六日目
日付も変わり名前も眠った頃、鬼灯はそっと目を開いた。
幽霊が見えたら怖いと言って隣で寝ている名前を起こさないよう注意を払いながら身を起こす。
あの稲荷の遣いに事情を聞き出せば何か手がかりになるかもしれない。夜中に行くのは、名前に心配をかけないためと、誰もいない時間を選んだこと。
そっと立ち上がろうとしたとき、鬼灯の手を名前が掴んだ。
目は開いていないがその力具合から起きているのだとわかる。名前は小さな声で呟いた。
「行っちゃうんですか?」
「いえ、確認しに行くだけです。ちゃんと戻ってきますよ」
「本当に?」
「はい」
大丈夫だというように彼女の頭を撫で付ける。名前は安心するように頷くと再び眠りについた。
名前が目を覚ますと、鬼灯は約束どおり戻ってきていた。その姿に安堵しつつゆっくりと起き上がる。鬼灯はなにやら電話をしていた。
「そういうことだろうと思いましたよ。いいですか、理由はなんであれ連絡くらいしてください。そちらで何か問題があったかと思うでしょう。……は?帰ったら熱湯に沈めますよ」
物騒なことをものすごく低い声で言っている。地獄と連絡が取れたんだとわかった名前は、急に胸の痛みを感じた。
鬼灯を見つめていれば彼も名前が起きたのに気づき、電話の相手に「覚悟しててくださいよ」と吐き捨て携帯を閉じた。
「連絡…取れたんですね」
「はい。やはりあっちが勝手に私を地獄から締め出したようです」
頑として休まない鬼灯に強制的に休日を与えたのだ。現世と地獄が通じる場所をすべて閉じ、お迎え以外のときは開かない。色んな神に根回しをし、接触しないよう、地獄に通らせないようにしていた。
大掛かりなことをやって、本当に休めたと思っているのだろうか。けれど、そこまでして休みを作ってくれたことは感謝するべきかもしれない。
いや、鬼灯にとってはただのお節介であり、どうせ溜まっている仕事を片付けるのは鬼灯だ。
とりあえず文句は地獄に帰ってからだろう。残った問題はひとつ。目の前の彼女だ。
「帰ってしまうんですか?」
「そういう約束でしょう?」
「…もう少し」
呟いた名前は口を手で覆った。迷惑をかけてはいけない。元々そういう約束で傍にいてもらったのだ。
泣きそうな名前を見て、鬼灯はやはりそうなるかと眉根を寄せた。
深く関わり過ぎたのだ。名前が抱いている感情に気づかないわけではない。少なくともこの数日過ごしてきた中で好意は生まれている。
それが恋心かどうかは別として、鬼灯も似たような感情は持っている。もし彼女が全力で止めたなら地獄へ帰るのを渋ってしまう気がしていた。
鬼灯は名前にかけてやる言葉も見つからないまま彼女を見つめた。
沈黙が流れ、どれくらいそうしていたか先に口を開いたのは名前だった。
「今日一日だけ、鬼灯さんの時間をください。急に帰るなんて嫌です」
鬼灯の手を取り泣きそうな表情で鬼灯を見つめる。
行かないでとは言わないから、せめて今日一日だけ心の準備をさせてほしい。彼がいなくなっても生きられるように、もう関わらないであろう鬼灯と最後の一日を過ごしたい。
握り締めた手からはそんな思いが伝わってくるようだった。
鬼灯もその小さな手を包み込んだ。
「わかりました。一日だけですよ」
「…はい!」
目を細めて嬉しそうに笑えば、目に溜まっていた涙が零れ落ちる。鬼灯はそれを拭いながら体を預けてくる名前を抱きしめた。
何をしているのか。こんなことをすればまた別れが辛くなるのがわかっている。きっと何も言わずに出て行くのがよかった。それをしなかったのは、また彼女を悲しませたくないからなのかもしれない。死のふちに立っていた彼女を支えたのが自分だとわかっているから。
名前は留まってくれた鬼灯に喜んでいるのか、それとももう別れなければいけないことを悲しんでいるのか、静かに鬼灯の胸の中で泣いている。
「私はどうすればいいのでしょうね」
誰に聞かせるでもなく呟いたのは鬼灯の胸の内。地獄の鬼として現世の人間と関わることはいけないが、しかしこうして深く関わって、彼女の生死までも左右した。
