ともだちごっこ その後

 

 ガタン、ゴトン。と揺れ動く電車に身を任せながら、矢口はちらりと腕時計を見た。

 商業高を卒業し、すぐに社会人として働き始めてもう十年弱。
 日々業務に追われる毎日は自分が選んだ道だとて険しく、厳しく、家に着く頃には今日も午前様か。と全身に広がる倦怠感に溜め息を吐いた矢口。
 だがむしろ今はそれが有難い。と矢口は人知れず、がらんとした電車の中で伸びをしてから小さく笑う。
 窓から見える夜は深く暗く、しかしそれと比例するかのような街並みのたおやかな灯りに少しだけ目を細めた矢口は、停車しプシューッと規則正しく開いた扉から外へと飛び出した。


 足を踏み出した瞬間、肌を刺すような寒さにぶるぶると身震いをしながら、無人駅の改札をするりと抜ける。

 寝静まった住宅街。

 雲ひとつない夜空に自分の吐く息だけが白くゆらめき昇ってゆくのを矢口はぼうやりと見たあと、ハァ。と疲労からではない溜め息を吐いて、足元を見た。

 コンクリートに染みる、黒い点々。
 履き汚れた、革靴。

 その見慣れ過ぎた日常にしかし胸の奥がざわついて、なんだか無性に叫びたいような、泣き出したくなるような気持ちになってしまって、小さなくしゃみと共にそれらを押しやり、矢口はパンッと頬を軽く叩いたあと徐に歩き出した。



 冷えた空気がマフラーの隙間から忍び込み、全身をひたひたと凍えさせてゆく寒さに思わず腕を擦り擦り、歩く矢口。
 じゃりじゃりと靴底で弾けるコンクリートの破片も、骨身に染みる寒さも、深い深い夜も、まるで一人ぼっちで世界から投げ出されたみたいだ。なんて柄にもない事をとりとめもなく思いながら、寒さのせいだと言い訳をしてずずっと鼻を啜り、こんな日はさっさと帰って寝るに限るな。と矢口は歯を食い縛り道を駆け出した。

 それから、あの角を曲がれば愛しの我が家だ。と弾む息のまま角を曲がった矢口だったが、だがしかし曲がり終えた瞬間ぴたりと足を止め、ぎょっと目を見開いては、

「……は、なん、で……」

 と小さく呟いていた。



 矢口の口から溢れ落ちた声が小さな波紋となって、夜を揺らす。
 その音に顔を上げた人の姿が街灯の穏やかな明かりに照らされて、きらりきらりと光って見えた。


 視界に映るのは紛れもなく見慣れた姿で、呆然と目を見開いたままの矢口に向かってひらりと片手を揺らし、

「……おせーよ」

 なんて口元に笑みを浮かべながら言ったのは、旧友であり、親友であり、そして矢口の恋人でもある深瀬で、矢口は状況の把握が出来ぬままその場から動けず、ただただ立ち尽くす事しか出来なかった。


「……メール、したんだけど」

 そう呟きながら、コツ、コツ。と靴音を鳴らし、矢口に近づいてゆく深瀬。

「その様子だと見てないのな」

 なんて少しだけ呆れた口調の声が、聞こえる。
 その温かさに矢口が堪らず俯けばまたしても薄汚れた自分の靴が目に入ったが、歪む視界のせいでよく見えやしなかった。


 等間隔に並ぶ街灯の明かりだけに照らされた夜道。
 その静けさを裂く靴音がすぐ側で止まり、ふわりと香る深瀬の匂い。
 優しく引き寄せられた体が、ぽすりと温かさに包まれる。
 肩に乗る深瀬の髪の毛は冷たいのに、服越しからじわりじわりと伝わってくるその温かさがやけに身に染みて、

「……ふか、せ」

 と矢口は抱き締め返す事が出来ないまま、小さく深瀬の名を呟いた。





 深瀬と遠回りに遠回りを重ね、恋人になってから早数年。
 あの居酒屋で告白しあったあと順調にお付き合いをしていた二人だったが、その数ヶ月後にまさかのまさか深瀬に転勤命令が下り、呆気なく遠距離恋愛を余儀なくされてしまっていた。
 それからというもの、二ヶ月に一度会えれば良い方で、それでも最初の頃は毎日していた電話があったからこそ耐えれていたが、ここ最近その電話すらも深瀬から掛かって来ることはなく、こちらから電話しても延々と冷たいコール音だけしか鳴らなかった事に矢口はひっそりと、これは、もう終わりという事なんだろうなぁ。なんて思っていた。

