撚糸 ヴァレンタイン小話
「兄さん、なにやってるの?」
夕陽というには、まだ空が少し明るすぎる頃。いつもより早く仕事から帰ると、兄さんが台所に立っていた。その背に声をかけると、兄さんの体が跳ね上がる。いつもは垂れ流したままの長い髪を後ろで結っていて、振り向いた顔を見ると、珍しくメガネをかけていた。
兄さんはというと、目をまんまるにして何やら挙動がおかしい。
「お、おかえり、や、いや、ちょっと腹減って」
「へー、何作ってるの?」
挙動がおかしい兄さんが面白いのと、何を作ってるのか好奇心で俺は兄さんに近づいていく。すると、兄さんに、タンマ!!!と、大きな声で止められる。
手をこちらに広げて、あまり見たこともない必死な兄さんだった。顔を控えめに上げ、目線はこちら側に向いて、少し上目づかいで俺を見る。あ、かわいい。
可愛い兄さんは、言葉をこぼす。
「なぁ、夏久。お前、今時間ある?」
「ん?今日は、早く終わったから帰ってきたんだよ?別段用事もないけど」
「…ちなみに悠太はいつ帰る?」
「今日は、係の仕事で遅くなるって言ってたよ?」
「獏さんは?」
「今日は、井戸端会議〜って言って近所のファミレスに」
質問の意味が全く分からない。兄さんは、そっかと、つぶやくとどうしてだが、にこりと笑った。胸がきゅうとなった気がした。兄さんの笑顔が戻ってきて随分と経つが、まだ、慣れない。いつも、息が止まってしまう。
「なぁ、ケーキ食う?」
「は?」
ケーキ?
固まる俺に、兄さんはこくんと首を縦に振る。にこにことしていてとてもご機嫌なことがわかる。
「ケーキなんか初めて作ったんだけど、初めてにしては」
「ちょっちょっとまって。作った?兄さんが?」
「うん。大変だったんだからな。俺、お菓子なんかそんな作ったことないし、小さいメモリみながらあーだこーだしてたんだから」
やわらかな衝撃が頭に響き、言葉が舞う。
兄さんのケーキ?
食うって?
二人で?
あ、だからメガネ
てか、にこにこしてるにいさんほんとかわいい
ていうか、なんで?
「たべたい…けど、なんでケーキ?」
「あぁー…えっとほら、明日バレンタインだろ?だから、お菓子とかいいかなぁって…実験を…」
照れた様にはにかむ兄さんから目が離せない。じんわりと胸が熱くなって、どうしてか泣きたくなった。兄さんは、俺の考えてることなんか分からないから、見んな!と、すこし怒っていた。
そのあとは、無理やり椅子に座らせられて、紅茶が入るのを待たされることとなった。数分後、出てきたのは綺麗な橙色の紅茶とホイップクリームののったシフォンケーキだった。
食べている最中、実験的に作ったと何度もにいさんは繰り返していたが、ケーキはもふもふとしておいしかった。
陽が落ちるまでの短い時間、俺はひどく幸せだった。
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