零日目


「どうなっているんでしょうね……」

携帯を閉じながら雨空を見上げる鬼灯は、いつもより険しい表情でため息を吐いた。
ようやく10日間の現世出張が終わったというのに、どういうわけか地獄に戻れないでいた。
あの世に繋がるはずの場所のどこも通ることができなかったのだ。
あの世との連絡も取れず、急に降りだした雨に鬼灯は雨宿りをしているところだ。

ズキズキと痛むのは寝不足の頭。ふらりと体が傾くのも疲労のせい。あの世に帰れないのも相まって、鬼灯の体はずっしりと重くなっていた。
まずい、と鬼灯が感じるよりも先に意識が遠のいていく。
鬼灯はその場で意識を手放した。


*此世と七日間


仕事を終え帰宅する。急に降り出した雨に、また家の傘立てにビニール傘が増える。
そろそろ片付けないと。そう考えながら名前はようやく家にたどり着いた。
そこで、見知らぬ男性が倒れているのを見つけた。

「あの、大丈夫ですか!?」

救急車を、と携帯を手にした名前はその男性、鬼灯の制止にその手を止めた。

「すみません、大丈夫です」

すぐに意識を取り戻した鬼灯は立ち上がるが、酷い眩暈に襲われかなわない。ふらりとバランスを崩す鬼灯を、名前はとっさに抱きとめた。

「大丈夫じゃないですよ。今呼びますから、とりあえず座ってください」

アパートのちょっとした玄関先。軒下に入れば雨は当たらない。
まともに立ち上がれなかった鬼灯を壁に寄りかかるように座らせれば、名前は今度こそ画面をタップする。
しかし鬼灯は名前の手を止めた。

「それは勘弁してください。私のことは放っておいていいので」
「でも…」
「ただの疲労です。ご心配おかけしました」

鬼灯は短く息を吐くと立ち上がった。今度は気合を入れたのかふらつかない。名前は危なっかしくそれを見守った。
病院が苦手なのだろうかと考えて、あまり他人には口を出せない。もしかしたら何か事情があるのかもしれない。
救急車や病院に行くことを提案しても頑なに断り続ける鬼灯に、名前は仕方がなく引き下がった。
しかし、再び倒れそうになった鬼灯を見捨てることはできなかった。

「病院が嫌なら私について来て下さい」

鬼灯の体を支えるように手を取った名前は、半ば強引に鬼灯を案内するのであった。



一人暮らしの小さな部屋。名前はベッドに鬼灯を寝かせると一息吐いた。
鬼灯の言っていた通り寝不足なのだろう。意識が曖昧な鬼灯を部屋まで連れてくるのは大変で、名前は額の汗を拭った。
すっかり気を失ったように眠ってしまっている鬼灯に、名前はその様子を見つめた。

「ブラック企業で働いてるとか」

恐ろしい、と冗談を込めながら笑ってみる。成り行きで連れて来たはいいが、どうにも困ってしまう。
シワにならないよう脱がせたジャケットを掛けながらふと思う。男を部屋に入れたのは何年ぶりだろう。それも見知らぬ男を連れてくるなんて、と。
名前にやましい気持ちはないが、知らない男を連れてきたという不安が芽生えてくる。
今時人助けだからと言って知らない人を上げるなど、一人暮らしの女性には少しばかり油断が過ぎる。

「でもあのままにしておくのは…」

言い訳を呟きながら再び鬼灯を見つめた。
何もありませんように、なんて祈りつつ時計を見る。夕食の時間はまだ先だ。


***


目を覚ました鬼灯はゆっくりと起き上がると、曖昧な昨日の記憶を辿りながら部屋を見渡す。その見知らぬ場所にさらに頭を悩ませた。

「確か地獄に帰れなくて……」

なぜなのか理由はわからないが、あの世に帰ることができなくて、どうしたものかと歩いていたところに土砂降りの雨。連日の睡眠不足に雨宿りをしていた場所で気を失った。

ようやく今の状況の手がかり思い出していれば、鬼灯の視界の端で何かが動いた。
視線を向ければ、そこには名前がタオルケットに包まって床に寝ていた。
目を覚ましたのだろう。もぞもぞと寝返りを打ったと思えば、「体が痛い…」と呟きながら起き上がる。
鬼灯はその様子をぽかんと目で追っていた。まさか女性に拾われて、一晩眠っていたなど思いもよらぬ展開だ。
そうしているうちに、名前は鬼灯に気がついた。

「よかった、体調は大丈夫ですか?」
「…はい」

安堵したように胸を撫で下ろす名前はにこりと微笑んだ。目を覚まさない鬼灯を心配していたらしい。
そして名前は鬼灯を見てきょとんと首を傾げた。
その視線に鬼灯はギクリとしただろう。擬態薬の効果はとっくに切れている時間だ。
名前は鬼灯の角に目をぱちくりさせた。

