たゆたう想い


名前のことが気になりながらも鬼灯は自分の仕事をこなしていた。名前に頼んだ書類はまだ届いていない。急ぎで頼まなくともいつもならすぐに持ってくるが、さっきのことがあってか時間がかかっていた。
早いほうがいいと言ったがまだ余裕はあるため書類に関して気がかりなことはない。あるとすれば名前自身のことだ。
そう考えていたとき、ちょうど名前が執務室を訪ねた。

「遅くなってしまい申し訳ありません。頼まれていた書類です」
「ありがとうございます」

いつもの笑顔は消え、目は少し赤くなっていた。鬼灯は理由を知らない振りをして尋ねた。

「その顔、どうしたんですか」
「何か変ですか?」
「目が赤いので」

指摘されて名前は困ったように笑顔を見せた。頭をポリポリと掻いてどこか恥ずかしそうな素振りを見せる。

「お昼休みに読みかけの小説を読んでいたんですけど、ちょうど感動するシーンだったんです。ぼろ泣きですよ!恥ずかしいですよね、今度から感動物は家で読むことにします」

いつもの調子で話す姿が気に入らなくて鬼灯の表情は険しいものになってしまっている。
その表情に名前は首を傾げると、書類が遅くなってしまったことに不機嫌なのだと感じたのかもう一度そのことについて謝る。
鬼灯は表情をいつもの無表情に戻すと、髪飾りがないことにも今気づいた振りをした。そこに気がついたのが予想外だった名前は慌てて理由を考えた。

「どこかで落としてしまったようなんです。鬼灯様からいただいた物なのにすみません……」
「…そうですか。私も見つけたら拾っておきます」
「…お願いします」


互いの思いを隠しつつ会話している二人の様子はどこかいつもとは違う。名前は髪飾りを地面に置いてきてしまったことを後悔しながら鬼灯に一礼する。
いつもなら何かと理由をつけて長居をする名前が何も相談せずに行ってしまい、聞いてやれないもどかしさと相談しない彼女への不満に苛立ちを覚える。何よりも彼女をあんなにも悩ませているのが心苦しかった。

「相談にも乗れないのに彼女を手に入れようとするなんて、少々傲慢ですね」

自分に対して呟くと、鬼灯は携帯を手に取った。


***


仕事をして考えを忘れようとしているときに限って仕事が少ない。特にすることもなく暇を持て余した名前は、部署でぐるぐる考えてしまうのを避けるため人通りの少ない廊下で外を眺めていた。
何かあれば携帯に連絡は来るし、そういったことがないよう教育はしている。多少主任が抜けていても心配することもないため、心置きなく外に出られた。

「どうしよう」

改めて考えてみれば彼女たちが言ったことも正論だ。勝手に付きまとい勝手に喜び、自分がよければいいと思っている。
そんなことはないと言い聞かせても、思い当たる節がありすぎて弁明もできなかった。

「ううん、これを機にきっぱり諦めればいいだけだ」

貰った髪留めは捨てた。踏ん切りがつかない気持ちをきれいにするにはいい機会かもしれない。
しかしそう思うたびに名前の瞳から涙が溢れた。頭ではもう諦めていて、心の中ではまだ好きだ。考えれば考えるほど悪循環していく。
はあ、とため息をついたところで声をかけられた。

「こんなところで何をしてるの?」
「お香さん…!」

声の主を確かめると名前は安心したかのように体の力が抜けていくのを感じた。
名前が相談できる相手はお香だけだ。心細くなっていた名前はお香の手を握ると溢れていた涙を零した。
いきなり泣き出す彼女にお香は驚いたようにその手を握り締めた。


お香は名前から事情を聞いてなにやらにやにやとしていた。
自分勝手すぎて自分が嫌いです、とマイナス思考になって落ち込んでいる名前を宥めながら、やはり微笑ましそうに笑っていた。
所詮他人事かと名前は少しだけ唇を尖らせた。

