鼻の下を伸ばしていると、ベッドに放った携帯が着信音を鳴らし始める。
 発信者は今しがた千寿の脳内をジャックしていた青年で、すぐさま通話ボタンを押した。

「おう、どないしたん」
『あ、遅くにごめん。あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど、いい……?』
「ええで、なん?」
『俺の荷物にさ、茶封筒があるかどうか見てほしいんだ。持って出たはずなんだけど、探しても見当たらなくて……』
「待ってな。チェスト触んで」

 耳に携帯を当てたまま、弦専用にした木製チェストの前へ移動する。だが引き出し内は五段とも全滅し、側面フックに掛けられたボストンバッグを開いた。すると衣服等をチェストに移して物の少なくなった中に、A4サイズの茶封筒を見つける。

「あったで。紐で綴じとるやつやろ?」
『そう! 落としてなくてよかった……コピー取ってないから青褪めてたんだ』
「持って行こか?」
『ううん、大丈夫。ついでに持って行こうと思ってただけだから』
「んまか。勉強会どないよ、捗っとる?」
『うん。この間千寿さんがレポートの書き方アドバイスくれたじゃん? 教授がさ、性急さがなくなったって褒めてくれたよ』
「よかったなあ」
『うん』

 嬉しそうな弦を呼ぶ、ゼミ生らしき声が通話口の向こうから聞こえてくる。友人はいないと言っていたが、一夜を共にすれば自然と同年代の友人ができる可能性もある。千寿は青春の一時に水を差さないよう、それからすぐに電話を切った。

「あ、おやすみ言い忘れた」

 小さな後悔を胸に、ボストンバッグのファスナーを摘まむ。そのとき茶封筒の下から覗く、褪せた深緑色の大学ノートに気づいた。

「これも忘れもんちゃうやろな」

 何気なく封筒をずらし、そこにあったタイトルを見て首を傾げる。

「飼育マニュアル……? 何飼うねん」

 私物を勝手に触る罪悪感はあったが、ノートを手に取る。使いこまれたそれは角が擦り減り、表紙の所々に薄く折り跡がついていた。
 好奇心に誘われて表紙を捲った千寿は、眉を寄せる。そこには何故か角ばった丁寧な字で、弦の名前から始まり、生年月日や身長体重、実家らしき住所、学歴などが綴られていた。これではまるで、飼育対象が弦だと言っているように錯覚してしまう。
 しかし暫くはまだ、友人間でふざけて書いたもの、で納得できる内容が続いた。だがページ数が片手を越えてから、あながち認識が間違っていないことを知る。

 ――粗相はしない。叩いても怒らない。主人に盲目。待てが得意。放置は慣れっこ。無駄吠えしない。連れて歩くには打ってつけ。ねだれば貢ぐ。
 ――耳の裏が弱い。イラマは平気。緊縛は怖がる。痛みには反応しない。オナホとしては及第点。後ろは使えない。ラブドールとしては粗悪品。
 ――要調教、開発。

 過激な文言が指すのは、どう考えても人間だ。一ページ目の個人情報と照らし合わせれば、それが弦であることは明白だった。

「……ん、やねん、これ」

 歯を食い縛り、行き場のない苛立ちのまま唸り声を上げた。破り捨てたい衝動に駆られるが、僅かに残った理性が止める。
千寿はノートが悪質な冗談であることを願い、怒りを堪えてページを捲り続けた。
 しかし仄かな期待は、全ページ中三分の二ほどの空白ページを挟み、裏表紙だけになって打ち砕かれる。
 太マジックで大きく書かれているのは「予防接種済み」の文字。その意味を思案したのも束の間、視界が赤く染まった気がした。
 下部には「捨てるときは次の里親へ引き渡すこと」と、赤字に二重下線で強調された侮辱があったからだ。その一文は疑いようもなく、弦が千寿の元へ身を寄せることとなった原因だった。


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