「鬼…?」
「……鬼です」

ばっちり見られてしまえば隠しようもなく、鬼灯は淡々と肯定した。名前はその無機質な回答に冗談なのかと考えるが、どこからどう見てもその角は鬼を連想させるものだ。
それも昨日部屋に連れてきたときにはなかったものが生えている。名前は混乱する頭で首を捻った。

「とりあえずそれは置いておいて…あなたが私を拾ってくれたんですね」
「はい。救急車を呼ぼうとしたら頑なに断って…あ、もしかして鬼だから」

ひとつ疑問の晴れた名前はぽん、と手を叩きながら納得している。
鬼灯は名前にお礼を言いながら頭を下げるとベッドから立ち上がった。しかし急に立ち上がったことでふらりと立ちくらみを起こす。
名前は咄嗟に鬼灯を抱きとめた。昨日と同じような光景に名前も慣れたもの。
鬼灯は自力で足に力を入れて踏ん張ったが、名前が手助けしたことにより余計にバランスを崩してしまう。倒れはしなかったものの、どうにか倒れまいと動いた結果、名前を抱きしめる形に落ち着いた。
鬼灯はゆっくり離れると腕の中にいる名前を見下ろした。

「すみません。立ちくらみが」
「い、いえ……」

連れてきた時には気がつかなかったが、近くで見てみれば鬼灯は整った顔をしている。
名前は思わず目を逸らし腕の中から抜け出した。鬼灯も申し訳なさそうに手を離す。
不可抗力だとはいえ、初対面の人に抱きつくのはいささか問題だ。すぐに去ろうと壁にかけてあるジャケットを取れば、名前は慌てて駆け寄った。

「あの、聞きたいことが」
「なんですか?」
「鬼って妖怪の類ですよね。どこから来て何をしていたんですか?」

名前の純粋な疑問に鬼灯は顔を顰める。それに気がついて名前は咄嗟に言い繕う。

「あ…人間の私には話せないですよね!なんというか、不思議な体験なのでつい気になってしまって」
「姿を見られてしまったわけですし少しくらいならいいですけど…ただし、口外は禁物ですが」
「口外なんて、鬼と会ったなんて言っても誰も信じませんよ。それに、私自身まだ夢の中なのかと疑ってますし」

鬼とわかっても恐れずに接することが出来るのは、まだこの不思議な体験が現実だと思っていないからだろう。
もしかしたら疲れてるのかも。なんて笑うと、とりあえず部屋から出て落ち着くことにした。
広いとはいえないリビングスペースに腰を下ろす。女性らしい小物が置いてあるその部屋に鬼灯は部屋をぐるりと見渡した。
名前はコップに麦茶を注ぎながら鬼灯のことを尋ねた。

「私は地獄に住む鬼です」
「地獄って天国と地獄の…ですか?」
「はい。現世にはまあ…社会見学という感じですね。現世の事情を知るために現世で働いていたんです」
「へぇ…」

理解しているのか、名前は首を傾げながら頷く。突然地獄と言われても信じることが出来ないのは当たり前だ。
倒れていた理由も適当に話しながら、地獄に帰れなくなったことまで話して、鬼灯はようやく「何を話しているんだ」と気がつく。そこまでただの人間に話す内容ではない。
名前は「大変ですね」とやけに親身に話を聞いている。深入りは面倒だと鬼灯は麦茶を喉に流し込み立ち上がった。

「ではこれで。えーと…」
「あ、名前です」
「名前さん、助けていただいてありがとうございました。くれぐれも他言無用でお願いします」
「待ってください」

ジャケットを羽織り立ち去ろうとする鬼灯に、名前は再び声を上げた。助けてくれた人間を無下に扱うことも出来ずに振り返る。
名前はまたしても純粋な疑問を投げかけた。

「これからどうするんですか?地獄に帰れないんですよね」
「そうですねぇ……」

現世の人間と関わると厄介だと早々に立ち去りたかっただけで、どうするかは考えていない。
鬼灯は顎に手を置きしばし考える。とりあえず山に行くのが先決だろうか。

「青木ヶ原樹海に行こうと思います」
「え、あの…それは止めたほうがいいんですか」
「別に早まったとかじゃないですよ。知り合いがいるかもしれないので」

どんな知り合いだろう、と興味を持つのは、樹海に行こうとこんなにも軽く口にする人は普通いないからかもしれない。
そこで彼は鬼だったと思い出して納得する。鬼の知り合いならばそんなところにいても不思議ではない。
意外と状況に順応している名前に、鬼灯も余計な説明をしなくて楽だと、今度こそ別れを告げれば、名前は「はい」と手を上げた。

「私も一緒に行ってもいいですか?」

彼女の言葉に鬼灯は眉を顰めた。

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