黄昏のむこう側 | ナノ
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 3

夕焼けの海は凪いでいる。
知ってしまった充足の味。ふたりが結ばれてからひと月と少しのあいだ、お互いの肌を通して、お互いの存在をたしかめあってきた。
それが、どんなに大切なものかを―――

帰還の旅が始まったばかりの軍艦から、豪炎寺は離れていく本当の故郷を見つめていた。目に見える景色を通して、そこに残してきた想い人を脳裏に浮かべながら。
最後に逢った晩、”見送りにはいかないよ“と、うつむき加減で言葉を押し出した吹雪は、まだ心の整理がついていない、拗ねたような、感情をもてあましたような顔をしていた。

見送りをやめたのはあいつの賢明な選択だったと、今は思う。
自分だって今吹雪の顔を見たら、後先顧みずこの船に乗せていたかもしれないから………


豪炎寺は見えなくなったあの町の港に背を向け、甲板を降りて医務室に向かう。
こんな時に仕事があれば気も紛れるのだろうが、今回の駐在が軍医としての最後の任務で、ほぼ非番状態で。帰艦時代わりの軍医がいるわけではないから、急患などに備え待機するための場所だった。

「無事帰艦するのがミッション」と口にする艦長や乗員の顔は、進駐していた時と違い、明るく伸び伸びしている。
一方でまだ医務室に住み込む豪炎寺を横目に、相変わらず海兵たちの間からは「おっと、ドクターが取り締まりにくるぜ」なんて声が未だに聞こえてもきた。それは煙たがっているようでいて、それが彼ら豪炎寺との間にある意味信頼関係ができあがっている証でもあった。

このまましばらくはこの日常が続いていくのだろう。
ただ一つ、吹雪を無くしたままで。

だが、海の向こうの大国へと帰り着いたら大きく舵を切る覚悟と算段はできていた。
家族のもとへと戻って、元の祖国で吹雪と生きることを伝えて別れを告げる。妹には寂しい思いをさせることになるが、彼女もまたいつか自分の歩む道を決断する時が来るだろう。
ただ、船旅を含めると短くても半年を要する年月が、二人の間に重くのしかかっていた。
あの健気で儚い吹雪をあの町でひとり待たせる時間の長さと孤独を思うと、気持ちが掻き乱されるのだ。


「ドクター!急患です!!」

遠くで声が何度かきこえていた声に、豪炎寺は何度目かで我に返る。
デスクから立ち上がって振り返ると同時に、ドアが開いて、料理長が息を切らして飛び込んできた。

「どうした?怪我人か?」

「…………いいえ怪我ではなく………」

「病人か?どこにいるんだ?」

厨房から急患とは珍しい。

「……いえ病気というか…………まさかあんなところに…」

「?それはどこなんだ?」

へなへなと床に崩れるコック長の腕を支え、豪炎寺はドアの向こうに鋭い視線をやった。

「早く患者を診たい。どこにいるんだ?」

「今運んでくる筈です。信じられない……ああ……」

厨房の事故なら火傷だろうか?
火災警報器も鳴ってないが、料理長の狼狽ぶりに胸騒ぎがする。

「遅いな。もういい、俺が見てくる」

料理長を残して廊下に出ると、血相を変えた調理人達がクロスにくるまれたものを二人で抱えてくるのと鉢合わせた。

「ああドクター、ヤバいよ。コイツは…………」

「…………!!」

反射的にクロスを剥いた豪炎寺は、そのまま固まった。
氷のように冷たいクロスに包まれたその患者は…………他でもない吹雪だったから。

「…………冷凍………だと?」

「ああ。夕食の仕込みをしようと冷凍庫をあけたらそいつがいて…………」

身も凍る思いとはこのことだろう。
吹雪を喪う恐怖で、眼前で話す調理人の存在が遠のきそうになるのを気力で引き戻す。

「前に厨房に日雇いで来てたヤツだ。女の子みたいだけど男で、すごくいいやつなのに……………」

「どんな………状態だった?」

「……へ?」

「見つけた時こいつは、このクロスをはじめから巻いていたんだな?」

「え………ああ、そうだ。それを頭から被ってた」

豪炎寺は頷いた調理人の腕から吹雪を奪うように抱き上げて、ベッドへと運んだ。


「この無鉄砲め……」

こいつは死ぬ程俺と会いたかったのかもしれない。だがこんな無茶をすれば本当に………死んでしまうぞ!

「布団や毛布を何枚か運んできてくれ」

豪炎寺はベッドに横たえた吹雪を全裸にして、自分も服を脱ぎ覆い被さりながら、容態を確かめる。
氷のように冷たい肌だが凍傷の変色もなく、出港からまだ2時間足らず、吹雪なりに服を着こんで保温もそれなりに対策していて…………回復の望みも薄くはない筈だ。

「部屋の温度を上げろ。湯も沸かすんだ。早く!」

「お………オッケー………」

調理人たちは動揺から立ち直る代わりに、裸で絡む二人を前に妙な照れに襲われながら、後退りで医務室を出ていく。

「待て………料理長!」

ようやく正気を取り戻して彼らの後をついていこうとする料理長が、豪炎寺に呼び止められてビクリと止まる。

「貴方は艦長に報告をしてきてほしい。俺が“こんな形”で大事な家族をこの船に乗せてきてしまったことを………容態が落ち着いたら詳しく訳を話すから、今は治療に専念したいと」

「………承知しました」

吹雪を抱く豪炎寺の背中に、振り返った料理長は姿勢を正し、直立不動で思わず敬礼をした。


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