16:インソムニア








インソムニア




 ◆





 人には眠れない夜があるのだという。
 それは真夏の暑苦しい夜だったり、天井の片隅の染みが誰かの顔のように見えてしまった夜だったり、瞼の裏に広がる夢の世界がとても残酷なものだったりする夜が。
 残酷な夢とはどんなものだろう。
 大切な誰かが死んでしまったり、大切な「誰か」と二度と会えなくなったりする夢だろうか。

― 小太郎と会えなくなるのは、嫌だ。

 ふっと、同じ最前列の机に並んだ小太郎の横顔をちらりと眺める。
 高く結われた黒髪。項から覗く白い首筋。一言も聞き漏らさないようにと、前に立つ松陽先生の姿を見つめている。なんというか、小太郎らしい姿だ。
 長き夜の…、と和歌を読み上げている先生の声がぼんやりと耳に届く。良い初夢を見るために、枕の下に和歌をしたためた短冊を入れるのだという。回文になっているその和歌は、宝船の心地よい音で、眠っている皆が目覚めるということを詠っているのだそうだ。
 暮れが差し迫った年末。外にはちらちらと白いものが見えている。今年の初雪は思ったよりも早くに降ったので、塾からの帰り道でまで雪合戦をする始末だった。小太郎が楽しそうに雪を投げて、途中まで一緒に着いてきた銀時が、その雪をひょいっと避ける。
 銀時が小太郎の雪を避けたところを狙って、思い切り雪を投げつけると、ものの見事に命中した。それが何だか嬉しくて、何よりとても楽しくて、小太郎とふたりでけらけらと笑った。そんな様子を見て一瞬止まった銀時が、すぐさま少し大きめの雪球を俺と小太郎に向かって投げてくる。
 そんな風に笑いながら三人とも全力で雪を投げあうと、家に着く頃には泥まみれになっていた。

― 晋助、風邪を引くんじゃないぞ。

 俺を家まで送り届けた小太郎がそう言って、くるりと踵を返して足早に家に帰っていく。もし俺が風邪を引いたなら、小太郎はそのまま帰らずにずっと俺の側に居てくれるのだろうか。
「…、すけ、晋助?」
「えっ…、」
「この歌の意味を、君はどう考えますか?」
「え…あ、…すみません。聞いて、いませんでした」
「おやおや、今は授業中ですよ。考え事は少し後にしませんか?」
「はい」
「では、この歌をもう少し読み解いて見ましょう。この宝船という解釈は実に面白いですよ。皆さんは、七福神という神様を知っているでしょうか?」
 松陽先生の優しい声が、穏やかな教室にゆらゆらと漂う。穏やかな陽射しが降り注ぐ昼下がり。その明るさとは対照的に、鼻の奥がつん、と冷えて、ぶるりと躰が震えた。
 おかしい。いま居る教室は、皆の体温で暖かくなっているはずなのに。そういえば、今朝からなんとなく体がだるい気がする。もしかしてこの寒さは、少し前に「自分が望んだこと」になってしまったからだろうか。
 ふと外を見ると、白い雪がはらりと舞った。今日の帰りも、小太郎と雪合戦が出来るだろうか。そんなことを考えていると、くしゅ、と小さなくしゃみが口から飛び出した。背筋を嫌な感触が這って、ずず、と鼻をすする。それとほぼ同時に、隣に座る小太郎が「ぱちり」と瞬きをして、俺の方を振り向いた。





「あれほど気をつけろと言ったではないか」
「煩ェ、…、う、ゴホッ、ぐ…ッ、」
「ばかもの、もう喋るな。晋助のぶんの宿題は、ちゃんと持ってきてやったぞ。だから心配しなくても大丈夫だ」
「…ん、」
「何か欲しいものはあるか?」
「…みず、」
「分かった」
 小太郎かてきぱきと動いて、俺の額に乗せられた布を冷たいものに替える。ぼんやりとした視界に小太郎だけがはっきりと、そして綺麗に映っていた。
 あの後、塾から帰宅する途中で、小太郎が俺の異変に気がついた。ぼんやりと道を歩く俺の額に手を当てて、心配そうな顔をして俺を覗き込んできた。一方の俺はというと、額に触れた小太郎の手がひんやりと冷たくて、なんというか、気持ちいいと思ってしまった。そして次の瞬間、視界ががくんと揺れて、普段とは違う目線の高さに気がついた。小太郎が俺を背負って、家まで走り出していたのだ。華奢な身体の何処にこんな力があるのだろうとか、小太郎の背中の温度が気持ち良いだとか、なんというか、我ながら酷く素っ頓狂なことを考えていた。
 端から見るとなんとも情けない光景なのだが、俺を背負った小太郎の体温が本当に心地よくて、そのまま眠ってしまいそうだと思うくらいだった。
 家に辿り着いてからのことは、あまり良く覚えていない。ただ分かったのは、俺が目覚めるまで、小太郎が手を握っていてくれたということだ。

― 気がついたか?

 ひょこり。上から俺を覗き込んできた小太郎の顔には、心配という二文字が書かれている。それもその筈だ。俺の家にはいま、女中であるトメさんしかいない。父と母は年末の準備で家を空けていた。ふたりが揃って戻ってくるのは、早くて明後日の昼の予定だ。
「晋助、少し起き上がれるか?」
「う…、…、げほっ…、、」
「無理をするんじゃない。ゆっくり吸うんだ」
「…ん、」
 すう、と息を吸って、はあ、とじっとり吐く。それを数回繰り返したところで、くちびるに何かやわらかいものが触れた。それが小太郎のくちびるだと気づいたとき、思わず咽てしまった。なに。なんだこれは。止まりそうになる思考の刹那、小太郎の唇が濡れていることに気づく。どうやら俺に水を飲ませようと口に含んでいたらしい。
「ば、ばか!おまえ、何…、げほッ…!」
「水分もきちんと摂らないと治るものも治らないぞ」
「う…、」
 こくん、と水を飲み込んだ小太郎が捲くし立てて、もう一度水を口に含む。こんな風にくちびるを重ねたくはない。自分でも驚くほど強くそう思った。何故そう思ってしまったのかは、よく分からなかったけれど。小太郎を避けようとしても、思うように身体が動かない。寝返りを打つか、顔だけでもどうにか違う方向に向けようとあれこれ考えていると、むんず、と両手で顔を押さえられた。
「…んん、」
 こくり、喉を鳴らして生ぬるい水を飲み込む。ほんの少し甘いような気がしたのは、何故なのだろう。
「ごほッ…、…なぁ、もう、帰れよ、」
「晋助の父上も母上も、今日は留守なのだろう?」
「違ェよ、そうじゃ、なくて…、うつる、だろ、」
「ああ、そんなことか。心配しなくていいぞ、俺は丈夫だからな。直ぐに治せるさ」
「…勝手にしろよ、ばか」
「ばかじゃない、桂だ!」
 きっとした表情で俺を睨むくせに、ぽんぽんと頭を撫でる小太郎の手は優しいままだった。なんだか無性に泣きたくなって、掛けられていた薄い布団を頭まで被る。小太郎がすぐ側に居て安心している自分を、認めたくなかった。