だんだんと彼女に対する感情も芽生え始めた。拾ってくれたのが名前でなければこんなにも悩むことはなかったはずだ。
「私、あの日に鬼灯さんを助けてよかったと思ってます」
そんな鬼灯の心を読んだように名前は呟いた。ドキリとした鬼灯だが、名前は構わず続ける。
「私は鬼灯さんに助けられたんです。この数日間楽しいことばかりで夢みたいです」
「私は何もしてませんよ」
「いいえ、ずっと傍にいてくれたじゃないですか。本当に鬼灯さんが鬼なのか疑ってます。こんなに優しい鬼がいるなんてびっくりです」
人間のわがままに応えてくれて、一緒に付き合ってくれて、雨の日にわざわざ探し回ってくれて。
何度彼女に優しいと言われているだろうか。そんな鬼ではないのに、彼女に言ったところで信じやしない。
名前は顔を上げるとふにゃりと笑った。
「私、鬼灯さんのことが好きです」
あのとき言えなかった想いを口にした。あの神社でお願いしたって叶わない恋だけれど、伝えないよりはいい。
手を握ってくれて、抱きしめてくれるのはきっと自分を励ましているからで、髪を触ったのも、隣で寝てくれたのも優しさからだ。
期待なんかしていない。してなんかいない。
名前はまた大粒の涙を零した。
「ごめ、んなさい。こんなこと言っても迷惑なのに、叶わないのに、でも……」
「…本当に迷惑ですね」
しゃくり声を上げる名前に鬼灯は低い声で呟く。名前は鬼灯から手を引いて俯いた。
そんな名前を鬼灯はまた抱きしめた。
「どうして言ったんですか。言わなければ気づかないフリができたんです。私もあなたも、お互いを忘れてまた過ごせたんですよ」
そんな言葉は聞きたくない。どうせもう会うこともないのに、気持ちを知ってしまえば歯止めが利かなくなる。
鬼灯は名前の耳元に口を寄せ、本当は言いたくない気持ちを彼女に伝えた。
「私もあなたが好きですよ。…ですが、想いに応えることはできません」
地獄の鬼神と現世の人間が恋に落ちるなどありえないこと。名前はその事実を突きつけられたような気がして小さく頷いた。けれど同じ気持ちだとわかって心は満たされている。
しかし別れなければならない。そう思うと胸が引き裂かれるような痛みを感じた。
鬼灯は「でも」と冗談のように呟いた。
「あなたが死んで地獄(こちら)に来ればいいんです。そうしたら何も悩むことはない」
「…私が死んだら、連れて行ってくれるんですね」
いつかと同じ言葉を名前は呟いた。彼女に何を言わせているのだろうかと、鬼灯は私欲のために零れ落ちた言葉に後悔する。
彼女は自分を鬼と理解した上で付きまとい、樹海の奥深くで死のうとした人間だ。ここで命を絶つくらいやってのける。
鬼灯は彼女を止めるように名前の目を見つめた。
「早まらないでくださいよ。あなたがこちらに来るのは寿命を全うしてからです」
「でも」
「せっかく助けた命を無駄にするんですか?」
自分がたきつけておいて、と自嘲する。名前は何度か頷くとまた鬼灯の手を握り締めた。
「それまで待っていてくれるんですか」
「人間の寿命なんて、あの世の時間にしてみればすぐですから」
「なんだか鬼灯さんが言うと説得力がありますね」
理解したのか名前は再び鬼灯に笑顔を向ける。
最初に会ったときもそうだが彼女は順応が早い。余計な説明をしなくてもわかってくれる。
いや、あのときはそれを信じることしかできず、今は鬼灯のことを信頼しているからなのかもしれない。
「なるべく早く寿命が終わるように、あの神社にお願いに行かなくちゃ」
「まずは昨日の願いが叶ってからでしょう?」
「叶いましたよ。鬼灯さんと両想いでしたから」
やっぱりあの神社は願いが叶います。名前は嬉しそうに笑う。鬼灯はそんな彼女の頬を引っ張った。
仕事のことを願ったのではないのか。それに寿命が終わるようになど、縁起でもないことを祈るものではない。
鬼灯の顰めっ面に「鬼!」と抗議する名前はなんとも楽しそうだ。鬼灯はその手を離してため息を吐いた。
「調子に乗ってると痛い目見ますよ」
