小説 | ナノ

外の世界


 

ルゥ(陸)
シェン(仙)
ファーロン(華冷)





 夜景がきれいなはめ殺しのガラス窓。どの部屋もそうだけれど、景色なんか見たことが無い。その部屋で待っている客の顔を見て、無機質な真っ白い壁のお風呂場へ行って、あとはふかふかベッドであれやこれ。そして赤いじゅうたんが敷き詰められた廊下を帰って行く客を見送ったらもう一度シャワーを浴びて、また次の部屋へ。今日の景色はどうだったろう。天気は晴れだったか、雨だったか、曇りだったか。思い出すのは客のいやらしい顔だけだった。


「ルゥ」


 仕事を終えて、地下にある自分の部屋。ベッドだけでほぼ埋まっているような部屋で、どぎついピンク色の、おれより大きなうさぎのぬいぐるみに抱きついて寝ていたら、名前を呼ばれたような気がした。目を覚まし、背を向けていたドアの方を振り返って見る。
 立っていたのは、まだ幼い顔つきの子ども。宝石みたいにきらきらした目の、こんな場所にいても清浄な雰囲気を持っている人気の子。ふわふわした薄紫色の薄いワンピースを着て、裾を丸っこい手でひねりまわしている。緩やかに波打つ茶色の髪は肩まで届いて、ふらりと揺れた。


「おいで、ファーロン」


 布団をめくりあげて呼ぶと、ぱっと顔を輝かせて潜り込んできたファーロン。うさぎとおれの間から顔を出して、同じようにうさぎに抱きついて、安心したように息を吐く。同じ匂いのする身体、髪。柔らかな茶色にキスをして、寝息に誘われるように眠った。

 夢を見た。
 まだ、この建物に囚われる前の日々。おれは普通に学校へ通い、両親もいて、普通に暮らしていた。それが変わったのは十歳、学校帰りにバスへ乗り、友だちと一緒に歩いていて――世界が急に真っ暗になった。多分一緒に彼らも攫われただろう。が、見たことが無い。また別の場所に売られたのか、それとも。
 最初は、別の建物にいた。けれどそこは地元を拠点とする組織に襲撃され、壊滅状態になった。おれもそこから助け出されたはずだったのだけれど、生き残りに連れ出されて騙されて、それからはずっとこの建物の中。客を取らされ、日々身体を開かされる。だいたい三年ほど経っただろうか。今は十九歳になった。

 最初の頃だけ、何度か脱走しようとした。そのたびに死ぬほどの目に遭ってぼろぼろになり、やがて優しい客を得て大切にしてもらって、ここに馴染んだ。身体が成長する時期だったので、それを越えると受け身から攻める方へ。背が伸びて、声もいかにも低くなって、そんなおれを抱きたがる人間がいるから、両方。さまざまな顔を見た。夢の中でそれがひとつひとつ思い出される。ねっとりした目つきの客のいやらしい顔。

 目を開けると、時計はまだそんなに針が動いていなかった。腰が痛いので、もぞもぞと布団の中で身体を動かす。前も後ろも使って、下半身が痺れるように重たい。どちらもやる、というのは考え物だ。

 腕の中にいるファーロンみたいに小さくてやわらかくて可愛い子はまだまだ受ける方だけ。身体の負担も大きくて、いつも疲れた様子。眠れないからと部屋に来る。ここに来ておよそ二年、最初の一年は客とただ遊ぶだけで、身体を商品にされたのは一年ほど前。
 躾が行き届いているファーロンを見るに、きっといいところの子だったと思う。それがこんな、どこにあるかもわからないような非合法の売春宿に、攫われてきたのか、売られてきたのか。いつも明るくて、客からも人気だ。部屋はこんな風に無機質じゃなく、貢物で溢れて、まるでお城のよう。
 すぴすぴと小動物のように眠るファーロンの髪を撫で、抱き直してもう一度目を閉じた。






「ルゥ、待ってたよ」


 最上階、客の中でも特別な客しか入れない、広くて豪奢な部屋。他の部屋にはベッドと灯りと棚と、なんかごちゃごちゃした道具とお風呂がある。でもこの部屋は、まるでどこかの家のように厨房があったり、ふかふかした座り心地のソファがあったり、豪華な拵えの机があったり、なんだか別の場所のようだ。

 おれが部屋へ入るなり抱きしめてきたのは長身の男。大体三十代半ばくらいだろうか、いつもここへ来るときは伝統的な美しい刺繍の施された黒い長袍姿、同じほどに黒い髪は項辺りでひとつに束ね、毛先は胸に達している長さ。白い顔は滑らかな肌で、そこにある目はすっとした一重。赤さが偽物のような唇はいつも笑みを形作り、端正なのに少年みたいにあけすけに笑う。歳を感じさせない不思議な雰囲気だ。

 動物のように擦りついてきて、毛足の長い絨毯に向かい合って座って、両手を取ってくる。


「痩せた? なんだか、元気もない」


 この男、シェンの中国語はなんだか拙い。子どものような言葉を選び、たどたどしく話す。最初の頃はわざとしているのかと思ったけれど、もう何年も見ていて、これが普段からなのだと知った。