 
 晋助は昔から身体が弱かった。季節の変わり目には決まって風邪を引いたし、流行りのものには必ずといっていいほど引っかかってしまう性質だった。
 そんな晋助とはまったく逆で、俺は身体が丈夫だった。 時折酷く厄介なものにかかることはあったが、それも年に一度、数えるか数えないかの程度のことだ。生家が医者の家であることも手伝ってか、晋助の体調が落ち着くまで、泊りがけで様子を見ることに誰も異を唱えなかった。

 宵を通り過ぎた静かな夜。
 小さな机の上で勉強をしている自分の隣で横になった晋助が、ぜいぜいと喘息のような浅い息を繰り返していた。熱い、熱い、とうわ言のように魘されている。ぼんやりとした行灯の明かり。すぐ側の桶に張った水がきぃんと冷えている。晋助の額に乗せた布をそっと取り去って、冷たいものへと取り替えた。
「うう…、」
 くるしい、きつい、もういやだ。心の中ではきっとそう言っているのだろう。晋助は、俺に負けず劣らずの意地っ張りだ。こんなとき、絶対に弱音を口に出すことはない。
「晋助、水、飲めるか?」
「…いら、…ねェ、…ゲホッ、」
「そうか」
 こればかりは、晋助の精神力に頼るしかない。病は気からだという言葉は、あながち嘘でもないようだ。現に、医者である生家の父は、患者に対して必要以上の治療はしない。最初に治すべきは、身体ではなく心なのだという。いつか自分にも、その意味が分かるときが来るだろうか。
 晋助からそっと目を離して、窓から見える月を見上げる。綺麗な上弦の月。透き通る冬の夜空に、神々しいまでの光を放っている。ふと、女中のトメさんが夜食を作りますよと言っていたことを思い出した。きっともうすぐ出来上がる頃だ。ありがたい。受け取りに行こうと立ち上がって、晋助の頭をそっと撫でる。
「…晋助、少し待っていてくれ。夜食と一緒に何かもらってくる」
 うう、と小さく唸った晋助にそっと布団を掛け直して、音を立てずに部屋を後にした。すっと部屋の襖を閉じて、冷たい廊下をひとりで歩く。きしきしと鳴く木目。鼻の奥まで響く冷気。庭に積もった白い雪が、月の光で小さく光り輝いている。はあ、と息を吐き出すと、もわりと白い蒸気が舞った。

― また、晋助と雪合戦、したいな。

 早く良くなって欲しいと思う心と、出来るだけゆっくり治して欲しいと思う心と。そのふたつの気持ちを抱き締めるように目を閉じて、もう一度、はあと長く白い息を吐いた。








 ふと目を開けると、そこには誰も居なかった。ついさっきまで、行灯のひかりの元で勉強をしていた小太郎の姿が何処にもない。火が燈ったままの行灯と、机の上からはみ出した筆の「下」だけが見える。机の下に敷かれた座布団は、中央が小さく凹んでいた。何処に行ってしまったのだろう、自分には何も言わないで。
「…こ、たろ…、うぇっ、ゲホッ…、、」
 咳き込んだ拍子に、唾液が喉に入ってしまった。途端、自分でも驚くような音が口から漏れ始めた。げほげほと咳をして、うぇ、げぇ、と何度もえずく。ほんの数秒だっただろうか、それとももっと長い時間だろうか。散々喉を枯らした後、胃の中から何かが出てきてしまいそうになるのをどうにか堪えて、ぼんやりとした頭で天井を見上げる。天井の片隅にある黒い染みが、ぞぞり、ぞぞりと動いて見えた。
 いつもなら気にもしなかったはずなのに、一度動いているように見えてしまうと、もうどうにも出来なかった。咄嗟に身体を起こそうとしても、何故かぴくりとも動かない。
 
― なんで…、

 足も、手も、顔も、首も。さっきまであんなに咳き込んでいた筈の口と喉も、ぴたりと動きを止めている。ほんの一瞬の間を置いて、身体の穴という穴から汗が噴出す感覚が全身を這った。こわい。こわい。だめだ、おそろしい。やめろ、くるなと叫びたいのに、口から出てくるのは、ひゅう、ひゅうという音だけだ。ぞぞり、ぞぞり。黒い染みがざっと天井を這って、自分の直ぐ上まで迫ってくる。
 その黒に、このまま飲み込まれてしまったら。そうなってしまったら、自分はどうなるのだろう。もう、小太郎や先生と会えなくなるのだろうか。

― 嫌だ、いやだ、絶対に、いやだ!

