- ナノ -
今日は母とお菓子を作る約束をしていた。可愛さ重視のフリフリの沢山ついた薄桃色のエプロンをつけて、母とキッチンに並ぶ。スケールで材料を計っていると、玄関先が騒がしくなる。どうやらまた兄達が口論しているらしい。

「あらあら、元気ねぇ……」

ヒートアップしていく声にエヴァが苦笑する。手が出るのも時間の問題だろう──と、考えた矢先から、剣戟の音が混じった。

「そういえば、エリカは魔術の特訓しているのよね?どう、できてる?」

「ん……まだ、ぜんぜん」

砂糖を計量して器へと移しながら、渋い顔をしていると母は大丈夫よとあやすように頭を撫でてくれた。
あれから父と魔術の練習をしたが、成果はいまいちだ。火の魔術は指先にライターくらいの火を灯すので精一杯だったし、氷は辺りの空気の温度を数度下げただけだったし、雷に至っては発動すらしなかった。最初だから、と父は励ましてくれたものの、本当に私に魔術が使えるようになるのか不安になる出来映えである。その後も何度か自主練習をしたが、結果は──。

ため息交じりに卵に砂糖を入れて泡立て器で混ぜる。こつん、と額に軽い衝撃。

「こら、ため息つくと幸せが逃げちゃうわよ」

「だってぇ……」

「だいじょーぶ!私の自慢の娘だもの!」

母の満面の笑みを見ると不思議と不安は和らいだ。つられるように笑う。ふと、窓の外を見るとバージルが街に向かって駆け出すのが見えた。


ケーキの型に生地を流し入れて、オーブンに入れた。母に教えられた通りにタイマーと温度を合わせて、後は待つだけだ。

「あれ?」

またも玄関先が騒がしい。どうやら出ていたバージルが帰ってきたらしく、さっそくダンテが絡みにいったようだ。こちらの作業が一通り終わって洗い物をしていた母が濡れた手をそのままに駆け出していく。
その背を追いかけて、エリカも玄関先へ行くと「こら!」と母の鋭い声が飛んだ。

「「だってこいつが!」」

母の背からひょっこりと顔を覗かせると二人がお互いを指差し睨みあっていた。台詞が被ったのが気に入らなかったのか再び拳を振り上げる。

「言ったそばから喧嘩しないの!ダンテも煽らないで。バージルも……お兄ちゃんでしょ。言っても分からないなら今日は二人ともお庭の草むしり!」

「え〜〜……」

母に叱られてダンテは不満そうに声を上げ、バージルは不機嫌そうにムッとする。

「嫌だ!俺は今日、本を読むって決めてたんだ!」

「あっ!お兄ちゃん!?」

弾けるように立ち上がり、バージルはどこかへ駆け出していった。母が名前を呼ぶがバージルは止まらない。

「ママ。私お兄ちゃんのとこに行ってくる!」

「仕方ないわね……お願いするわ、エリカ」

母の許可が下りると同時にエリカはすでに見えなくなった兄を追いかけるために走り出した。
バージルの向かう先の予想はついていた。いつものあの公園だろう。母に怒られるとバージルはすぐあそこへ逃げる。ダンテには今のところ嗅ぎ付けられていないらしい。

慣れた道を歩きながら、深呼吸をする。微かに湿った匂いがした。もしかしたら雨が降るのかもしれない。

「早くお兄ちゃんのとこに行かなきゃ」

雨に濡れて風邪を引いたら大変だ。公園まではまだ距離がある。エリカは少し足を早めた。

道のりを半分ほど過ぎた頃、不意に空気が淀んだ。重く、暗く、息が詰まるようなそれが身体にまとわりつく。子供ながらに嫌な気配を感じて、冷たい汗を握る。
草を踏みしめる音に弾けるように振り返った。鎌を引きずる悪魔が数体、こちらに迫ってくる。

「ひっ……あ、あくま……」

恐怖に喉が引きつった。戦いの手解きを受けたとはいえ、実際に悪魔と戦ったことはまだない。助けて、と叫ぶこともできないままエリカはカラダを震わせながら、後退する。

「──っ!!」

必死で両手を前につき出して、魔力を放った。凍てついた青白い光が手のひらから放たれて、悪魔──ヘルカイナの骸のような顔を凍りつかす。しかし、それはたった一体のヘルカイナの歩みを少しだけ遅めただけに過ぎず、周りの悪魔はもうすでにエリカの目と鼻の先まで近づいていた。

振り上げられた鎌を地面を蹴って避け、駆け出す。

怖い。恐い。コワイ。こわい──。

恐怖に埋め尽くされる脳内。こんな沢山の悪魔に勝てる訳がない。助けて、と心の中で叫ぶ。父、母……それからダンテとバージル。脳裏に過る家族の姿に泣きそうになった。

(バージルのとこにいかないと……)

ここからだと家に帰るよりも、公園の方が近い。バージルはエリカよりも強いから、バージルと合流すればきっと何とかしてくれる筈だ。

地を蹴り、必死で悪魔から逃げる。背後から悪魔の呻き声とも泣き声ともつかない不気味な音が聞こえて、心臓が縮こまった。
エリカの小さな背丈では出せる速度など到底しれている。走れば走るほどに息は切れ、足の動きは鈍り悪魔との距離は着実に縮まっていた。

「ぁ、」

軽い衝撃が背中に走る。かくんと身体から力が抜けて倒れた。声は出なかった。

刺された。それに気づいたのは地面を濡らす、滑り気のある赤い液体を見てからだ。痛い。ダンテに剣で叩かれた時よりもずっと。腹部を焼かれているかと錯覚するほどの激痛だ。いたい。土を掴み、歯を食い縛った。痛みを和らげようと大きく呼吸をするために地面から顔を上げて、絶望する。

「あぁ……」

一体や二体ではない大量の悪魔がエリカを取り囲み、鎌を振り上げていた。

「たすけて、おにいちゃ──」

言い切る前に、その切っ先はエリカの身体を貫く。幾重もの衝撃が身体に落ちて、鮮血が視界を染めた。ごぼりと喉の奥からも赤い液体が溢れる。逃げようと伸ばした手のひらをも縫い止められた。

痛い、という感覚はもはや麻痺していた。何度も振り上げられ、何度も振り下ろされ、抉られる。無意味に頑丈な身体は中々死には至らない。緩やかな再生と破壊が繰り返される。

「あ"ぅ……」

心臓を貫かれた感覚がした。冷えきったそれが熱を持つ心臓の真ん中を通り抜ける感触に身体が震える。まだ死ねない事に絶望さえした。

唇の隙間から漏れ出る微かな悲鳴は誰にも届かない。悪魔が嘲笑うようにカタカタと骸を鳴らす。空を切る音がして──

次の瞬間には意識は途絶えていた。
regret 02

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