「元気だよ。あんまり眠れないだけ」
「忙しいの?」
「ううん」


 顔は、とても端正でとっつきにくいような印象を持たせる。のに、口を開けばぽんぽんと純粋な響きで質問をしてくる。おれがまだここに来たばかりのときから通ってきてくれている親切な客だ。やらしいこともするけれどたまに、で、嫌なことはしないし、無茶なことも言わない。ちぐはぐとしている男。


「ルゥ、お茶持ってきた。この前、きみが好きだって言ってたから」


 温めた透明な茶器に入れ、湯の中で美しく花開く工芸茶。見ているだけでも楽しくて、思わず机に両手をかけて、その様子をじっと見つめていた。


「きれいだね」
「うん。ありがとう、シェン」


 お礼を言うと、白い頬を赤くして笑う。嬉しそうなのが一目でわかる。
 隣あって、美しい花の沈む茶をすする。シェンはすらりと細い、柳のように滑らかな手で茶器を支えて唇に運ぶ。


「ルゥ、眠れないの、どうして?」


 お茶を飲んで、一息ついて、シェンの肩に寄りかかると頭を撫でてくれながら尋ねてきた。


「うーん……夢見が悪い、から……かな」
「嫌な夢?」
「うん。あんまりよくない夢」


 あまり聞くのも悪いと思ったのか、シェンは黙った。


「シェン、向こう行く?」


 衝立で区切られた寝屋を示すと、小さく首を横に振る。空いた方の手でおれの手を握る。


「今日は、そういうことしたくない、から」
「だったら、どうしてわざわざ一晩買ったの?」
「一緒にいようと思って」


 照れたように笑う。その顔がとても可愛い。おれよりきっとおとななのだろうけれど、可愛いと思った。こんな客は他にいない。何もしないのに一晩のお金を払ってくれる客は、シェンだけ。


「俺が料理したら、食べてくれる?」


 シェンがおずおずと尋ねてきたので、頷く。


「あんまり甘かったり辛かったりしなければ」
「良かった。ルゥは、お魚が好きだって聞いた」
「うん」
「これ、家から持って来たんだけど、よかったら食べて待ってて」


 備え付けの冷蔵庫から出された小皿。そこには、魚の皮を加工したものがのっていた。酢とごま油、青唐辛子、にんにく、いくつかの香草で漬けた漬物。おれがいちばんすきなもの。
 同時に差し出された箸を取って口に入れる。おいしい。


「シェンが作ったの」
「そうだよ。おいしい?」
「うん」
「よかった。ルゥ、いつも何食べてるの」
「いつもは……ファーロンが作るもの」
「ファーロン?」
「すぐ近くの部屋に住んでる。かわいくて、親切で……ちっちゃい子だけど何でもできるんだ」
「すごいね」
「うん」


 料理の匂いを嗅ぎながら、温かくて清潔な部屋で、こうして普通の会話をしていると、なんだか家に帰ったみたいな気がした。もうしばらくこんな感覚はなかった。家に帰りたいと思ったのは最初だけ。だって帰れないってわかっていたから。前の売春宿がなくなって一度、外に出られたときも家に帰りたいと思わなかった。
 でももし、今、帰れるとしたら。
 いや、帰れなくても、この場所から出られるとしたら。
 どんな世界になっているかは分からない。でも、外に出てみたい。


「……シェン」
「なに?」
「……外の世界は、どんなところ? おれは小さい時の記憶とか、中途半端なのしかないから、全然わかんないんだ。どうなってるか想像もつかない。でもきっと変わったんだろうな、って、客の身なりからはわかる」
「あとで、寝ながらお話、するね。急にどうしたの」
「……なんとなく、外に出てみたくなって」


 すると、急にシェンが隣へ走って来た。座って、いつになく真剣な目でおれの顔を覗き込む。


「……外に出たい?」
「え、あ、うん……少しだけ」
「本当に?」
「うん……」


 そう、とシェンは呟いて、また厨房へ戻って行った。
 魚を一匹まるまる蒸した料理はとても美味しかった。他の炒め物も、全部。

 一緒にお風呂に入って、お酒を少し飲んで、ベッドに入った。
 ただおれを抱きしめるだけで、ぽつぽつと外の世界の話。今の世の中の話。政策のこととか、物価のこと、市場、スーパーなどのこと。


「……もし外に出たら、やりたいこと、ある?」


 シェンが聞く。
 やりたいこと。


「……自由に歩いてみたい。もうずっと、決まった景色しか見てないから」


 今のおれにはとてもぜいたくな願い、と言うと、シェンは困ったように笑って、もう寝ようか、とおれの額にキスをした。そして寝入りばな、おれをますます引き寄せて、とても不思議なことを言った。


「ルゥ、どんな音がしても、どんなことがあっても、俺の腕の中にいたら安心。だから、慌てないで、いい子にしてね」


 どういう意味なのかわからなかったけれど、聞くには眠すぎた。その眠気はとても強烈で、今までに感じたことのないものだった。


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