君恋ふる、かなで
 


前斎院、珠子内親王。その名を知らぬものは、この宮中において皆無に等しい。
と同時に、かの少女の名もまた人々にとっては馴染みの深いものであった。

その名を、玉依姫――いにしえの神語に綴られる女神と同じ名を冠す少女は、だがその呼び名とは裏腹に、都人の間では好奇と忌避の眼差しを注がれていた。



旧暦八月を迎えた京の都は、未だ夏の名残が強く残っていた。
それでも、時折吹きつける風は涼やかで、廂に落ちた陽だまりに浮かぶ萩の色は見るものの心を和ませる。
であるにも関わらず、近衛少将・源為直の表情は何処までも不機嫌だった。
十八と言う年齢には不釣合いな皺が眉間には刻まれている。

対して、上座に座った女は彼とは正反対の笑みを浮かべていた。
脇息にゆったりと身を委ねた姿は、溜息が出るほど完璧だ。だが、そんな彼女が為直は誰よりも苦手だった。


「――ですからね、凍君(いてぎみ)。今回の女楽にはぜひ、玉依姫を推薦したいのです」


兵部卿宮息女・祥子女王。
藤壺女御として今上帝から深い寵愛を賜る彼女は、どんな我侭さえも許されるような満面の笑みを浮かべ、そう言ったのだった。



十日後の八月十五日、宮中では観月の宴が行われる。
観月の習慣は元々大陸から渡来したもので、現在では年中行事のひとつとして詩歌管弦の遊宴が催されている。
特に今年は今上の強い希望もあり、宴では女楽と女舞が行われることとなった。
演奏者は藤壺、登華殿、麗景殿、梅壺から女房を選出し、それぞれ四つの楽器――琴の琴、和琴、箏の琴、琵琶の奏者を務める。藤壺からは周防の君という、楽を得意とする女房が出席するはずであったのだが・・・

「それが、周防の君はただいま不浄の身でして・・・実家に帰らせているのです」

女御の代わりに、侍女頭の白菊が首を真横に振った。

表向きは、あくまでも観月の宴の余興だが、その奏者を選出するのは今上の妃たちの殿舎である。
今回の女楽の結果によっては楽を好む今上の関心を引くことができ、未だ男御子に恵まれない彼の寵愛を競い合う妃たちとしては、ただの「あそびごと」では済まされなかった。
ゆえに、彼女らの実家をも巻き込んだ大掛かりな準備が成されている。

入内して九年、変わらず一の寵愛を受けてきた藤壺にとってもそれ例外ではなかった。
しかし、目星をつけていた女房は出席できそうにもなく、また困ったことに、今回藤壺が担う琴の琴はその演奏の複雑さから、ただでさえ弾き熟せるものが少ない楽器であった。

今から代役を探し出すのも容易ではない。



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