君をわすれじ
 

 彼の名は三条季惟(すえのぶ)。齢二十五の、参議に昇進したばかりの貴族である。
しかし、その身に纏うのは鈍色の衣――薄染の衣である。それは死者を弔い、喪に服すための装束。しかも今纏っているのは通常の衣とは違い、濃い鈍色のものである。

 ふと、ゆっくりと季惟の首が動き、自らの傍らに視線を向けた。そこには、薄桜色の袿が無造作に置かれていた。
おもむろにそれを手に取る。すると動かした反動で焚き染められていた柔らかな香が、季惟の鼻をくすぐった。


「雪花…っ」


 それを聞いた途端抑え切れない感情があふれ出し、季惟は袿を掻き抱きながら声にならない嗚咽を漏らした。


 濃い鈍色の衣は、近親者が亡くなった事を現す。そう彼は、先日この世で最も愛する妻――雪花を失ったのだった。
原因は赤斑瘡(あかもがさ※一)。年が明けてすぐ、小康状態だった雪花は体調を急に崩し、ずっと臥せっていた。うつるから、と妻に近づくことは許されず、夫であるのに御簾の外から女房を介してしか会話することしかなく、心配していた矢先のことだった。
 家の者から体調が急に悪くなったと知らせを受け、急いで駆けつけた時には、既に雪花は虫の息だった。

 止める家臣たちを跳ね除け、御簾を上げ久しぶりに見た妻の姿は哀れなものだった。
元気だった時の姿は微塵も垣間見ることはなく、全身に赤い発疹が現れ、頬は真っ赤に上気していた。


――ごめんなさい…


 虚ろな瞳で呟いたあの言葉が、未だ頭に張り付いて忘れられない。成す術も無く、呼んだ陰陽師の到着を待たぬまま、家臣に囲まれそのまま雪花は逝ってしまった。
 野辺送りの際、立ち上る煙に何度自分も連れて行って欲しいと思っただろうか。物言わぬ妻の姿に、何度この身を捨てようと思っただろう。出家ではなく、命を絶とうと。
 だが自分の魂が抜けたような姿に心配した家臣達に何度も止められ、彼らは常に目をこちらに向けている。
 そうしてもう何日になるだろうか。ああそういえば、誰かがそろそろ四十九日だと言っていた。そんなに長く、自分はまだ生きていたのか。


「…」


 季惟は再び暗闇を虚ろな目で見つめながら、二度と会うことの出来ない妻に思い馳せ、静かに涙を流した。





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