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 万年筆

「なあ……ありす………」


大好きな低くて甘い声が私を呼ぶ。


「もう少しいいじゃねぇかよ……な?」


不安げな縋るような瞳に私の心も揺れる。






休日の夜。

自宅まであと五分のところ。


昼間なら若葉が眩しい街路樹の真下に停まる車の中で、帰ろうとする私を引きとめる彼。

運転席から私の座るリアシートに移動して、優しく抱き締めてくれる。



彼の望むまま……

私の思うまま……



心のままに振る舞えたらどんなに幸せだろう。



何度思ったかわからない。



もっと若かったら。

もっと早く出会ってたら。



悔んでも甲斐のないこと。

そんなこと……わかってるわ。



「なあ……いいだろ?」


手を握り私の瞳を見つめて心の中を覗こうとするのは土方歳三………私の彼。

その瞳もその手もその体もその声も。

全てが愛しいわ。


「ありす……愛してる……お前も同じだろ?」


もちろんよ。

痛いほど……苦しいほど愛してる。


「愛して……いるんだ……お前以外は何もいらねぇ……ありすが欲しい……」


男なのに息をのむほど美しいその表情が、追い越していく車のヘッドライトに照らし出される。


「ありす……愛してる……愛してるんだ」


愛を囁く言葉が、不安げで哀しげに聞こえる。






仕事をしてるときとは別人ね。


強くて直向きで真直ぐで……志が高くて。

自分の信じた道をひたすら突き進む。



眉間に深い皺を刻んで相手を見据える鋭くて力強い視線は、まるで日本刀で斬りつけているみたいな迫力があるって。











夫が言ってたわ。






土方は、参議院議員 近藤勇の私設第一秘書。

後援会の幹部にも一目置かれる有能な秘書。

土方の仕事、それは夫の身のまわりの全て……スケジュールやお金の管理、女性関係や政界工作のウラの裏まで……一切をとりしきる。



近藤はとても優しいひと。

私を妻として敬い助け護ってくれる。



最初は私の父や祖父の名前に惹かれ、打算だけの養子縁組と結婚だったのかもしれない。

父からこの男がお前の夫だと言われたときは、多少の戸惑いはあったけれどその朗らかな表情と優しさにこの人ならと安心したことを覚えてる。



男子に恵まれなかった父の眼鏡に適うひとだとしたら、それはすごいことだと思った。

実の息子ならば許せることも、養子となると厳しくなるに決まってる……それをクリアできるこのひとについて行こうって決めた。

政治の世界に住む父親を持つ娘……しかも私のようにひとり娘ならば、誰もが覚悟しているはず。



夫を愛しているかと訊かれれば、愛しているともちろんそう答える。

私に向けられるあの笑顔も優しい言葉も愛情も……かけがえのない大切な宝物。



ただそれは、私だけに向けられるものじゃない。



夫にはたくさんの【女性】がいる。

そんなの珍しくもなんともない。

嫉んだり妬んだりすることじゃない。



そう……当たり前のこと。

両親にこのことを相談すれば、叱られるのは私。

別宅から帰らない人もいるのに、夫は必ず帰って来てくれる。

帰って来ない日のことは……出張っていうの。







半年前のある夜。



土方がバツの悪そうな顔で家にやって来た。

「あの……先生は……急な出張で……」

電話で済ませればいいのにわざわざ来るなんて、土方も大変よね。

『そう……わかったわ。嫌な役を押し付けてごめんなさいね。土方君もお疲れ様。もういいから今夜は帰って休んでね』

夫の浮気なんかより土方が気の毒になってくる。

「…………あの……」

私を気遣うように見つめる瞳が綺麗で……引き込まれそう。

『いいのよ。なにもかも……承知していることなの。私は大丈夫よ』

心配しないで……これは嘘偽りのない本当の気持ちなのよ。



そう……夫が【家内】と呼ぶのは私だけ。



選挙のときは夫の代わりに地元へ飛んで行き、後援会の有力者への挨拶まわりをし、嫌味にならないスーツに無難な化粧と髪型で装い、立っているものなら電柱にも頭を下げる……それが政治家の妻なのよ。



