◎ サロメ9
約束の時間に姿を見せなかったありすの身を案じた土方だったが、大方その嫌な予感は的中してしまったようだった。
芹沢鴨の部屋まで、あともう少し。
その時、なにか人が揉み合うような鈍い音が聞こえた。
大方どころか、最も最悪な展開だった。
土方は差していた愛刀を構え、芹沢鴨の部屋に飛び込んだ。
「芹沢さん、何してやがる!」
床に折り重なるように倒れこむ、二つの影を土方は確認する。
上にいたのは、芹沢鴨。それでは下は……
「おい、芹沢さん!ありすを離せ!」
恐怖で顔が歪んだありすだった。
不幸中の幸いだろうか、ありすは長襦袢一枚だけだったが、まだ予想よりも衣服に乱れはない。ただそう言ったところで、あまり意味はない。ありすが芹沢鴨のもとにいるのは、そういった理由だからだ。
雷が、一瞬だけ真っ暗な屯所内に明かりを与えた。
「芹沢さん………ありす…!」
「土方さんっ、助け、て……」
ありすが絞り出すような声で叫んだ。足元には、土方に見せるであったはずの美しい着物がしわくちゃになって散らかっていた。
この状況を打開するのに問題なのは、芹沢鴨はそこそこ腕が立つことだ。ありすも人質にとられており、余計に動きにくい。
「くそっ…厄介なことになりやがった…」
他の幹部隊士も続々と集まり始め、現場は騒然となった。
どこからか湧いてきた羅刹もその恐ろしい姿を露わにした。
土方が来たことによって芹沢鴨の注意がそちらにそれたのか、今まで培った反射神経でその一瞬の隙をついてありすは難を逃れた。
床を這いつくばり、部屋の押入れ箪笥の隅に隠れる。音を立てないよう、襖を閉めた。
やはりこういった時こそ土方に助けられたかったが、あいにく土方はそのような状況でない。
芹沢鴨と対峙するように立ち、相手を睨み付ける。それはまるで、鬼のようだ。
「何故だ、芹沢さん。なぜ羅刹を……」
土方の後ろでは、羅刹と隊士が壮絶な戦いを繰り広げていた。時々血飛沫が土方を彩る。ありすは生々しい惨劇に耳を塞ぎ、ただひたすらに時が過ぎるのを待った。体は、震え続けている。
芹沢鴨は大きく嘲笑った。
異様な光景が、襖の隙間からありすの目に映る。
「土方よ。相反するものは、美しいものだなぁ。」
芹沢鴨の足が動いた。
白くなった己の髪を掻きあげると、土方に背を向ける。
「…なんの、ことだ。」
一歩、ありすの方へ近付いた。
危険を察知して、ありすは身を震わせる。後ろはひんやりとした無機質な壁だ。逃げ場などない。
他の幹部隊士とその他大勢の羅刹との戦闘は、屯所の内庭にもつれこんでいた。
つまり今この場には、土方と芹沢鴨、そしてありすだけが奇妙な静寂に包まれている。
「化物は、人を襲うから美しい。人は襲われるから、美しい。」
まるで何かを詠むように、言葉が紡がれた。
芹沢鴨が静かに刀を振りかざすと、土方も何かを察知して刀を構える。
「それが美女なら.....」
襖を挟んで、ありすの前で芹沢鴨が立ち止まった。
どうか見つかりませんように、ありすはほどんど残されていない可能性を願った。
「なお絵になる...!」
芹沢鴨の見事なまでの回し蹴りが襖を直撃した。
ありすは自分の方へ倒れ込んでくる襖を避けようと、身を捻る。
しかし自分の意志とは違う方へ体が動いた。
「主人の命令を聞かない生意気な女だな....!」
ぐいっと長襦袢を引っ張られれば、大きく着崩れた。
それどころか自慢の長髪を、引っ掴まれる。
「ありす、そこにいたのかっ....!」
土方が自分を責めるように、ありすの名を呼んだ。
ありすの髪は、ぎりぎりと悲鳴をあげながら真っ直ぐ伸びきってきる。
「いたい……いたい、ですっ…!」
芹沢鴨の手は一向に力を弱める様子はなかった。
それどころかありすを弄ぶように、その傲慢な笑い声を響かせる。
「ちっ、しょうがねぇ。少々強行手段にでるしかねぇな。」
「土方、それはどうかな。」
斬りかかろうとした土方の動きは、芹沢鴨によって阻まれた。
芹沢鴨の刀は土方に向けられているわけではなかった。ぴたりとありすの髪に充てがわれ、その目はまるで、一歩でも動けば斬ると言わんばかりだ。
「汚ねぇぞ、芹沢さん。ありすは関係ねぇ、そいつを離してあっちで決着つけようぜ。」
「関係ない?…馬鹿言うな、ありすは俺のものだ。」
芹沢鴨の刀が少し滑れば、はらはらとありすの髪が零れ落ちる。
女の自慢が削がれている悲痛な思いが、ありすを攻め立てた。
注意がありすにいっている間、土方は十分と芹沢鴨との距離をつめていた。ありすもそれを見て、なんとかこの屈辱を耐えられそうだった。
あともう少し、そう思ったとき。
扉を割ってくるように、大量の羅刹が流れ込んできた。
一斉に土方に襲いかかる。
あっという間にその姿は羅刹に囲まれ見えなくなった。
もう一歩のところを、四方八方羅刹に囲まれた土方は再び血飛沫の中に消えていった。
時々聞こえる、土方の小さな呻き声。
これだけの羅刹に囲まれれば、無傷では帰ってこられないだろう。
(私が……私が、土方さんのところへ行ければ……!)