 気が付けばもう三十路目前で、周りの皆は結婚し家庭を持つという事が当たり前になっている。
 だからこそ自分達のゴールはどこにもないという事実だけが浮き彫りになり、その現実を目の当たりにして深瀬はやっぱり自分との未来に行き詰まりを感じてしまったのだろう。
 そう暗い考えばかりが頭を占領し、あの夜、俺のもんになってよ。と真剣な瞳で見つめてきた深瀬の顔だけを支えになんとか頑張ってきたけど、やっぱりお前の方が俺を、俺たちの未来を受け入れる覚悟がなかったんじゃん。なんて矢口は心のなかで深瀬を批難しつつも、確めて完全な別れを告げられる事が怖くて何も言えず、何も聞けなかった。
 だからこそ仕事にのめり込み、くたくたになるまで働いて気を紛らわせては、会いたいと、声が聞きたいと聞き分けのないガキめいた事を訴える自分の心に蓋をして自分で自分を誤魔化してきたのだ。



 それなのに、なんで今お前はここに居るんだよ。今から別れ話をするつもりなのに、なんでお前は俺を抱き締めてんだよ。

 そう矢口が心のなかで呟き、久しぶりの深瀬の姿を見たら、卑怯者だとか、また裏切りやがって。とぶつける筈だった言葉一つも言えず、馬鹿みたいに胸をときめかせては深瀬の匂いがする胸に顔を埋めてしまいそうで、それが情けなくて悔しくて、別れ話をされるというのに会えただけで嬉しくて、……まじで最悪だよ。いっそ手酷く振ってくれりゃあいいのに。と矢口は心のなかであの夜と同じように悪態を吐いた。



「最近、会いに来れてなくてごめん」
「……っ、」
「電話も、出れない時多くてごめん」
「……」

 ポツポツと話す深瀬の声が、耳元で柔らかく溶けていく。
 それからまた小さく深瀬が息を吸い込んだのが聞こえ、矢口はヒュッと息を飲み、思わず顔をあげて自分の唇で深瀬の唇を塞いでいた。


「んっ!? む、やぐ、」
「っ、ん、んん、」
「んむっ、ちょ、ま、やぐ、ち、なに、」

 がしっと顔を掴み、冷えた唇を押し付け、深瀬の戸惑いなんて知らないと、お前の言葉なんて聞いてやらないと、体を離そうとする深瀬をそのまま地面に押し倒し、胸ぐらを掴む矢口。

 ドスンッ。と地面に倒され、いってぇ! と尻餅を付いた深瀬が、お前いきなり何、と眉間に皺を寄せ馬乗りになっている矢口を見たが、そこで深瀬は驚きに目を見開いた。



 呆気に取られた表情をする深瀬の顔に、ポタポタ、と落ちてくる滴。

 目の前には暗闇を背に、苦しそうな顔ではらはらと涙を流している矢口が居て。
 ハァッ。と二人のあげる吐息が、真っ暗な夜にゆらゆらと白く浮かんでは消えていく。

 そんな今にも消えてしまいそうな矢口の姿に深瀬が挙動不審になりながら状況が理解出来ないと、や、やぐち? なんて情けなく名を呼べば、

「ぜってぇ、やだかんな。別れてなんか、やんねぇよ。ふざけんな、ふざけんなこの最低野郎……」

 だなんて矢口は嗚咽を溢し、泣きじゃくってしまった。


 次のごめんはどうせきっと、もう一緒にやってけない。だとかの別れの言葉なんだろう。

 だったらもう、何も聞きたくない。

 そう胸ぐらを掴む手に力を込め、しかしそんな自分がみっともなくて惨めで、いっそ別れてやると会いに行ってやろうかとも思ったし、この意気地無しが。と喚いて、それでも別れを切り出されたら頷いてやるつもりだったのに、それなのに今、どうして自分は別れたくないと必死にすがってみっともなく泣きじゃくっているんだろう。なんて矢口は嗚咽を溢しながら、

