◎ サロメ4
この晩、ありすはまったく未知の化け物に襲われた。それは今まで通常通りの生活をしてきたと思える、二人の人間の変わり果てた姿でもあった。
間一髪ありすを救ったのは、土方だった。急所は外したが、ありすを逃がす時間を稼ぐには十分だった。
土方の腕に庇われるように、その場を離れる。静かになったと思った化け物の呻き声が、再び月夜に響いた。
「何なのですか…?!あんな深手を負わせたはずなのに、まだ動いてる……!」
ちらりと土方の方を見れば、いたって冷静だった。
ただぎゅっとありすの手を掴む土方の腕だけが、ありすを狂わせずにいた。
「ありす、怪我はねぇか。」
「はっ、はい。大丈夫です……」
「ったく……芹沢さんは、どうした。」
一瞬ありすを心配する素振りを見せた土方は、あっという間に化け物たちに斬り込んでいった。既にその場には沖田をはじめとして、新選組の幹部たちが集まっていた。すでに一体、新見錦の方は、息絶えたようだった。この場にいない幹部たちは、事態の収拾に向かっているのだろう。
ぐさり、と土方の刀が化け物の心臓を貫いた。大量の血飛沫をあげたと思ったら、化け物たちは一瞬にして灰となって散っていった。
「なんなの……これ……」
唖然として、ありすは身動きがとれなくなった。かたかたと震える体に、そっと手を添えてくれたのは沖田だった。
「君も間が悪いなぁ。これ、見ちゃったよね?」
これ、というのはこの化け物たちのことだろうか。見てはいけないものを、どうやらありすは見てしまったようだった。訳もわからず、責められた気分だった。
「総司、この状況では仕方あるまい。あんた、大丈夫か。」
沖田とは対照的に、ありすのことを気遣ったのは、三番隊隊長の斎藤だ。ただ二人とも、しっかりとありすの前に立ち、まだ戦闘態勢をとっていた。
「まったく、芹沢さんはこの状況で何を考えいるのかわかんねぇな。一応ありすは、芹沢さんの女だろ。」
新選組幹部の中で最も男らしいのは、十番隊隊長の原田だろう。
斎藤や沖田と違って、ありすの体をしっかりと抱きかかえていた。
「土方さん、この子、どうします?」
刀を鞘に納めながらこちらに戻っていた土方に、沖田が問いかける。
返り血をたっぷりと浴びた土方が月明かりに照らされて、ありすの目に映った。
ありすは先ほど土方に掴まれていた左手を見る。
痛いくらいに掴まれていたその腕には、くっきりと、土方の指の跡が残っている。
ただそこから、安堵感とは違う、あたたかいものを感じていた。
「まずは俺が芹沢さんと話をつける。とりあえずありすについては、新選組幹部で預かる。」
着物についた血液など構わず、芹沢鴨の部屋へを向かった。
「誰が預かりますー?土方さん。」
「原田にでも任せとけ。適任だろ。」
「だとよ、ありす。」
原田に後ろから押されるように、ありすはその場を後にした。
ありすは小鳥のさえずりで、目を覚ました。
昨晩はあまりにも現実からかけ離れたことが起こりすぎて、そうとう参っていたようだった。体を起こそうとするが、どうしても布団に戻ってしまう。
「おう、目覚めたか。」
目を閉じつつも聞こえた声に、ありすは驚いた。
「ひ、土方さん...!?なぜこちらに....。」
「それはこっちが聞きてぇよ。原田の奴...俺の部屋にお前を置いてきやがった。」
確かに昨晩、土方は原田がありすを預かるよう指示を出した。
原田も、「今夜はここを使え」とありすを案内したはずだ。ありすは眠気に押し潰されつつ、その記憶をたどる。
「それじゃあこのお部屋って、土方さんの....!?」
「ったく、俺が芹沢さんと話してる隙に、俺の部屋に連れてきやがって。」
土方は大きなため息をつくと、手元を書状に目を通し始めた。
遅くまで芹沢鴨と談義をしていたのだろうか、その目元が物語っている。