 くちを大きく開いて、腹を大きく上下させる。すうう、と深く息を吸い込んで、思い切り息を吐き出した。途端、空気を切り刻むような音が聞こえて、とても煩いと思った。その煩い音を掻き消したくて、更に大きく息を吐き出す。変だ。吐き出せば吐き出すほど、音が煩くなっていく。
「どうしたんだ、晋助、晋助…っ!」
「―――――…ぁぁあああああ、あ、ああ、」
「しっかりしろ、大丈夫、大丈夫だ、」
「あ、ああ…、づ、ら?」
「ヅラじゃない、桂だ。大丈夫か?」
「おまえ、なん…、う、ぇえッ、ゲホ、げぇっ、、」
「慌てなくていい、ゆっくり、ゆっくりだ」
「う、」
 居なかった筈の小太郎が、すぐ側にいた。俺を抱き締めるようにして、背中を支えている。いつの間に戻ってきたのだろう。小太郎の音も気配も、匂いすらしなかったのに。ひゅう、ひゅう、と掠れた音を立てていた喉が、段々と静けさを取り戻していく。ふと気がづくと、背中を何かあたたかいものが撫でていた。その仕草にあわせて、自分の呼吸を整える。とん、とん、と優しく背中を叩かれて、ほう、と息を吐いた。
「…行くな、よ、」
「うん?」
「だまって、いなく、なってンじゃ、ねーよ。ばかづら」
「ばかじゃないし、ヅラじゃない、桂だ。…晋助を置いて居なくなったりするものか。水、少し飲んだほうが良いぞ、ほら」
「…ん、」
 小太郎に抱きかかえられたまま、小さな茶器に注がれた水をそっと飲み込む。ほんの少し檸檬の味がする水が、口の中をすっと冷やした。
「…そんなこと、心配しなくていい。晋助が良くなるまで、ずっと側にいるよ。だからもう眠るんだ」
「…うん、」
 すう、と目を閉じると、小太郎の匂いだけが肺を満たしていく。もうこわくない。あの黒い染みは見えなくなった。ぞぞり、ぞぞりと天井を這うような音も、もうしない。動かなかった筈の身体も自由に動く。熱に魘されているからか、ひどく鈍い動きではあるけれど。

 小太郎が居るから、だいじょうぶ。 
 もう、どこにも行かない。だから、だいじょうぶ。

 心の中でそう繰り返すと、ふわりと意識が揺れる。そしてそのまま、淡い眠気と共に小太郎の腕に攫われた。翌朝、嘘のように元気になった俺を見た小太郎が、嬉しそうな、そして泣きだしそうな顔で、くしゃりと笑った。 










 ぐらりと揺れた身体を支えることが、酷く困難だった。気を抜けば溜息を吐いてしまう。そう思って、ひとりきりになった一室で、自分の両頬を思い切り叩いた。
 数日前に計画した奇襲作戦は失敗に終わった。原因は分かっている。先陣部隊への伝達ミスと、後方に続くはずだった協力部隊と合流することが出来なかったからだ。不幸中の幸いとも言えるのか、どの部隊からも死傷者は出ておらず、本陣を置いていた場所へ一度撤退することで作戦を終えた。
 どうして、何故と悔いたところで、何も始まらない。そんなこと、嫌と言うほど分かっている。けれどどうしても、俯いた顔を上げることが困難だった。赤の旗を掲げるようにと先陣部隊に伝えたはずの伝令は、青の旗を掲げるようにと伝わってしまっていた。協力部隊はその色を確認して、当然ながら酷く混乱した。青の旗は敵の陣営の色だった。予期していた数よりも遥かに多い青の旗に、中には囲まれたと勘違いして逃げ出す者さえいた。何もかもが総崩れになる前に撤退したことは、果たして正しかったのだろうか。
「なァ、ちょっといいか」
 こんこん、と壁を叩く音がしてようやく顔を上げると、襖の向こうから半分だけ顔を覗かせた晋助が部屋の前で立っていた。何かを撥ね退けたいのを堪えるような表情をしている。そんな晋助に身構えそうになった俺を見て、ふわりと表情を崩した。
「莫迦、俺にまで構えてんなよ、」
「…文句のひとつでも、言いにきたのかと思った」
「それはまた後でな」
 今度は入っていいかと直に聞かれて、目だけで頷いた。音もなく晋助が部屋に入ってくる。片手には、土で汚れた封書のようなものを持っていた。嫌な予感がする。その予感から目を背けてしまいそうになる。だが、逸らすことはできない。逸らさないと、心に誓ったはずだ。先生が居なくなってしまったあの日から。
「良い知らせと、悪い知らせ、どっちから聞きたい?」
「悪い知らせから聞こう」
「自棄になってンなよ。…協力部隊との連携は解消だ。もうこっちとは、関わりあうこともねェってさ」
 晋助が吐き捨てるように言葉を投げて、持っていた封書を迷いなく引き裂きいた。小さな細切れにされた紙切れが、今の自分の心と重なって、たまらず眉を寄せた。
 今回の作戦の提案、協力部隊への指揮、及び伝達の責任者として指名されたのは自分だった。当初は反対していた銀時や晋助を説き伏せての作戦決行だった。だからこそ、全うできなかった己が情けなくて仕方がない。その心を晋助に見透かされたのかと思うと余計にだ。
「…そうか、残念だ」
「まァ、一度の失敗でさっさと尻尾巻いて逃げる連中なんてのはこっちから願い下げだがな」
「随分と寛容だな」
「俺ァ、お前には優しいからな」
 半端な慰めを言わないのは晋助の良いところだ。無論期待もしていなかったが。
「そもそも、奴等は俺達より長く此処にいるんだ。所詮は有象無象の古狸ってね。そんなモン必要ねェ。そうだろ、」
「…良い知らせは、何なのだ、」
「だから、自棄になってンじゃねーよ。お前、普段は急かすなって言うクセに」
「茶化さないでくれ。…いまの俺には余裕がない」
「だろうな。…俺達に合流希望の奴が来てる。年は俺達と同じか、少し上だとか言ってたがこの際どっちでもいい。どうする?」
 それを俺に聞くのか、と素直に腹が立った。続いたのは苦笑だ。優しくされることにも骨が折れる。
「どうするも何も、お前がその話を持ってきたということは、もう銀時も知っているのだろう?」 
「さァ?知ってんじゃねーの」
「また喧嘩でもしたのか、」
「口を聞いてねェだけだ」
「なんだそれは」
 ふっと肩の力が抜けて、思わず表情を崩して笑った。昔から喧嘩の絶えないふたりではあったが、今も変わらずにそれが続いている。
 変わらない二人、変わらない世界。それにどうしようもなく安心してしまうのは、心の何処かで変化を恐れてしまっているからだろうか。
「名前は?」
「坂本辰馬。土佐だったか、その辺りの出身だとか言ってたな」
「ひとりか?」
「いいや、同じ訛りの人間が数人一緒だ。同郷の仲間ってとこだろう」
「そうか。では挨拶に行かないとな。…新たな仲間だ、歓迎しよう」
「それと、もうひとつ」
「うん?まだ知らせがあるのか?」
「ああ。…俺ァ、隊を作る。そう、決めた」
「隊?俺達の中で、新たに組織するのか?」
 違う。晋助はゆるく首を振った。そして迷いのない目で見据えてくる。
「お前もいい加減分かっただろ?いつまでも「古狸共」に振り回されたって、もうどうにもならねェ。それに今回の作戦、良くも悪くも俺達は篩に掛けられたみてーなもんだ」
「…皮肉なことだ、」
「何度でもいうぜ、自棄になるなよ。逃げ出さずに残った連中は、まァ悪くねェ。動く隊は作れる」
「…そうか。では高杉、お前を信じよう。良い隊を作ってくれ」
「…フン、」
 言われなくても、とその表情が語っている。そんな晋助を見て、心に安堵が広がっていく。大丈夫だ。自分たちは、確実に前に進んでいる。そしてこの選択は、いずれ大きな変革の基盤となる。絶対に、何があっても。振り返ることなど、もう出来ないのだ。
「そのことも含めて、一緒に今後の話をしよう。新たに仲間も加わることだしな」 
「今はやめとけ。もう少し後にした方がいいぜ」
「どうして?」
「そんな顔で、他の奴の前に出るなよ」
 言われて、はっとした。自分では普段通りの「表情」が、作れているつもりだったのに。指揮を執るようになった立場である以上、皆の士気を下げるようなことは出来ない。きっと今の自分は、とてもひどい顔をしているのだろう。晋助の言うことは最もだ。
「…歓迎なら、もうとっくに始めてる。銀時の野郎、何処かから酒なんざ持って来やがった。終わってからでも、遅くはねェだろうよ」
「銀時が?お前たち、口を聞いていないのではなかったのか?」
「さァな」
 むっとした表情で目を逸らした晋助が、幼い頃、譲らない意地を張って、そっぽを向いたときの晋助と重なった。
「お前は行かなくてもいいのか?」
「あァ?何が」
「もう始まっているのだろう?酒もあるなら尚更だ」
「…俺ァ、いい」
「どうして?」
「酒より先に、こっちだから」
「え?」
 ずい、と晋助が近づいて来たかと思うと、そのまま唇が重なった。同時に優しい腕が背に回されて、今度こそ、もう身体を支えることが出来なくなった。とろんとした空気に絆されるままに目を閉じる。だめだ、甘えてしまう。晋助の腕に、甘えたくて仕方がなくなる。だめだ、だめだと頭の中で繰り返すのに、それに反比例するかのように身体から力が抜けていく。晋助が啄ばむように頬に触れたとき、抵抗する意思を放棄した。
「…小太郎、」
「ん…、」
 いつもはふざけた名前で呼ぶくせに、と思う。こんなときに名前を呼ばれたら、もう嘘をつけなくなる。晋助の腕に甘えたいという気持ちに、嘘をつけなくなる。
「だめだ、晋…、」
「なにが、」
「何がって…、」
「お前が、俺に教えたんだろ。こうしろって」
「え?」
 晋助は何のことを言っているのだろう。そう思って幾重にも考えを巡らせるのに、答えは出ないままだった。
「何のことを、言ってるんだ?」
「…さァて、な」
 何処か自嘲気味に笑った晋助が、もう一度、と唇を重ねてくる。こんな風に晋助と唇を重ねるようになったのは、少し前からだ。