「……二度も、俺を突き放すのかよ。だったらなんであの時、俺に好きだなんて言ったんだよ。まじでふざけんなよ。どんだけ俺の人生めちゃくちゃにすれば、気が済むんだよ!」

 と、ドンッと拳で深瀬の胸を殴る。
 そうすればノーガードだった深瀬がモロに食らってはゲホッと咳き込み、それでも何か一生懸命言おうとしていて、もう最悪だよ。と矢口は一度深い溜め息を吐いてから、ぐしっと涙を拳で拭った。


「ゲホッ、ゴホッ、ま、やぐち、おまえ、ゲホッ」
「……」

 苦しげに呻く深瀬を見下ろし、絶対に別れてなんかやらねぇ。と睨んだ矢口だったが、

「ゲホッ、……かん、ちが、い、してんなよ!!」

 なんてなんとか息を整えた深瀬がガバリと上体を起こしては、矢口の腕を掴んだ。

「は、な、に、」

 突然パシリと腕を掴まれ、苦しさに涙で滲んだ瞳のままそれでも射抜くような眼差しで見てくる深瀬に今度は矢口が目を見開いたその瞬間、

「別れる気とか、ぜんっぜんねーから!! むしろ今日は俺、お前に玉砕覚悟でプロポーズしに来たんだけど!?」

 なんて凄んだ深瀬。

 ハッ、と深瀬が荒く吐いた息が二人の間に落ち、その言葉の意味を理解出来ない。と涙の膜を張ったまま見つめてくる矢口を、深瀬は思いっきり抱き締めた。


「なんで俺が別れ話するみたいな流れになってんの……。そりゃ仕事忙しくて会いに来れなかったのも、電話出れなかったのも、悪いと思ってる。でもお前だって、折り返しても全然連絡くれねぇし、それに、お前からは会いに来てくれたことねぇじゃん……。むしろ俺の方がお前に捨てられんのかと思って、めちゃくちゃ焦ってたんだけど」

 そう呟いた深瀬が深呼吸をしそっと少しだけ体を離しては、

「だから、お前の心が俺から離れないうちにこっち戻ってこれるようにって死ぬほど仕事頑張って、残業もめちゃくちゃして、やっと、昨日こっちに戻っていいって内示もらえて、そんで寝ずにそのまま車飛ばしてお前に会いに来たのに、まじでびっくりする事ばっか言うなよ……」

 なんて言っては、矢口の顔を冷たい掌で包んだ。


「好きだよ、矢口。ずっと一緒に居てよ」

 真っ直ぐ、はっきりと告げられた言葉。


 その声に矢口は目を見開いたあと、堪らず口の端をひしゃげ、……なんだよ、それ。そんなん、知らなかった。お前がそこまで俺のこと、想ってくれてたなんて、知らなかった。とまたしても涙を溢しては、

「……うぅ、ずびっ……わかればなしされっかと、おもっ……、まじで、よか、た……」

 なんて睫毛に涙を纏わせながら、一緒に居る。と何度も頷くことしか出来ないまま、それでも全身を震わせるほどの幸せに埋め尽くされたまま、深瀬の肩に頭を押し付けた。




「……不安にさせてごめん」
「ずびっ、……おれ、も、会いにいかなくて、電話返さなくて、ごめん……」

 そう呟き、いつも深瀬からアクションを起こしてくれるのを待って、そのくせ自分はなにもしないで卑怯者だなんて、卑怯者は俺の方だった。とぼろぼろ泣いた矢口はしかし深瀬の肩で涙を拭ったあと、

「俺のために、ありがとな……」

 と呟く。
 そんな矢口の涙が残る目尻を擦っては、

「……泣かせてごめん。でも別れねぇって言ってくれたの、嬉しかった」

 なんて囁いた深瀬。
 その指の感触に、う、と目を瞑った矢口はそれでも口元に笑みを浮かべていて、その矢口の可愛らしい顔を見た深瀬はそっと触れるだけのキスをした。


 ちゅ。と優しく触れ離れた唇に目を開けた矢口の茶色がかった美しい瞳が夜に揺れていて、

「……来月、ちゃんとお前のとこに帰ってくる。だから、あと一ヶ月だけ待ってて? そしたら、一緒に暮らそうな」

 と深瀬が囁き、こつんと額を合わせてくる。
 そんな深瀬に、……待ってる。と頷いた矢口もまたそろりと深瀬の頬を指でなぞっては、

「……ちょっと見ねぇ間に痩せたな……」

 と慈しむよう深瀬の頬にキスをした。





 それから暫しお互い堪えたのだろうその果てしなく長く感じた月日の寂しさを埋めるように街灯の明かりの下で抱き合っていた二人だったが、暗く透き通った夜空から落ちる結晶の存在に気付き、顔を上げた。