今ありすに自由がないのは、芹沢鴨に髪の毛を掴まれているだけだからだ。
多少乱暴はされたが、特に怪我をしているわけでもないから、十分に動ける。
一人きりでは羅刹と戦う自身はなかったが、土方となら。
いや土方が劣勢に追い込まれている以上、そんなことを言ってられない。
(髪の毛なんて……どうにでもなる……!)
ありすはずっと懐に忍ばせておいた、仕込み刀を取り出した。
いくら表向きは便利屋とはいえ、危険は付き物。護身用にずっと持ち歩いていた。
切れ味はそこまでよくないが、いざという時に無くて悪いことはない。
そして、隙あらば土方を殺めるのには十分だった。
芹沢鴨は、一人敵に囲まれている土方を「滑稽だ」と言った。
土方を小馬鹿にしたような、表情だ。
邪魔者が目の前でたった一人羅刹と戦い、自分の手元には女がいる。
芹沢鴨にとってはこの上もなく気持ち良い状況だろう。
ありすは、それが悔しくてたまらなかった。
芹沢鴨がぶつくさと独り言を言い続ける。今だ、とありすは確信した。
素早い手付きで、仕込み刀を取り出す。
間髪入れず、そして躊躇うことなく己の自慢の髪に冷たい刃をあてた。
芹沢鴨はありすの反乱にまだ気付いていない。
「こんなものっ……くれてやる!」
意を決して、刀を引いた。
あたり一面にありすの黒髪がひらひらと舞い落ちる。
「女……お前っ……!」
芹沢鴨がようやく気が付いた。
既にその時ありすの身は自由になっており、芹沢鴨の手には無残に切られた髪だけが握らされていた。
「土方さんっ、加勢します!」
「ありす、お前には無理だ!」
土方の制止を振り切ってありすは羅刹の海に飛び込んだ。
そこにたなびくありすの美しい黒髪は、なかった。肩くらいまでに切られたそれは、むしろありすが隊士ではないかと思わせるほどだった。
ありすが仕込み刀で羅刹を斬りつける。その強力な生命力をもつ羅刹は、急所をついたところで倒せるものではなかった。
(こいつ…どうやったら、殺せるの?!)
身を翻して、もう一撃。下から大きく振りかざされたありすの攻撃は、羅刹の下腹部から顔まで引き裂くものだった。
羅刹が大きくよろめく。
その隙に土方が、羅刹の心臓を一突きにする。
瞬く間に羅刹は、灰と化した。
「こいつはなぁ、首取るか心臓一突きにしないと死なねぇんだよ。」
ぴたり、と土方と背中合わせになる。
「なんだ、早く言ってくださいよ、しぶといなぁって思ってました。」
「この馬鹿野郎が。とりあえず羅刹の注意を引いてくれ。俺が仕留める。」
確かにありすの仕込み刀では、止めを刺すのには不十分だ。土方の提案は的を得ている。
お互いの背中を任せるように、それぞれの刀を構えた。
「土方さん……信頼、しておりますから。」
「はっ、お前本当にただの芸妓だったのか?」
後でじっくり聞くからな、そう言うと土方は床を蹴った。
それに続いてありすも刀を一振り。
「くそっ、お前ら………」
怒りに狂った芹沢鴨は、自らの懐に手を伸ばした。
取り出したのは、変若水だった。
また一人、羅刹が灰となった。
それを見た芹沢鴨は、迷わず手の中の変若水を飲み干した。
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