当選した夫の隣で支援者からの万歳三唱を有難く受けることができるのも私だけ。

私より愛されている女性がいても、この役は私にしか出来ないの。

ホステスさんだろうが、キャバクラのお嬢さんだろうが、アナウンサーさんだろうが女優さんだろうが………興味ないわ。





「あの……しかし……」

………それでも土方は心配してくれる。

『いいの……わかっているの』

………こんなの、しょっちゅうよ。

「………っ!ありすさんっ!」

………土方の切ない声が耳に届く。



腕を引かれて抱きしめられたとき、何が起きているのかわからなかった。

土方が……秘書が代議士の妻に手を出すなんて、万が一にもあり得ない。



だけど………

そんなことわかってたけど……



もう……止められなかった。



耳元で好きだと繰り返し囁かれ、見つめあって口付けられ、理性を壊されてしまった私はその日初めて土方に抱かれた。



激しい行為のなかで私は、夫のことなんかこれっぽっちも考えなかった。

裏切って申し訳ないとすら思わなかったわ。

そんなこと考えてる余裕なんかなかった。

ただただ、土方の激情に身を任せたの。

本当に……本当に幸せだったわ。



それからの私たちは、共犯者になって綱渡りみたいな逢瀬を繰り返した。






土方は前回の選挙で夫が民自党から立候補するときに大手の広告代理店を辞めて夫の秘書として政界に飛び込んだ。

当然、土方も政治への野心があるはず……若い頃からの知り合いだと夫から紹介されたときもあの自信満々な瞳から目をそらせなかった。

土方も私のことを瞬きもしないで見てたわ。



そのときにはもう……自覚はなくとも私たちは道ならぬ恋におちてたのね。

【道ならぬ恋におちる】なんて……笑っちゃうくらい安っぽい言葉よね。

声が聞きたくて会いたくて触れたくて……でもそれは決して許されない。



初恋に振り回される女の子みたい……約束のない日に土方に会えるかもしれないと思うと化粧にも服にも……そして下着にも気を遣いたくなるほど心がふるえて……ときめいたの。



世話好きの近藤は土方を気に入って家で食事をさせたりスーツを誂えてやったりと、大して年は変わらないのに息子扱いして可愛がってる。



私のこともそれと同じ。

愛してくれているし、大切に抱いてくれる。

花や宝石、着物をプレゼントしてくれる。

私に自由と慈しみをくれる。



だけど……

近藤が私だけを愛してくれることはない。

彼はどの女性も平等に大切にしてるはず。



だから……

私に女性たちの存在がバレていることも。

私が土方を愛していることも。



大した問題じゃないんだと思うわ。



どうでもいい……そう私は。

飾り物の妻なのだから。



もし仮に気付いても、私が道を踏み外すことなどするわけがないと夫はわかっている。

父や母、祖父や祖母、おじやおばたちに迷惑がかかることはできないとわかってる。



秘書との火遊びに真剣になるとは思っていない。



そうよ、そのとおり。

土方をどんなに愛していても、離婚なんて出来っこないわ。



それと同じ理由で、夫がこの関係に気付いても怖くないわ。

曾祖父さまから続く地盤や後援会、資金面でのバックアップなしに、近藤があの若さで代議士になんかなれるわけがない。



持ちつ持たれつ……私たちの間には離婚なんてあり得ないのよ。



もしかしたら………

近藤はなにもかも承知しているのかもしれない。

あの夜……土方と私がこうなることを予測してきっかけを与えたのかもしれない。



私にも大きな十字架を背負わせて、これから先の人生を夫婦共に歩くことを覚悟させる気かもしれない。




うふふ。

望むところよ。








「ありす……どうした?何考えてる?」


微笑んで首を緩くふって応えたあと、用意しておいたものを渡す。


『歳三……お誕生日おめでとう』


「知ってたのか……?」


驚きながらも嬉しそうな顔……こんなに気を許した顔を見せてもらえるのは私だけ。


『もちろんよ。どうしてもこれを歳三にプレゼントしたくて』


ルームライトを点けてラッピングを外す歳三は子供みたいにワクワクしてる。


「おいマジかよ……スゲェな……いいのかよ?」





マイスターシュテック149……素敵でしょ?

名だたる政治家たちが条約の調印式で使っているのがこれなのよ。





歳三は知っているかしら……



万年筆を贈るのってね【もっと精進しなさい】って意味があるの。

秘書として経験を積んで顔を繋いで立派な政治家になって。

前を向いてもっと頑張って偉くなって。



いつか私を夫から奪ってくれる……

そんな他愛ない夢を見させて。



「大事にしなきゃな……これも…お前も……」



嬉しい……その言葉だけで幸せになれるわ。

いいの、大丈夫よ……安心して?

……私はちゃんとわかっているの。



もし本当にそんな日が来たとしても、歳三が選ぶのは私じゃないってこと。

どこかにいる私と同じ立場の別の女性。

歳三の隣に並ぶのは歳三の役に立つ女性よ。



私じゃダメ……秘書を務めていた代議士の元妻じゃあ選挙に勝てないわ。

どんなに想いあっていても、決して実らない恋なのよ。

わかって……いるの。







愛しているわ……歳三。



お誕生日おめでとう。



あなたがこの世に生まれてきたことを

あなたと出会って恋におちたことを



………恨みたくなるくらい。






愛しているわ。










fin.

*









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