13


 煙草税が跳ね上がり、今後も徐々に値上がることが決まった段階で、社内の喫煙仲間は随分減った。休憩時間の度にむさ苦しい男でいっぱいになる窮屈さはなく快適だが、女性のいるオフィスではできない下世話な雑談タイムがなくなったのは少し寂しくもある。
 定位置で壁に背を預け、煙草に火を点けた千寿は肺を有害物質で満たし、苦しくなるまで吐き出した。

「うっま……肺癌まっしぐらやけど、やめられんわ……」
「わかるー、真っ白なのはお腹の中だけですもの」
「お前、白ってどんな色か知らんやろ」
「あたしの心と同じ色よ?」
「ふうん」

 中身のない会話をしながら、無心で煙草を吸う。暫くすると酒井は思い出したかのように「で?」と、怪訝な顔で言った。

「その後どうなってんの? 例の迷える美青年とは」

 問われて初めて、弦が居候となった初日以降、なんの経過報告もしていなかったことを思い出す。そもそも酒井は各所を飛び回る多忙な営業マンであるため、社の喫煙ルームで鉢合わせることが少ないのだ。

「どうって」
「なんかあったら連絡くるだろって思ってたけどさ。マズいことになってないよな?」
「お前さあ、ホンマ俺のこと大好きやろ」
「今まで隠してきたのに……っ言わないで」
「気づいたれんくてごめんな。普通に無理やわ」
「なあ、なんで俺だけそんな扱い悪いの? 拗ねちゃう……」

 酒井はノリよくおどけるが、友人として心配されていることは痛いほど伝わってくる。
これまで彼には散々な恋愛の結末ばかり見せてしまっていたから、最も不自然なきっかけで同居を始めた今回のケースが気になるのだろう。
 千寿は短くなった煙草を灰皿へ押しつけ、腕を組んだ。

「そやな、お前には話しとくべきやと思う。……実はな」

 ただならぬ雰囲気でゆっくりと切り出せば、酒井の喉からゴクリと音が鳴る。千寿はなんだかんだ言って友達思いな男を見つめ――カッと目を見開いた。

「めっちゃくちゃ可愛いねん!」
「は?」

 間抜け面を晒す友人を置き去りに、拳を握り締める。
 弦と一緒に暮らし始めて一カ月。彼との甘くてくすぐったい、幸せすぎる生活を誰かに話す機会などなかったから、聞き役を得た千寿は高揚していた。

「飯は美味いしな、掃除完璧やしな? もう嫁よ、嫁」
「ちょっと待て落ち着け」
「でもな、めっちゃ遠慮しいやねん。我儘とか一切言わんし、俺のことばっか優先してな? せやからこの前、無理矢理デートに連れ出したんやん。ほんならちょっと気い許してくれたんか、最近は飯食いに連れて行っても、買い物行っても嬉しそうにしてなあ」
「デレすぎじゃない?」
「いやホンマ、ヤバイねんて。映画館行ったら感動してすぐ泣くん可愛いし、水族館行ったらドクターフィッシュに指の股ツンツンされて震えとるんも可愛いし、っていうかもうボーっとしとるだけで可愛い」
「……」
「ほんでな、ついに!」

 握った拳を突き上げるも、酒井は返事をしないで二本目の煙草へ火を点ける。しかし興味のない反応を千寿は気にしない。要は報告にかこつけて、弦の可愛さを声高らかに叫びたいだけだ。

「一緒にスーパー行こ、って、めっちゃ恥ずかしそうに誘ってくれてんで……!」

 あの日の照れる弦を思い出すだけで、千寿の頭の中には春風が吹く。咲き誇るタンポポ一面の草原を、腕を振ってリズムよくスキップしているような心境だ。抱き寄せたい欲求を必死で堪える苦行は、遠い昔に経験した甘酸っぱい片想いによく似ている。

「なあ酒井、なんであんな可愛いんやと思う?」
「猫可愛がりかよ……とりあえず、そのだらしない顔の写真撮っていい?」
「ええで。靴ん中に画びょう入れるけど」
「好き放題に惚気たくせに冷たいのな……」

 言いたいことを吐き出しきった千寿は、満足げに次の煙草へ火を点ける。酒井は既に二本目も吸い終えたようだが、まだ帰る気配がなかった。スーツの袖から覗く腕時計を確かめ、首を捻っている。

「っていうか、今日はこんな遅くまで仕事してていいんだ? そんな溺愛してんなら、早く帰りたいだろ?」
「ああ、今日おらんねん」
「お、離婚?」
「許さん。ちゃうくて、なんや泊まりでゼミの勉強会あんねんて」
「お、俺は絶対に相手が大学生だってことをツッコまないからなっ」
「ゆーて、待たせとったらこんなとこで油売ってへん。あいつ俺が帰らな飯食わんもん」
「あ、無視? しかも俺は暇潰しに使われてる、と……」
「正解。明日飴ちゃんやろな」

 吹き出してケラケラと笑う酒井は、「関西感ヤバイ」と肩を震わせている。しかし、はたと何かに気づいた顔をして、再び心配そうに千寿を向いた。

「つーか泊まりって大丈夫?」
「は? 何が?」
「いや、わかってないならいいんだけどさ。夜中に電話とかやめてくれよな。俺寝てるからな」

 はっきり言わない態度は気持ち悪いが、酒井のことだから無駄な心配をしているのだろう。そう当たりをつけた千寿は意味もわからず「大丈夫、大丈夫」と軽く付け足した。


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