果たして芹沢鴨との話し合いはどうなったのだろうか、ありすが聞こうとしたとき。
「やっぱり、言いだしっぺが預からないとねぇ。」
障子の向こうに、大きな影が動いた。
紛れもない、沖田の声だった。さらに高らかな笑い声が聞こえてくる。
「総司、お前...!!」
「朝食できてますってよー」
朝食の準備は、本来ありすの仕事だった。
おそらく斎藤らが、気を使って代わりにやってくれたのだろう。
ありすは布団から飛び出して、全員が集まる場所へと走って行った。
「それで、ありすどうするんだよ?」
八番隊隊長の藤堂は、ありすと一番年が近い。これまでにも連れ込まれた哀れな遊女たちに対して、一番親切に接していたという。
任務もままならない状況でこのような問題が起こってしまった。ありすにとっては何が問題かすらよく分かっていなかったが、自分の身がどうなるかは気になっていた。
「平助、それはこのような場で話すことではないだろう。」
斎藤がたしなめる。
「いや、いい。あとで個別に話すつもりだったが、近藤さんと決めたことを、お前らにも伝えておこうと思ってた。」
どうやら土方は、芹沢鴨だけでなく近藤とも話を進めていたようだった。
近藤の名が出れば、全員小さく頷いた。よっぽど信頼を得ているのだろう。
「とにかく、芹沢さんの近くにコイツを置いておくのは危ねぇ。万が一殺されて福田屋に文句言われちゃたまんねぇしな。事を大きくするわけにもいかない。だがあれを見ちまった者を外に出すわけにもいかねぇ。」
土方が言った「あれ」とは、おそらくあの化け物のことだろう。ありすは漠然とその様子を伺っていた。
「そこでだ、改めてひとまず新選組でこのまま預かり続けることにした。芹沢さんには近づけるな、お前ら、全力で見張ってけ。」
「だけどよ、土方さん。芹沢さんの機嫌を損ねちまいかねないぜ。」
あくまでありすは、芹沢鴨のものだ。ここに転がり込んだ理由も、同じくそうである。昨晩芹沢鴨がどういう反応を示したかありすは知らなかったが、今度もあの男からは逃れないだろう。
「だよなぁ、その....夜、とか。」
藤堂が顔を赤らめながら言ったことは、間違いでない。
「あの人の機嫌を悪くしたら面倒だからな、とりあえずそん時は遠くから見張っとけ。」
「そ、それはちょっと、私が....。」
ありすは急いで間に入った。つまり、芹沢鴨は確かに危険な一面もあるがその最中を見られるのも、勘弁だ。
「あーめんどくせぇ。じゃ、どうやらお前、一通り護身術くらいは分かってるみてぇだし、そん時だけは手前の身は手前で守れ。」
ありすはただ、頷くしかなかった。
個別にされた話は、先程と大きくは変わらなかった。呼ばれない限り、芹沢鴨には近付かないこと、出来る限り近藤側の新選組幹部と行動を共にすること、そして昨晩見たことは平隊士に口外しないこと。ありすはこれらの忠告をうけた。
ただ、変わったことといえば、ありすがこれから生活していく場所だった。今まで芹沢鴨の近くの和室だったのが、今度は土方の部屋のすぐ隣の物置になった。
「荷物は既に除けてある。悪いが、掃除は自分でやってくれ。」
力仕事を済ませてあるのは、土方なりの気遣いなのだろうか。思ったよりも広いその部屋に、ありすは安堵した。
「隣に俺がいる。何かあったら、すぐに言え。」
「……皆さんのお手伝いは、変わらずさせて頂いてもいいでしょうか?」
「構わねぇが………、んな気を遣うな。手前の意思でここに居るわけじゃねぇだろ。」
ぴしゃり、と音を立てて襖が閉められた。
ただありすは、渡された箒と雑巾を持って、立ち尽くしていた。
思わぬ好機がありすに巡ってきた。
時間はかかったが、土方の首に一歩近付けたような気がしていた。
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