「鬼灯様も心配性だと思って」
「鬼灯様?どうしてそんな話になるんですか?」
「ううん、何でもない」

わざわざ書類を取りに来いだなんて電話をかけ、名前の元へ行くよう遠まわしに誘導した。名前が相談できるのがお香だと知っていてわざとそう仕向けたのだ。
閻魔殿にわざわざ来いということに何かあるのだろうと思っていたお香は、あまりの私情につい表情も緩んでしまう。一人の女性のために力技を使う彼に、思わずかわいいところがあると和んだ。
そして、鬼灯の想いを知らずに悩む名前の姿が少しだけ可哀想にも思えてくる。少々やりすぎではないかとお香は苦笑した。

「悩む必要はないわよ?心無いことを言って諦めさせようとしているんだから」
「でも、よくよく考えてみれば本当にストーカーみたいで、好きだって言ったり諦めるって言ったり、自分でもよくわからないし、もう本当にどうしたらいいかわからないんです」

ぐちゃぐちゃと感情が入り乱れて整理がつかない。嬉しい気持ちと後ろめたさに押しつぶされそうになる。
それでも名前はまだ悩んでいる。ストーカーだと罵られてもまだ彼を想う気持ちはあるのだ。

「悩んでるってことは、そういうことなんじゃないかしら」
「でも……」

名前の中で答えは出ているはずだ。しかし頭がそれを否定する。
きっと少し前の名前なら素直に自分の気持ちを受け入れていただろう。意外にも鬼灯の言葉は名前の想いを束縛していた。好きになってはいけない。その言葉が名前を苦しめている。
結論も出ずにぐるぐると名前は踏ん切りがつかないようだった。

「名前さんらしくないわねえ。鬼灯様も手こずる訳だわ」
「手こずる?」

名前の疑問などお構いなしに、励ますように彼女の背中を叩いた。いつかそうされたことを思い出して名前は背筋を伸ばした。

「ストーカーだなんて四六時中追い掛け回してるわけじゃあないし、ちゃんと適切な距離を保っているじゃない。そんなこと言ったら、恋する乙女はみんなストーカーよ」
「お、お香さんはそう思ってるかもしれないけど……」
「名前さんの行動に文句を言う彼女たちこそストーカーみたいじゃない。気にすることないわ」

ね?と上品に微笑む姿に名前は視線を彷徨わせた。お香が言えばそんな気がして許されたような気分になる。
名前は本当に今のままでいいのか自信がなくなっていった。

「私、鬼灯様とどう接していいかわからなくなりました」
「それはじっくり考えたらいいのよ。きっと上手くいくわ」
「……お香さんは励ますのが上手ですね。どうしてそんなに励ましてくれるんですか?」

良い友人だとは思っているが、それにしても協力的で贔屓している気がする。名前の疑問にお香は細い指を顎に乗せ、うーんと唸った。

「だって、じれったいんだもの」

どういう意味か名前にはわからない。けれど応援してくれているのだけはわかった。それだけでも名前にとっては心強かった。

「もう少し考えてみます。でも、私はきっと諦めるべきなんでしょうね」

表情は先ほどより明るくはなったが、まだ完全に吹っ切れてはいないようだ。どうお香が応援してもあとは名前次第だ。
その結果が本人にとって悪いことであっても、本人が決めたことなら見守るしかない。
お香は名前の呟きに何も答えないまま、しばらく彼女の傍にいた。


***


お香に励ましてもらった名前は捨ててきてしまった髪飾りを探しに庭へと来ていた。
悪いように言われたことは心に刺さったが、今の名前はきちんと節度を守り同僚と接している。ストーカー呼ばわりされる覚えはない、と数時間前の出来事にはきちんと向き合った。
できていないのは自分の気持ちの整理だけで、それはまだかかりそうだった。

「ないな……」

わかりやすいところに落としたのに髪飾りは見当たらなかった。誰かが拾って届けたのだろうと閻魔に尋ねても首を横に振られ、どこに行ってしまったのだろうとまた庭へと戻ってきた。
綺麗な髪飾りのため誰かが勝手に持っていってしまったのかもしれない。
今日はなかなか上手くいかない名前は階段に腰を下ろすとため息を吐いた。
そんなところへ鬼灯がやってきて、名前のすぐ隣に座った。