 はらり、はらりと落ちてくる雪を見やり、

「……どうりで寒いわけだわ」

 と言う深瀬の声を聞きながら、まるで宇宙にふたりぼっち浮いているような気持ちになった矢口は、これは会えなかった俺達に降り注ぐカミサマからの祝福に違いない。などと調子の良い事を思いながら、深瀬の体にもう一度抱きついた。


「深瀬、愛してるぜ」
「……ん。俺も愛してる」
「へへっ。つーかいつから待ってたんだよお前。連絡してくれりゃあソッコーマッハで帰ってきたっつうのに」
「いやだから連絡したんだっての」
「え、あ……そういや最近携帯見ないようにしてたわ。ごめん」
「……それはいいんだけど、お前今抱きつくふりして俺の服で鼻水拭いた?」
「あ、バレた? カピカピなったらいてーもん」
「おま、ふざけんなよ。これ高かったんだけど」
「それより早く家入ろーぜ、凍死する」

 押し倒したのは自分だというのにそう言いながら立ち上がった矢口が、ほら、早く。と手をひらひらさせ、そんな矢口に、……ほんっと、マイペースっつうかなんつうか……。と溜め息を吐きながらも、鼻の頭を赤くしたまま笑う矢口の顔につられるよう、深瀬も笑った。




 ◇◆◇◆◇◆



 お互い破局に怯え、結局それはから回っていただけだったと笑った日から月日は経ち、一ヶ月後。
 約束通り転勤から戻ってきた深瀬と帰りを今か今かと待っていた矢口は、お互いの職場の中間にある場所で同棲をする事を決め、同棲初日を迎えていた。


「なぁ深瀬ー、これどこ置いたらいいと思う?」
「んー? ……え、なにそれ」
「何って、木彫りの熊だろどう見ても」
「いやなんでそんなの持ってんだよ。お前の家にそんなんあったっけ?」
「いや、お前と住む事にしたって、職場の俺が男と付き合ってるって知ってる先輩に言ったらなんかもらっちまってさぁ……」
「……は? そんな先輩の話聞いてねーんだけど」
「え? あ、ばらしたの嫌だった? わりぃ」
「ちげーよ。そこはどうでもいい。ただ、お前がちゃんと言うなんてよっぽど信頼してる人なんだろ? なのに俺一回も会った事ねぇし紹介すらされてねぇと思ってよ」
「……ふはっ!」
「あ? なに笑ってんだこら」
「ぷっ、くく、いや、ごめんごめん。なら今度紹介するわ」

 そう矢口が拳で口元を隠しながらまだ笑っていて、それにムッと眉間に皺を寄せた深瀬だったが、その左手薬指にキラリと光る指輪を見てはへなっと眉を下げた。

 それは昨夜深瀬が贈った指輪で、それを眺めては嬉しそうにしていた昨日の矢口の顔を思い出し、そしてその指輪が大人しく矢口の指に収まっている事になんだか泣きそうになった深瀬は自分の左手で矢口の口元にある手を握っては引き寄せ、ちゅっと口付けた。

 そんな突然さに矢口が目を見開き、なにすんだ。と深瀬を見つめたが、

「……好きだよ、矢口」

 なんて呟かれた声にくしゃりと顔を歪めては、笑った。

 それから顔を寄せてくる深瀬に微笑みながら矢口が目を瞑り、ちゅっ。と優しく触れ合った唇。
 そのまま数回啄むように触れたあと離れていく唇を追うようゆるりと目を開けた矢口の茶色がかった瞳がまだカーテンも付けていない窓から射し込む夕陽に照らされキラリと光り、まるであの日のようにオレンジに染まっているのが見えて、深瀬はやはりどうしようもなく泣きそうになりながら、もう一回。とその唇を塞いだ。


 もう絶対に離さない。と握った手に当たる指輪の感触が、ひどく愛しかった。



【 いっそもう、これこそが運命だったのだと 】






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