「お、男の…ひと…?」
「あ、うん。男。さっきは舞うために声色変えてた。歌ったあとは地声がわからなくなるから、戻るまで時間がかかるんだけど…」
あっけらかんと認めた彼を、緋桜を。下から上まで眺め、彼女は脱兎の如く踵を返して走り出した。
「え? ま、待って! そっちじゃ帰れないよ!」
しかしながら、普段邸から出ることのない彼女の足はこの上なく遅かった。追いかけて来た緋桜にすぐに追いつかれてしまう。手を掴まれ、引き留められた。
「驚かせてごめん。言わなかった俺も悪かったよ。ひとまず…戻ろう? この先はもっと森が深くなる」
顔を逸らし続ける彼女に、緋桜は尋ねる。小さく頷くのを確認してから、提灯のある場所へ戻る。御座の上に再び座らせると、彼は彼女を下から覗き込んだ。
「名前、きいてもいい? 答えたくないなら、それでもいいけど」
「…紫、と言います…」
「ゆかり、紫か。ねぇ紫。邸に帰りたいなら、俺送って行く。帰る?」
覗き込んでいる体勢のまま、首を傾げる緋桜。長い髪が地面についてしまっている。だが、そんなことは気にも留めていない様子だ。紫は迷いに迷った挙句、帰ります、と小声で呟いた。
触ってもいいかときかれ、紫は頷く。そっと取った手を引いて、緋桜は歩き出した。
「この辺りは猪だって出るし…盗人も、多いってきくよ。もっと気をつけないと」
「はい…気をつけます…」
かけられる言葉は、どれもこれも優しかった。初対面だというのに。男だと知って、あんな振る舞いまでしてしまったのに。それでも彼の言葉は優しかった。
今手を引いて歩いてくれているのも、道に迷わないようにという考慮の元だろう。
謝らなくては、と紫は思った。だが、言葉が出てこない。何度も言いかけるが、喉で詰まってしまう。
男の人と話すのは、初めてだったのだ。
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