「探しものはこれですか」
「……鬼灯様」
「金魚草の世話をしていて見つけました」

差し出されるのは捨てたはずの髪飾りで、それよりも驚いたのは鬼灯が拾っていたことだった。また彼から受け取ってもいいのだろうか。差し出されているのに手を伸ばすこともできずに名前は戸惑った。
その姿を見て鬼灯はため息混じりに彼女の頭へと手を伸ばした。

「鬼灯様?」
「もうなくしたりしないでくださいよ。これでいいですか?」

適当な場所につけられ、名前は不満げに髪飾りに手を触れる。けれどその表情はどこか嬉しそうだった。
名前は大切そうに髪飾りを取ると付け直した。

「ちゃんとつけてくださいよ。今朝ここにつけてたでしょう?」
「そうでしたっけ」

首を傾げる鬼灯に名前は小さく笑う。ようやく笑顔を見せた彼女に鬼灯は少しだけ安心した。
そして昼間のことを話題に出した。

「昼間の話、嘘でしょう」
「え?」
「誰かに何か言われたんでしょう?私に付きまとうストーカーだとかなんとか」

どこから聞いたのだと驚きながら、さっきまで一緒にいたお香を思い出す。けれどお香が言いふらすとは思えず小首を傾げる。

唯一思い浮かぶことは、その話を直接聞いたということだけだ。
名前は訝しげに鬼灯を見上げた。

「……聞いてたんですか?」
「たまたま一部分だけですよ。私も仕事があるのでそこしか聞いてません」

本当にそうだろうかと疑う名前に鬼灯は「本当ですよ」と言い切る。どちらにせよ核心的なことを聞かれているため隠す必要はない。
鬼灯にそう思っていたと言われたらどうしようかと名前は内心びくびくしながら黙った。

「私はそんなこと思ったことはありませんよ。あなたのことは同僚として信頼していますし、同じ趣味を持つ者として大切な友人です」
「え……」

思いもよらぬ言葉に名前はぽかんと口を開く。同僚として信頼されているのは長い付き合いでわかっていることだが、まさか鬼灯から友人だと言われるとは思いもしない。それも「大切な友人」だ。名前にとっては嬉しくて仕方のないことだった。
不安な気持ちがあっさりと嬉しさに変わり、浮き沈みの激しい心に名前自身苦笑いしか出ない。今日はなんて忙しい日なのだろうと胸の前で手を握り締めた。

「まったく、それなのに好き勝手に言ってくれましたね。誰が言ったんですか、殴り込みに行きましょうか」
「い、いいです!」
「私の大切な人に酷いこと言ったんですから、それくらいしてやりたいですが」
「……お気持ちだけで嬉しいです」

からかい文句でさえ真顔で言うから本気に聞こえてしまう。大切な人というのはちょっぴり誤解しそうで名前の心はまた大きく揺れた。どうしてこんなにも心をかき乱すのかと鬼灯を見つめながら、少しだけ嬉し涙が零れ落ちた。

「何泣いてるんですか」
「泣いてません」

今日何度目だろうと目元を拭えば頬と一緒に真っ赤に染まる。
鬼灯と一緒にいると心が締め付けられて苦しいけれど、嬉しくて楽しい。同僚としてでも十分に幸せだった。
鬼灯は名前のことを迷惑だと思ってはいない。それだけでもわかって名前はほっとしていた。

「鬼灯様の近くにいていいんですよね」
「ええ。しかし……」

なにやら自己完結していそうな彼女に手を伸ばす。鬼灯は彼女の頭に手を乗せると少しだけ顔を近づけた。

「もう少し素直になってもいいと思いますよ」
「ど、どういうことですか?」
「さ、行きますよ」

ドキリとした名前は、行ってしまう鬼灯の背中を慌てて追った。どういうことかと聞いてみても答えてはくれず、名前はまたぐるぐると悩みだした。けれど先ほどのように思い悩む姿ではなく、どこか楽しげだ。
ようやく笑顔になった彼女を見ながら鬼灯は安堵し、少しだけ口元を緩めた。

「さて、どうしましょうね」

呟いた言葉は静かに廊下に響いた。

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