 戦場に出るようになって、酷な現実を幾度となく叩きつけられた。目を背けたくなる現実。積み重なる仲間の屍。瓦礫の中で立ち上がる黒い煙。その都度、抵抗する間も無く潰れそうになる心。
 そんな心を抱き締めるように、まるで何かから守るように、優しく差し出された晋助の腕を、振り払うことなんて。そんなこと、出来るはずもなかった。恋慕にも似た想い。互いを赦し求め合う心。幼い恋で終わるなら、きっと幸せな夢だった。初めて自分から求めて唇を重ねた夜は、いつものように眠ることさえ出来なかった。いっそのこと、躰だけを求めてしまえば良かったのかもしれない。だが「そう」気づいたときにはもう、心を求めてしまっていた。
「…なァ、」
「うん?」
「…、俺ァ、もう、…小太郎が、欲しい」
「しん…、」
「二度は言わねェ。…今日の夜、此処に来る。嫌なら、逃げろよ、」
「…ど、うして、」
「…くち、もう、いっかい、」
「あ、」
 背中に回された腕が熱を持つ。晋助の優しい腕。生きている躰の温度。触れた場所から伝わる確かな熱。その熱を求めてしまったのは、きっともう、ずっと前から。

 重なった唇が離れると、甘い唾液が糸を引く。そのまま晋助に強く抱き締められて、心臓が甘い悲鳴を上げた。抱き締めてくる晋助の腕を、ずっと求めていたかのように。









 本陣の片隅で始まった飲み事は、既に滅茶苦茶だった。原因は目の前の黒もじゃ頭の男。多くない酒を少しずつ呑みながら、延々と笑い続けている。その空気に酔わされて、他の連中も少ない酒で完全に出来上がってしまっていた。かく言う俺もその一人だ。ふわふわと揺れ続ける頭で空を仰ぐと、廃屋になっている所から高杉が出てくるのが分かった。ヅラに黒もじゃ頭のことを伝えにいったのだろう。ということは、ヅラももうじき出てくるのだろうか。段々と近くなる高杉の顔を見て、思わず声をあげていた。
「うげぇ…!」
「人の顔見て何つー声出してんだよ」
「いや…ええっと、…ヅラは?」
「さーな、」
「ああ、そう」
 さっきというか、今朝の作戦決行前まで高杉の顔なんてまともに見ていなかった。だからだろうか。久々に見た表情がなんというか、「なんとも言えないもの」だったので、たまらず声に出していた。
 今朝まで不機嫌そうに眉を顰めていた高杉が、何処か嬉しそうに口元を緩ませている。どうしよう、すっげー気持ち悪い。ふっと思考をずらして、目の前の喧騒に意識を集中させる。ヅラが提案した作戦は失敗した。…というか、この作戦の結果は「失敗」ではないような気もする。
 先陣部隊に伝達を伝えた青年は、今頃「青旗」の本陣に迎え入れられている頃だろう。簡単に言えば裏切ったのだ。理由は知らないし、知りたくもない。ただ、悲しいと思った。青い旗を揚げた部隊は、幕軍ではなかった。最初に会ってからずっと笑い続けている黒もじゃ頭の男が、目を細めて、低い声でその事実を伝えてきた。

