『――弁慶さん!』

背後から呼び声が聞こえた気がして、弁慶は振り返った。だが、そこには誰の姿もなかった。
――何て往生際が悪いのだと、弁慶は自嘲の笑みを浮かべる。彼女を元の世界に帰したのは、他でもない自分自身だというのに、どうして何時まで経っても忘れられないのだろうか。

清盛を倒した後、頼朝の次なる標的が九郎になるということを予測した弁慶は、いち早く九郎を頼朝の追っ手から逃がす為の策を練り始めた。そんな彼の様子をどこかで感じ取ったのであろう、望美は戦いが終わっても弁慶の傍にいたいと言ったのだ。

そんな彼女を、弁慶は突き放した。もう戦いは終わったのだから元の世界へ帰れと、龍神の神子の役目は終わったのだと望美に直接告げた。弁慶は彼女を敢えて傷付ける言葉を選んだ――望美がもうこちらの世界に戻って来たくなくなるように、願って。

本来ならば望美は戦いなど全く知らない、明るく優しい普通の女の子だった筈なのだ。そんな彼女を龍神の神子だからと利用して戦へと巻き込んだのは、紛れもなく弁慶だった。

(僕に、そのようなこと願う資格はないのかもしれませんが)

もう二度と望美に傷ついて欲しくはなかった。優しい彼女が流す涙を見たくなかった。そして何より――愛した女性に死んで欲しくはなかった。だからあの時、彼女を帰したのだ。そのことを後悔などしてはいない。

それなのに何故、こんなにも彼女のことを思い出してしまうのか――

「…本当に、往生際が悪いな」

零れた呟きは、曇天に溶けて消えた。空の色は暗く、今にも雪が降り出しそうだ。そんな空を見上げ、弁慶は望美のことを無理矢理頭の隅に追いやった。今、考えるべきことは他にあるからだ。

「九郎はもう逃げたかな」

用事を済ませたらすぐに追い付くから先に行けという弁慶の言葉を、九郎は信じた。必ず追い付いて来いよと、こんな状況下でも光を失うことのない真っ直ぐな瞳で告げ、九郎は泰衡と銀と共に平泉を出た。

(彼には…もう少し人を疑うことも覚えて欲しいものですね)

九郎の馬鹿正直過ぎる性格に時折苛つくこともあったが、それが彼の美徳だということも弁慶は思っていた。
もし九郎が弁慶の嘘を知ったなら、間違いなく激怒することだろう。だが、それでも弁慶には為すべきことがあった。

それが意味することを――彼は誰よりも知っていた。



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