11
その晩はいつも通りの夜だった。
ラウンジで給仕の仕事をこなしながら豪炎寺の演奏を満喫できる、吹雪にとってこの上ない日常―――。
「熱心だな」
部屋に戻ってから、吹雪はずっとピアノを弾いていた。
ようやく手を休めたところで、豪炎寺が声を掛ける。
曲に深く踏み込み一皮剥けそうな吹雪の音色に、微笑ましく耳を傾けていたのだ。
「先寝てていいよ。僕、ちょっと水浴びてくるから」
ふと立ち上がり、吹雪はピアノを片付け始める。
「そうか……風邪引くなよ」
汗ばむ季節でもないのに。
少し怪訝そうな豪炎寺の声を背に、吹雪は黙って部屋を出た。
火照りを冷まさなくては眠れない気がしたのだ。
自分のなかで疼いてる、行き場のない熱を―――
吹雪が部屋に戻ると、豪炎寺はベッド半分のスペースを陣取り背を向け横たわっていた。
灯りを消して、背中合わせに空いてる場所へ滑りこむけれど……ため息が零れるばかりでなかなか寝つけない。
「ねぇ……」
胸を詰まらせた吹雪が助けを求めるように口を開いた。
豪炎寺が振り向く気配だけで、胸が締めつけられるように痛む。
「……どうしたんだ」
細かく震える吹雪の肩に、豪炎寺の手が伸びた。
「今日ラウンジで……恋人たちが…夢中で…キスしてるの見たんだ」
吹雪が零す言葉を、豪炎寺は手を置いたまま黙って聴いている。
「なんでかな……君の顔が浮かんで……それで……」
言い淀んだまま先の言葉が出てこない。
その時、フッ……と微笑むように空気が揺れた。
「俺と……キスしたいのか?」
肩を引かれてくるりと向き合う形になって抱きしめられて。豪炎寺のぬくもりと熱い鼓動に包まれると、また涙が溢れそうになる。
答えはyesだ。でもなんて答えたらいいかわからない。
不用意なことを言って豪炎寺を困らせたくないから。
「したいことは遠慮なく言えばいい。ここでの生活は―――お前の“夢”だから」
吹雪のプラチナの髪を指先でさらりと梳く。
胸に顔を埋めた吹雪には見えないが、豪炎寺の真摯な横顔を月明かりが照らし出している。
「俺ができることは叶えてやる」
「………」
小さく息を呑んで見上げる吹雪の潤んだ瞳を、豪炎寺は優しい目で見返す。
彼が“夢”にたとえたのは、ここでの生活の記憶はいずれ吹雪のなかから消えるからだろう――。
「じゃあ………お願い……します」
吹雪はか細い声を押し出した。
頬を赤らめ眉間に僅かな皺を寄せ目を閉じて……細い舌を僅かに覗かせそっと自分の唇を舐める。
豪炎寺は初々しいしぐさを見届けながら、吹雪の紅潮した頬に手を添えて顔を近づけていく。
どうしたらいいかわからずに、結んだままで待つ唇。
その綺麗な形に見惚れながら柔らかく食む―――。
「…ふ……ぁ」
驚いたように薄く開く吹雪の唇から吐息が漏れる。
豪炎寺は繊細な花弁から零れるような芳しさに酔いしれながら、吹雪の下唇をゆっくりと口に含んで吸いあげた。
「ん……っ……」
白い指先が縋るようにシャツを掴む。
濡れた音が絡み合い、歯列をなぞってこじ開ける舌が狭い口内に這い入る。
のめり込むように被さる豪炎寺の身体の重みが、吹雪をベッドに沈める。その熱の圧迫に疼きだす身体が、悩ましげに身じろぎをくりかえした。
滑らかな肌、甘い吐息、熱を帯びた肢体―――蜜のようにとろける吹雪の口内で絡めていた舌をほどいた豪炎寺は、欲情に抗うように肩で大きく息をつく。
吹雪の濡れた唇からも小刻みな息が漏れ、とろりとした目が宙を見上げているのがまた艶かしい。
「……あり…がと……」
礼なんていい、と答えようとする声が酷く渇いた喉に貼りつく。
「むこう……向かないでね……」
ぽつりと呟いてそっと寄り添ってくる吹雪を腕の中に収めて、豪炎寺は天井を見つめている。
まるで彼の心臓の中に入ってるみたいだ……
包まれながら吹雪は思った。熱く脈打つ鼓動がとせつなさといとおしさを刻んでる……。
記憶と感覚―――
持っていけるのは後者だけだとしても、彼のことをどこかに忍ばせて帰れるのか―――
向き合ったままで初めて目を瞑るベッドの中で、微睡みながら吹雪は訊ねる。
「……僕がここでの記憶を無くしても、学んだ音楽は忘れないんだよね……?」
「ああ。好きなだけ持ち帰るといい。お前の感覚に刻まれたものは、検閲でも誰も盗み見ることはできない」
それを聞いた吹雪は安堵して眠りに落ち着いた。
満たされた夜だった。
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