― 「敵」は、天人だけじゃ、ましてや幕府軍だけじゃ、ない。

 青旗の部隊は、幕府軍と見せかけた攘夷志士の軍だという。俺達みたいな連中はごまんと居るだろうに、ヅラは良くも悪くも目立ってしまったのそうだ。十代の半ばという若さで、既に幾つかの実績を上げている。その実績を皮肉っているのか讃えているのかは知らないが、「狂乱の貴公子」なんて呼ばれているらしい。若い芽は、摘んでしまえということだろうか。同じ「攘夷」という、志を同じくする仲間だというのに。
 自分たちは、何と闘っているのだろう。頭の中で燻る憂鬱を吐き散らす代わりに、少ない酒を煽る術を覚えてしまった。何より、もしこの事実を知ったら、ヅラはもっと打ちひしがれてしまうだろうと思った。常に正しくあろうとするあいつには、酷過ぎる現実だ。
 だが恐らく、高杉は既にこの事を知っている。そして知ってしまった以上、もし何処かであの青年に会うようなことがあれば、もう許すことは出来ない。あんなふうに塞ぐヅラを目の前で見てしまったら、高杉は絶対に裏切った人間を許すことは無いだろう。
 高杉はヅラに優しい。掛け値なく、そして無意識に優しくしている。基本的に、認めたヤツにはめっぽう甘いのだ。身内贔屓というものではなく、心を許しているか居ないかの範疇での話だが。ただ優しいからこそ、他に容赦をしない。容赦することを知らないようにも思えた。あいつの見えている世界の一番深い場所に居るのは、先生とヅラのふたりだけ。というか、それ以外なんて要らないとさえ思っていそうだ。なんというか、おっかない。
「あっはっはっは、初めましてじゃのう、」
「もう話しただろ」
「ありゃ、そうじゃったか。いかんのう、いやあ、いかん。酒が、ようけ回っちょるき、のう?」
 えらく声のでかい黒いもじゃもじゃ頭の男は、なんとも気持ちよく酒を飲む男だ。はっきり言って嫌いじゃない。こういう馬鹿馬鹿しい明るさは、鬱陶しい心の中を変えるには、多分一番効果的なのだろう。一緒に酒を呑むなら尚更だ。
「誰かまだ、挨拶しとらんとが、おるかいや」
「ああ、ええっと、ヅラってのが居るんだけど。多分、後から来るんじゃないの?」
「ヅラ?ヅラっち、言うかや。なんじゃあ、早く顔をみせとうせ。何処に隠れとるんじゃ」
「ヅラじゃない、桂だ。それに隠れていた訳ではない。挨拶が遅くなってしまってすまない、桂小太郎だ」
 高杉の後ろから姿を現したヅラは、やはり表情を落としていた。それだけ堪えているのだろう。適当に酒でも飲ませようかと思ったとき、突き刺すような視線を感じた。高杉だ。
「わしゃあ坂本辰馬じゃ。こげぇな他所者でも、ようけ歓迎してくれて嬉しいぜよ。よろしく頼むのう、ヅラ!」
「ヅラじゃない、桂だ!初対面の相手に随分と失礼なことを言う男だな。まあいい、此方こそよろしく頼む。しん…、高杉から少し聞いたが、随分と腕が立つようだな。…土佐の出身だと聞いたが、俺達のことは何処で知ったんだ?」
「まあまあ、そんな硬いことは後じゃ。今は飲むぜよ、のう、」
 そう言って、辰馬が酒を持ったままヅラに近づこうとしたとき、あ、と思った。周囲の人間もそれを分かっているようで、誰も何も言わない。数秒後、酒を持ったままぐるりとひっくり返った男が、大きな声で笑っていた。
「あっはっはー、なんじゃあ?」
「気安く触ってンじゃねェよ、」
「高杉!」
 ヅラがまるで咎めるように高杉の名を呼んだ。呼ばれた本人はけろりとしていて、これはいつも通りの光景だと思った。なんというか、なんというかもう、非常に分かり安い。分かり安すぎて吐き気がしそうなのに、ヅラはそれに気づいていない。元々「こういうこと」には鈍いのかもしれないが、ここまでくるともう、どうかしているのではないかと思ってしまう。
「なんじゃあ、ヅラはお姫さんやったがか!」
「姫じゃないし、ヅラじゃない、桂だ!というか俺は女子ではないぞ」
「いやいや、こりゃあええのう、ええのう!」
「付き合ってらンねェ、…ヅラ、さっきの話の続き、後でな」
「え、…あ、ああ、」
 ヅラが戸惑うように高杉に応えて、そのまま目を泳がせた。いつもみたいに、ヅラじゃないって言い忘れてる。なんなの、お前等。分かり安すぎて吐き気がする。勘弁してくれ、もう俺、すっごい気持ち悪いんだよ。ずっと同じように居たいのに、子供の頃からのまま、変わらないままで居たいのに。そもそも、お前等喧嘩ばっかりしてたじゃん。胸倉掴み合ってとか、あと一歩で殴り合いとか、取っ組み合いの喧嘩とか、そういうことになってたじゃん。いつだったか大雪が降ったときなんて、お前らふたりで俺に雪、ぶん投げるような、そんな感じだったじゃん。

