見えねども
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 墨をこぼしたような闇の中だった。月も無い。青年は深い夜の中を一人、灯りを求めて彷徨い飛ぶ蛾のように、行くあても定めずに静かに駆けていた。なにゆえ走るのか、彼自身にもわからなかった。ただ、呼ばれているような気がするのだ。

 ふと、星の無い空を仰ぐ。そのとき、何かにつまづいて青年はよろめいた。足元を見ると、誰ぞの干からびた亡骸があった。ほんのわずかの間それを見つめ、青年はまた駆け出した。夜は長く、しかし短い。まだ、急がねばならない。

 まとった襤褸はようやく衣服の体をなすほどで、裸足はこびり付いた泥にまみれていたが、彼は生きていた。生きて、駆けるだけの力があった。幸運なことだ。飢え、人殺し、火事、病。いつ死んでもおかしくない理由など、いくらでもあげられた。

 どのくらい駆けただろうか。青年は築地塀の連なりに囲まれていた。貴い人々の住まうこのあたりは、本来彼がいるべき場所ではない。見つかれば、避けられ蔑まれるだろう。下手をすれば捕らえられる。
 彼の生業は盗みだ。捕らえられたら最後、言い逃れはできない。だが、今は夜だ。並の者であれば、伸ばした手の指さえ数えられないほどの濃密な夜だ。そして、青年には見つからない自信があった。彼には、夜毎の盗みで鍛えた夜目と、恐ろしく当たる勘がある。生きたものがいれば、たちどころにわかる。

 青年はものを知らない。わかるのは、自分が生きるためには盗むしかないということである。火事に巻き込まれた自分の外見が、人を恐れさせるということも知っていたから、昼間は眠ることにしていた。もちろん感情はあるし、言葉も解すが、そんなわけで、話す相手がいなかった。だから、他人のする噂話の他は、何も知らない。

 足の裏に、乾いた砂の粒がはりつき、離れ、指の間に潜り込み、落ちる。青年はまだ駆けている。

 築地塀の上に、木の枝が張り出している。彼にとって、そこを登るのはたいした苦労ではない。やはり物音一つ立てずに跳び上がり、木の枝にひょいと手をかける。塀の内側に入ることはもう難しいことではなかった。

 するすると木を伝い、庭に入る。人の姿は見えず、そこは驚くほど静かだった。青年の動きを邪魔するものは何一つない。声なき呼び掛けに耳を澄ませ、目を閉じる。目を閉じるという行為が必要ないほどあたりは暗かったが、耳を澄ませるには目を閉じるべきであるように思えた。

 耳に伝わるほんとうの声は、相変わらず聞こえなかった。
しかし、確かに呼ばれている。声がする。
 何が彼を呼ぶのか、青年は知りたいと強く思う。

 冷たい風がほつれ汚れた髪を揺らしたとき、青年の姿は既に樹上から消え失せていた。



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