◎ Begin again
コーヒーを啜ったあと、再び読みかけの本を開く。
掛けていたメガネが、少しズレているみたい。直しにいかなきゃ。
朝早くからやっているカフェの、5人並び席、その一番奥。ここが私の定位置。
毎朝会社に行く前の1時間、ここでコーヒーを頼んで読書するのが、私の習慣。朝日を浴びながら読書って、なかなかいい趣味だと思うけど。
元カレとはこれが原因で別れた。
どんなに寝るのが遅くなっても、彼の家に泊まっても、これを欠かさなかった私はどうやら理解されなかったみたいで。
もっと布団の中でイチャコラしたい、俺はお前といたい。なんだ、あんたは女か。
元カレと別れて、数ヶ月。ここ最近はフリーだから気兼ねなくこの至福のひと時を堪能できる。もしかしたら、このままの方がいいのかもしれない。
「本当に好きな人ができたら、趣味も変わるわよ。」色んな人に言われたけど、なんとなく違う気がする。
そもそも、本当に好きな人って、なに?
ここを出るまであと30分はある。
テーブルの上に放置したままの音楽プレイヤーをつかみ、そそくさと装着する。パラリと本のページをめくれば、物語がまた動き出した。
「となり、いいか。」
突然背後から男の人の声がした。
反射的にどうぞ、と言ってしまった。
本から目を離せば、背の高い男の人のシルエットと、がら空きの店内が目に入った。
(なんで、あえて隣に……)
その面拝んでやろうか、そう思ってその男性を見たとき。
時間が、止まったような気がした。
(うわっ、かっこいい…………)
穢れのひとつもない黒髪に、キメの整った美しい肌、びしっと決められたスーツ。
そして、宝石のような紫の瞳に、私は捕えられた。
「ど、どうも……、ははっ。」
落ちてきたメガネを定位置に戻す。どうやら、夢じゃないようだった。
「本の、邪魔しちまったか?」
「いえいえ!そんなことないです!」
勢い良く本を閉じる。
その振動で、たっぷりカップに注がれていたコーヒーの水面が、揺れ動く。カップの端っこから、少しだけ溢れた。お気に入りのブックカバーにコーヒーのシミが、ひとつ。
「ひゃっ、もう、ついてない……。」
絶世のイケメンを目の前にして、動揺しているのだろうか。だめだ、恥ずかしい。これじゃあ、こじらせ女子全開だ。
おしぼりでシミをぺたぺた拭く。いっこうに取れる気配はなかった。
すると、隣から小さな笑い声が一つ。
「思ったより、おもしれえ人なんだな。もっと、お堅い人かと思っていた。」
「え、思っていた、って………。」
「毎朝ここで、本読んでるだろ。」
え、今彼は何と。
私がここに毎朝いるのを知ってると?
「うわわ、すみません、その。周りのこととか気にしてなくて……。」
「いや、いいんだ。俺が勝手に見ていたからな。」
それは、一体どういうこと?
「私、その、変なことでもしてましたでしょうか……?」
彼は無言のまま、私の顔に手を伸ばす。ひょい、と私の眼鏡を取ると、優しく机に置く。
「時折、メガネ、外すだろ?」
「はぁ、まあ。目が疲れちゃうので。」
突然の事に、思わず瞬きをしてしまった。彼が笑顔になるのが、ぼんやり見えた。
「その顔が、すごく綺麗だったから、見惚れちまってた。」
胸がきゅっ、と締めつけられる。
鼓動の速さが、急激にあがった。
なんでこんな、会って数分しか経っていない人に、心乱されているのだろうか。
間違いない、これが、一目惚れだ。
ぶるぶる、と携帯電話が震えた。
ここを出る時間にセットしていたアラームだ。
「えっとですね、そろそろ、その。会社に行かなくてはいけなくて……」
震えながら席を立つ。そうか、と彼は言った。と同時に彼も、席を立つ。
「あっ、伝票……。」
コーヒー一杯、としか書かれていないそれは、すでに彼の手の中にあった。
「んだよ、これぐらい出させてくれ。」
「でも、お名前も知らない方にご馳走になるのは……。」
「土方歳三。」
「へっ?!」
慌てて手を伸ばすと、ひょいと高く伝票が持ち上げられる。
手をひらひらと動かしながらスマートに会計をする後ろ姿を横目に眺めた。やばい、悶絶。
おつりを受け取ると、くるりとこちらを向いた。
「これで、いいだろ?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた土方さんは、さっき奪っていった眼鏡を定位置に戻した。
カフェの扉を開く。どうぞ、とさりげなくエスコートされた。
「土方さん、と仰るのですね。」
背が高いので、つい見上げてしまう。
ビジネスバッグをぶっきらぼうに持つ姿が、これもまた絵になる。
「ああ、それよりお前、名前は………」
メガネをもう一度外した。
爽やかな風が、頬をくすぐる。
土方さんより、二歩くらい先に飛び出した。腕をうしろに組んで振り返る。
「駅までの間に、私を夢中にさせたら教えてあげる!」
今日土方さんに褒められた、ありのままの顔で、ウインク。
「上等だ、ぜってー聞き出してみせる。」
夢中にさせたら、なんて嘘。
私の恋は既に動き出している。
Begin again
(恋が、またはじまる)
end
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