― 何か、あったのかよ、高杉と。

 喉元まで差し掛かった「苦い」言葉を、少ない酒と一緒にぐいっと飲み込む。美味いと呑んでいた筈の酒からは、何の味もしなかった。













 整わない呼吸。落ち着くことなく浮遊したままの心。いつもより長く吐いてしまう息。
 宵の口を過ぎたのに、晋助は部屋に来なかった。外から葉の擦れ合う音が聞こえる。緩やかな夜風に煽られて遠くなり、そして近くなる音。普段は気にもしない筈の小さな音ばかりを気にしてしまっている。部屋の中で、ひとり書状の整理をしていた。自分が新たに書いたものと、外から送られてきたものと。どれが必要で、どれが不要なのか分からなくなりそうだった。
 晋助の言葉を心待ちにしていたというわけではないのに、口から出てくるのは長い溜息ばかりだった。待っていた訳じゃない。期待していた訳でもない。だからもう、何も考えずに眠ればいい。明日は本陣の置く場所を変える為の軍議がある。合流した坂本から、改めて貴重な情報を聞くためのものでもあった。
 作戦は「何故」失敗したのか。そもそものミスは一体何だったのか。改めなければならない「もの」があるなら、向かい合うべきだ。自分の決断を、仲間への信頼を、悔いることのないように。

 とん、とん、とん、と遠くから足音が響く。この音は晋助のものだ。この音を間違えるなんて今まで一度も無かった。そしてこれからも、きっと間違えることはない。部屋の前に辿り着くまで一度も止まることのなかった晋助の足音が、水を打ったかのようにぴたりと止まった。閉めていた襖がすっと開く。月明かりに照らされて、晋助の表情が見えない。仄かな光を帯びた細い輪郭。片手に陣羽織を掛けて、額の紐も解いていた晋助は、普段よりもずっと幼く見えた。
「…逃げなかったんだ、」
「え、」
 音も無く部屋に入ってきた晋助が、自分の隣にすとんと座る。そのまま数秒間お互いの顔を見つめ合って、ふと目を逸らした。
 晋助の顔を、まともに見れない。それが何故なのか分からない。分かりたく、ない。
「…小太郎、」
「ずるいじゃないか」
「そんなの俺が一番知ってる」
「しん…、」
「…抱き締めて、いいか?」
 少し俯きながら、飢えたような眼を向けられた、途端。甘く切ない悲鳴を上げる心臓が、壊れてしまうと思った。晋助の問いかけに小さく頷くと、緩やかに、そしてたおやかな腕が躰を包んだ。ほう、と息を吐くと、回された腕に力が籠められるのが分かる。あたたかい。
 昔から変わらない、晋助の体温。柔らかい腕。未完成な心を持て余した、未成熟な躰。それなのに、まるでとろりと溶け出した心を全部、抱き締められているような。深く息を吸えば、肺の奥深くまで晋助の匂いで満たされていく。それはまるで麻薬のようだと思った。躰を甘く痺れさせるその匂い。幼い頃、自分がこんな風になってしまうなんて、考えたこともなかったのに。
「…今更、」
「うん?」
「今更、逃げんなよ、」
「…逃げたりなんてしない」
「え、」
「晋助から逃げる理由なんて、何処にもない。今までも、…そしてこれからもだ。お前こそ、途中で怖気づいたり、するんじゃないぞ」
「そんなのあるわけねェだろ、ばかヅラ」
「莫迦じゃないし、ヅラじゃない、桂だ。…そうか、そんなこと、心配しなくて良かったんだな。…晋助、」
 呟くように名前を呼んで、背中にそっと腕を回す。甘い痺れに躰を預けたまま躰から力を抜いて、重なってくる唇を受け止める。ゆっくり目を閉じながら、背中に感じる床の温度を、何処か遠い意識で確かめた。

 甘い陶酔が躰を満たした後、自分は眠ることが出来るのだろうか。
 躰の奥深くで感じる晋助の熱。その熱に甘えたまま、自分の上で揺れる躰に、爪を立てて縋ることしか出来なかった。












