13 迷子
闇の中を歩いていた。か細い月が天(そら)にひっかかってはいるが、吹けば消えそうなほど頼りなく、心細さを助長するばかりだ。
寒くて堪らない。
腕をさすろうとしたら、誰かに左手を掴まれていることに気がついた。冷たくもなければ暖かくもなく、握られた感触から、手であると認識しただけだ。
それにしても寒い。忍び寄ってくる冷気にブルリと身を震わせた。
「手を離してください。ここは、とても寒い」
いくら呼びかけても応えはない。強引に腕を引く。
――手を離すな、声を上げてもならぬ。
声が降ってくる。男か女の声かも分からない不思議な声だ。幾重にも反響して脳髄を巡る。
「なぜ? あなたは誰ですか?」
相手の顔はおろか、掴まれている手すら見えなかった。
――ようく見てくれ。見えるだろう?
感触はある。声も聞こえる。だというのに、気配もなければ熱も感じない。その上、どんなに目を凝らしてみても、塗りつぶされた闇があるばかりだ。
「何も見えません。見えるのはただ、細い若月(わかづき)が……」
――そうだ、そばにいる。心を鎮めて、ついておいで。
返事をしようと開いた口を閉じた。了承の意を込めて強く手を握り締めると、天の月が笑った気がした。
そのまま、どれくらい歩いただろうか。
――ふむ……まずいな。
ぐいぐいと腕を引かれ、引っ張られるように走り出した。
ゴウッと風が吹いた。冷たい空気の塊を四方八方から叩きつけられる。頭から冷水を浴びせられたかのようだ。凍えそうなほど寒いのに、冷や汗が吹き出した。
頬を撫でた風がうねりを上げて渦をまく。雅のひと房だけ長い尻尾のような襟足の髪が、風に弄ばれてあちこちに流された。
懸命に動かしていた足がもつれ、転びそうになる。何とかこらえて走り続けた。
何もわからない状況だが、事態が悪化したのだということは理解できた。
頼みの綱は、雅の左手と繋がる導き手だけ。
だが、突然、その手の感触が消え失せた。「え?」と声が漏れる。
――先に行ってくれ。
声が降ってきたと同時に、今度は地面が消えて無くなった。
感じる浮遊感。
闇の中を真っ逆さまに落ちてゆく。
「三日月殿……!!」
月に向かって手を伸ばしたが、届くはずもない。
――ママ! 棄てないで! ママぁ!!
意識を失う寸前、母親を求めて泣きじゃくる子供の声が聞こえた気がした。
++++
鳥のさえずりが聞こえる。だが、可愛らしい小鳥のものではなく、ガァガァと濁ったカラスの声だ。
耳障りな声に揺り起こされて瞼を持ち上げた。最低な目覚めだ。
「朝です、か……」
とはいえ夜が明けたのなら、やることは山のようにある。
「お洗濯と、朝食の用意……、お天気がよければ、布団も干して……」
今日の来客予定はどうだっただろうか。ぼんやりとする頭で昨日の記憶に手を伸ばす。なぜだろう、ひどく身体が重い。
「残念ながら今日の天気も芳しくなさそうだ。布団を干すのはまたの機会に、だな。しばらくは寝ていた方がいい。……身体はどうだ? 辛くはないか?」
枕の上に乗せられていた頭を横に向けると、色白で、儚げな容姿をした黒髪短髪の少年がいた。あぐらを組んで不敵な笑みを浮かべている。外見通りの中身ではなさそうだ。
「……あなた、は?」
どこかで見た顔だ。
「俺っちは、薬研藤四郎ってんだ」
記憶がカチリとはまる。ああ、と全てを思い出した。
「私は、新しく、審神者になった者です」
「やはりそうか。覚えているか? あんた、突然、弾かれるように何もない空間から飛び出してきたんだぞ?」
「私の、他には」
「あんたの他は誰も居なかった。連れがいたのか?」
「……ひどい、風が」
「時空の嵐に会ったのか……身体がまいって当然だな。一応、手当はしておいたぞ」
「あり、がとう、ござい、ます」
「気にするな。あと無理に喋らなくていい。喋るのが辛いんだろう?」
声を出すのが億劫だったのは確かなので、首を縦に振った。
「ところであんた、嵐に会う前にも何かあったのか? 血まみれとは只事じゃない。が、まぁ新人でも審神者なら想像はつくな。遡行軍か?」
ゆっくりと頷く。
「腹のアザはその時にやられたのか。……ん? なぜ分かったって顔をしてるな」
もう一度、頷く。
「時空の嵐の話だが、大抵、遡行軍がちょっかい掛けてきた時に起こることが多いんだ。時空の果てなんぞに飛ばされなかったのは幸いだが、よりにもよってウチに来るなんて、あんたも運がないな」
「ここ、は、どこです、か?」
話によれば、今は使われていない、空っぽの本丸に赴任すると聞いていた。既に顕現された刀剣男士がいるのなら別の場所に飛ばされた可能性が高い。
それにまだ聞きたいことはある。
だが、意思に反して思考は鈍り、瞼が落ちてゆく。
「その、怪我、は……どう、して」
ずっと気になっていた。なぜそのように、包帯にまみれた姿をしているのかと。辛くはないか? 辛いんだろう? と再三に渡って訊ねてくる彼にこそ聞きたかった。
「あなたこそ、辛くは、ないのです、か?」
意識が沈む。
霞む視界の中で、何事もないかのように澄ました表情をしていた少年が、クシャリと顔を歪めた。絞り出すように吐き出された願いが耳に届いたところで、雅の意識は闇に沈んだ。