見えねども
 

 そこには、昼間であれば輝くばかりであろう壮麗な建物があるはずだった。だが、今は夜だ。色も形も闇の中に溶け込み、存在は希薄になっていた。闇に漂うそれらをかいくぐり、青年はとうとう、たった一つの灯りを見つけた。その灯りの周りだけ、建物は形をなしていた。御簾越しに漏れるその光に、彼は吸い寄せられる。音も無く、我も忘れて。

 近くに行っても人の気配はなかった。誰かがいるわけではないのか。
 そのとき、光が揺れて人の大きさほどの影を作った。思わず声をあげそうになる。人の存在に気づかなかった事など、いつぶりだろうか。胸がどくりどくりと激しく打つ。見つかったら、ただでは済まされぬだろう。全身の意識を研ぎ澄ませる。

 十、二十、百数えても人は動かなかった。
 布がこすれる乾いた音だけが聞こえる。その単調な音が止んだかと思うと、ふぅ、というため息が聞こえた。しばらくして、その人が話し出した。一瞬驚いたが、すぐに何かを読み上げているだけだとわかり、胸をなでおろす。

 落ち着くと、その人の声がとても好いことに気づいた。鈴の音のような、澄んで高い声音。その美しい声で、彼女は淀みなく何かを読み続ける。読み物は、昔盗みに入った家の主が一人でしているのを見たことがあるだけだ。青年自身はもちろん字など読めないし、知っている歌といえば、僧崩れの物乞いが詠う歌物語くらいである。

 それでも、この歌は美しい。声だけでなく、そう思った。内容は少しもわからない。しかし、美しいのだ。胸の奥をわしづかみにされる。生きること以外に、こんなにも心を動かされたのは初めてだった。ずっと聞いていたい、そう思った。

 どれほどの時間聞いていただろうか。青年は何時の間にか警戒を解いていた。そんな自分に腹が立ち、ぼさぼさの髪をぐしゃりと掻き毟る。ちょうどそのとき、彼女は読み物を終えた。不思議な余韻が青年を包み込む。

 衣擦れの音がして、ふっと灯りが消えた。闇が、来たときより一層濃くなったようだった。

 この闇が続くうちに、行かなくてはならない。
 青年は光のあった場所を一度だけ振り返り、やはり蛾の飛ぶごとく、そこから消え失せた。

 朝が来る。もう誰も、青年を呼んではいなかった。



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