 夜が明けて、屋根の上からぼんやりと遠くを見ていた朝。眠気と頭の痛みを払おうと井戸の水で顔を洗っていると、高杉が無言で布を濡らしに来た。ここで洗えばいいじゃん、と何気なく声を掛けると、短い舌打ちをされた。いやいやいや。俺、変なこと言ってないよね?
「っていうか、ヅラは?」
「放っとけ」
「…ああ、そう」
 なんだろう、すごく嫌な感じだ。いつものような、ことあるごとに反発するような感じじゃなくて、もっとこう、踏み入って欲しくない場所に入ろうとすることを、完全に拒絶するような。
 俺とこいつらの間には、見えないようでいてはっきりと見える「線」がある。それはずっと前、下手をすると最初に出会った頃からだ。俺はどうしても「其処」には立ち入れない。高杉は問答無用で嫌がるし、ヅラは「困る」という感じだ。完全に拒否してるんじゃなくて、どう反応すればいいのか困るというか。まあなんというか、俺は無意味にふたりを困らせたいわけじゃないので、自然と「其処」には距離を置くようになった。それが果たして正しかったのか、今はまだ分からないままだけど。
「…なあ、」
「…チッ、何だよ、」
「チッてお前…せめて分かるか分からないかくらいのにしとけよ!…あー、もう、いいや。っていうかそれは置いといて、例のアレ、やっぱり山道じゃなくて、街道を通るの?」
「…まァ、時間もねェことだしな」
「ああ、そう」
「不服そうだなァ」
「別に?ただ、ヅラが反対しそうだなあって思っただけ」
「…どうだかな、」
 まるで鼻で笑うように高杉が呟いたので、今度こそ文句のひとつでも言ってやろうと顔を上げる。其処に見えたのは、さっさと踵を返してその場から立ち去る高杉の背中だけだった。なんだこれ。試合すらしてないのに、勝負に負けたこの感じ。
「ああ、もう。すっげー、気持ち悪い」
 まるで性質の悪い二日酔いのような気持ち悪さは、結局夕方まで尾を引いた。さっぱりとしない頭で参加した軍議は、案の定滅茶苦茶になっていた。きっかけは高杉の一言だった。ヅラの提案した移動手段には賛成できないと言ったのだ。
 ヅラが提案してきたのは、次の本陣を置く場所として、山をひとつばかり越えた盆地に進む道順についてだった。人が居ない獣道を迂回しようという作戦で、街道には極力出ないというものだ。先日の失敗を踏まえてなのか、随分と安全な作戦を提案してきた。…まあぶっちゃけると、そういうことを言うだろうなとは思っていた。多分それは高杉も同じだ。共に過ごした時間が長い分、相手の考えが手に取るように分かってしまう。
 それはとても心強いことで、同時に厄介でもある。ヅラはいつも「正しく」あろうとする。それはつまり、無関係の人間を巻き込まないという考えだ。戦場に居るのは自分たちの意思であり、その意思を持っていない人間を巻き込むことは出来ない。だがそれは、自分達の手段を狭めてしまう危険性も含んでいる。
 ヅラの考え方は、整頓された世界をより強くまとめるためにならとても役に立つだろう。正しいものを正しいと評価し、それを実践できる場所でなら。だがここは戦場だ。理に適った、ひとつひとつ順を追った考え方よりも、柔軟な考えの方が勝ってしまう。つまりは結果を伴うものが最優先だ。精一杯頑張ったけど、結局出来ませんでした。そんな言い訳が通じる「場所」じゃない。
 そのことを、俺達はもう嫌というほど知ってしまったはずなのに。
「一度失敗したからこその作戦だ。…負傷者こそが出なかったが、それ以上に無関係な被害を出すわけにはいかない」
「怪我ァすンのも、怖気づくのも、結局は「そいつ」の問題だろ。街道に出たからといって、巻き込まれる方が悪ィのさ。こんな御時勢だ、関わりたくねェってんなら引っ込んでいればいい」
「それは違う、日常を暮らしている人達は無関係だ。俺達は自らの意思で此処に居る。けれど彼等は違うじゃないか」
「違わねェ。無関係ってのは、日常を暮らそうっていう「選択」をしてんだよ。だったら、その日常を手前ェらで守るのが「理」ってモンだ。違うか?違わねェよな。ヅラ、手前ェが言ってンのはな、遠慮でも配慮でもない、ただの自己満足だ」
 ねーねー、もうやめなよ。周囲の温度冷え切ってるよ。と、言えるはずもなく。高杉はヅラに優しい。やり方はとても不器用だけど。それがなんとなくわかってしまう俺もつまり、まあ似た者同士のろくでなしなのだろう。
「そんなこと…、」
「じゃあ聞くぜ。桂、俺達は間違ったことをしているのか?」
「違う、何故そうなるのだ!間違っていたのは俺達ではなく、俺個人の方だ。先日の作戦が失敗したのも、多少の無理を押してしまったからで…、」
「だからってなァ、手前ェ一人で何もかも背負うような真似、してんじゃねェよ」
「え…、」
「俺達にはまだ一番に取り戻さなきゃならねェ「もの」がある。その為に今、何をすべきか」
 ヅラが黙った。そして空気が張り詰める。
「お前ならはっきり分かるだろう。被害を出したくねェってンならとにかく素早く移動すれば良い。街道なら見渡しも利くし、情報も入りやすい。「日常」の中で、無関係を決め込んで「いない」連中からな」
「…高杉、」
 決まった、と思った。こういうときの高杉には誰も敵わない。そもそも、ヅラはどちらかと言えば「意見のまとめ役」の方が向いているのだ。いつだったか先生が誉めていた、物事の全体を見渡すことの出来るヅラの「先見の目」。それはきっと、そういう立場での方が役に立つ。
 今はまあ単純に、俺達の中で他に「適任」がいないというだけで、ヅラが頭ひとつ抜きん出てしまっているだけに過ぎない。何より、村塾の頃からの仲間達は誰も彼も、心の何処かで「面影」を重ねてしまっている。口には絶対出さないけれど。隅から隅まで、何処ひとつとっても、似ても似つかない筈なのに。
「ほいじゃあ、先頭はワシらぁに任せとうせ、」
「何だって?」
「なあに、こがぁな話なら、新入りの方がええじゃろう」
「物分りが良くて何よりだ。それじゃあ銀時と俺が後方、坂本達の布陣を組む。ヅラ、お前は真ん中だ。…異論はねェよな?」
「…異論など、あるはずがないだろう。だが、ひとつだけ」
「何だよ、」
「俺はヅラじゃない、桂だ!さっきから貴様ら、人が何も言わないと思って!」
「あっはっはっは!ええのう、ヅラはまっこと面白いぜよ!」
「だから、ヅラじゃないと言っているだろう!」
 辰馬とヅラのやりとりを聞いていた周囲の仲間達からも、どっと笑い声が溢れ出した。ああ、なんか、いつもの感じだ。得意げな顔で笑っている高杉と、凛々しい表情で前を向くヅラと、それをぼんやり眺めている俺と。そして新しく仲間になった、馬鹿馬鹿しいほど明るく大きな声をした男と。
 
― やっぱり、こういうの、いいなあ。

 贅沢を言うなら、ここに甘いものがあれば最高だ。金平糖とか、大福とか、羊羹とか、いちごとか。そういえば、初めて食べた甘いものは、先生が育てた「いちご」だった。また、あのいちごを食べたい。出来るだけ、ほんとに出来るだけ、近いうちに。大丈夫、きっと食べることが出来る。だって俺には、変わらない仲間が居るのだから。
「軍議はこれで終わりだ。他に何か意見があるものは居ないか?」
 ヅラがぐるりと周囲を見回すと、全員が首を横に振った。自分達の言いたいことは、全部高杉が言ったとでも言うような表情だ。

― ああ、そういう、こと。

 高杉は、こうやってヅラを護ろうとしているのだろうか。物事を「どう」言えばヅラが納得するか、そして「どう」言葉を使えば、決定的な否定にはならないように出来るのか。どれだけ厳しい言葉を使ったとしても、それは絶対にヅラを傷つけるものではない。先の失敗をひとりで抱え込もうとしていたヅラを、こんな風に、高杉は――。