「鬼が言うと迫力ありますね」
「冗談ではないです」
イライラしたような声色にも彼女は笑顔を貼り付ける。人がどんな気でいるかも知らないで、自分の想いが通じたからと暢気なものだ。
鬼灯は名前の顔を掬い上げると無言の圧力をかけた。しかしそれさえ彼女は受け入れる。目を閉じればそれは了承の合図だ。
「怖いもの知らずですね」
そう呟けば彼女の唇を奪った。
***
一日だけ時間をくれと言ったはいいが、一日などあっという間に過ぎていく。
二人はどこに行こうとも言わずに部屋でのんびり過ごしていた。
またホラー映画でも借りてくるかと言えば、ぶんぶんと首を振って、怖い話をしてみれば耳を塞ぐ。
すっかり骨抜きにされた名前は鬼灯を背に寄りかかったまま幸せそうに笑っている。
これでいいのか、と聞いても頷くだけで、彼女は鬼灯と一緒にいるだけで満足らしい。
「鬼灯さんの手を握っていると安心するんです。どうしてでしょう?」
「知りませんよ。私はどちらかというと恐怖を与える側なのですが」
「鬼灯さんから恐怖を感じたことはないです」
なんて惚気て、名前は甘えたいようだ。
しばらく会えないのだから名前の好きにさせようと、鬼灯はそれを受け入れ優しく包み込む。
名前の首元に顔を埋めればくすぐったそうに身を捩る。「くすぐったいです」と笑う名前の声を聞きながら、鬼灯は目を閉じた。
彼女が死んであの世に来るまで、ずっと自分のことを覚えてくれるのだろうか。
人間の一生は鬼にしてみれば短い。その分、いろんなことがその一生に詰まっている。誰かを好きになるかもしれないし、誰かと一緒になるかもしれない。
まだ数十年現世で過ごすであろう彼女に、たった数十年が遠い。
現世にいた間にすっかり名前に入れ込んでいると自覚する鬼灯は、その理由を考えた。
倒れたところを拾ってくれたから?弱った彼女を見て加護欲が生まれたから?鬼には怖がるくせに幽霊に怖がる彼女に加虐心がくすぐられたから?
どれも違うような気がしてため息を吐く。
人間として生きられるのにその命を自ら絶とうとする。そんな彼女を止めたのはきっと昔の自分を重ねたから。生きられるのに死ぬなんて馬鹿なことはない。
きっかけはただそれだけで、成り行きで共にした時間に彼女の弱さと立ち直ろうという意志の強さを見た。ほんの短い間に、人間の心の変化に鬼灯も巻き込まれたようだった。
人を好きになるのに明確な理由も時間も意味はない。ただ、彼女の傍にいたいと思う。
普段なら至ることのない曖昧で浮ついた考えに鬼灯はため息混じりに顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「いえ、なんでもないです」
これではどちらが求めているのかわからない。
名前から寂しさは窺い知れない。今この時間に心の安らぎを求めているようで、彼女は会えなくなることを悲観してはいない。
また会えるから。きっと聞けばそんな言葉が落ちるだろう。
彼女は元々はきっと、自殺を考えるようなネガティブな人間ではない。そうでなければ鬼である鬼灯に関わったりしやしない。
何を考えているのかわからない鬼灯に、名前は首を傾げながら彼の手を握り締めた。
鬼灯はその手を握り返しながら、彼女はもう大丈夫だろうと、自分がいなくなることの不安を払拭した。
そうしているうちに時間は刻一刻と過ぎていく。すっかり暗くなった空は、そろそろ日付を越えるだろう。
名前は秒針が進むのを恨めしそうに見つめながら、最後にひとつだけお願い事をした。
「私が眠るまで傍にいてくれませんか。鬼灯さんがいなくなってしまう姿を見たくないです」
「わがままですね。早く寝なさい」
寂しくないわけがない。せっかく通じ合ったのにお別れだ。
鬼灯の素っ気無い態度に名前は目を閉じた。
「おやすみなさい」
泣いてしまわないように、寂しい顔をしないように。名前は布団を抱き寄せると精一杯笑顔を作った。
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