 ああ、こいつの見ている世界って、ほんと。

「おっかねー…、」
 誰にも気づかれないよう、小さく呟いたつもりだったのに、その場を立ち去ろうとしている高杉が、ちらりと視線を投げてきた。条件反射のように、数秒と間を置かずに「べえ」と舌を突き出して眉を顰めると、今度こそ鼻で笑われた。あいつ、マジで今度ぶん殴ってやろう。
「銀時、」
「ああ、何?」
「いや…坂本とは知り合いだったのか?」
「はあ?辰馬と?なんで?」
「気づいていないのか。お前、名前で呼んでいるじゃないか」
「え、」
 はた、と動きを止めて、ああ、と思った。馬鹿馬鹿しい程の明るさが「嫌じゃない」というより、求めてしまっていたのだ。普段なら受け入れることの出来ないような「他人」を、気づかない内に受け入れてしまうくらいに。

― 俺、思ったより、荒んでるのかな。

 途端、やっぱり甘いものが欲しくなった。先生が育てた「いちご」でも、ヅラが正月に持ってくる栗きんとんでも、高杉が得意な表情で持ってくる高そうな和菓子でも、もうなんでもいい。出来るだけ、ほんとに出来るだけ、早く。訝しむような顔をしているヅラを振り払うようにして、そそくさとその場を後にする。こういうときはもう、さっさと眠ったほうがいい。今日の夜、見張りの番は、俺でも高杉でもない。だからもう、何も考えずに眠ったほうが、そのほうが、いい。

 ずるずるとした動きで寝床を見つけて、ごろりと横になった後。頭では嫌というほど分かっていたのに、結局いつものように眠ることは出来なかった。










 誰も居ない部屋の片隅で、細い指がするりと髪を梳く。昨晩より乾いている晋助の唇が、角度を変えて何度も重なる。昨夜の甘い陶酔。その余韻に浸ったまま、自分でも驚くほどよく眠れた。晋助との「最初」の全てが終わった後。濡れた頬を何度も何度も撫でる晋助の手が、どうしようもなく愛おしかった。どうして、幼い恋で終わることが出来なかったのだろう。幼い恋で終わるなら、きっと、きっと幸せな夢だったのに。
「…ずっと、長いままだよなァ、」
「そうだな、何だかんだと切り損ねたままだ」
「切んなよ」
「え?」
「切んなよ、このまま、ずっと。…切らないままで、居ろよ、」
「高杉、」
「ふたりのときは、名前、呼んで。」
「…晋助、」
「ン、」
 ふっと満足そうに笑った晋助が、まるで幼い子供のように見えた。ずっと昔、大雪の降った夜。晋助が熱を出して寝込んだ日。側にいると伝えると、苦しそうに、けれど安心したように息をする晋助を、放っておくことなんて出来なかった。一緒に思い出したのは、病は気からだという生家の父の言葉。

― お前が、俺に教えたんだろ。こうしろって。

 昨日の夜、晋助が「そう」言ったのは、もしかして―――、
「なあ、晋…、え、あ…、」
「こたろう、」
 少し低くなった声と、熱い掌が素肌に触れる。咄嗟に、駄目だと思った。いまここで許してしまったら、きっともう、歯止めが利かなくなってしまう。
「だ、駄目だ、晋助、」
「…、どうして、」
「明日は移動が控えている。…それは、もう失敗が出来ないことだ。このまま、」
「そうなったら、和歌をやるよ」
「和歌?」
「回文の…、覚えてねーの?」
 笑みが含まれた口許に胸が弾ける。晋助の意図することが分かって思わず口調が早くなった。
「あれは…、あれには、煩悩に溺れるなという意味が含まれているんだぞ。俺はいま、このまま…、このまま、晋助とまた、そう…、な、なってしまったとして、眠れなくなったらと言っているんだ、」
「ハハ、あながち間違ってねーんじゃねーの、」
 晋助の指先が裾を割る。取られた腕はもう逆らえなかった。
「和歌が嫌なら…、そうだな、俺の名前をくれてやる。もしお前が眠れねェってんなら、俺の名前を書いて枕の下に入れればいい。…例え離れていても、そうすりゃ一緒に眠れんだしな」
「…本気で言っているのか?」
「悪くねーだろ?」」
 返事が出来ない。それは無言の肯定だった。
「心配しなくても、お前の名前も貰ってやるよ」
「な…、晋助、お前はいつも、」
「…なァ、黙れって、」
「あ…、」
 触れ合う唇から、眠っていたはずの甘い余韻が引きずり出される。襟元から差し入れられたてのひらが、もう止まることはないのだという確かな意思を持っていた。
 
― いつか、好きだと言えるのだろうか。

 重なってくる唇からも、抱き締めてくる優しい腕からも、あつく触れ合った素肌からも、想いが溢れてしまっている。心が想うままに、気持ちを伝えることが出来たなら。幼い恋のまま、柔らかい腕に思う存分、甘えることが出来たなら。言葉にすら出来ない想いを抱えたまま、いつか眠れない夜が来るのだろうか。もしいつか「そう」なってしまっても、せめて一緒に眠りたい。例えそのとき、遠く離れてしまっていても。

 少し開いた窓の隙間から、桜の香りがふわりと舞い込む。忘れていた。もう桜が咲いている頃だったなんて。そう言えば、もう随分と、綺麗な空を仰いでいない気がする。
 明日になったら、綺麗な空を見上げよう。躰を包む優しい腕に甘えたままゆっくりと表情を崩すと、晋助がふっと微笑んだ。昨日のように、今日も一緒に眠りたい。叶うなら、どうか叶うなら、出来るだけ長く。そう心の中で願いながら、自分から晋助のくちびるに唇を重ねて、背中に回した腕に、ゆっくりと力を込めた。
























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// 2014/1/12 :発行「インソムニア」
// 2016/8/12 :WEB掲載(加筆修正)

本誌で攘夷面子の過去が明らかになる前に書いたお話でした。
いま思うと「なんにもあってないぞー!」ですが(みもふたもない)、これもリアルタイムならではですね。
そしてこのころからだいぶ高杉さんが受けっぽくて(みもふたもry)無意識にでも滲み出るものがあるんだな、と加筆修正しつつ再認識して面白かったです。


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