16

 

「……ヒート?」

 途端に自身の心臓が早鐘のようドクドクと鳴り響き、ノアが喘ぐよう小さく唇を震わせる。
 そして、最早何を言っているのかこちらの声すら認識出来ぬよう目をうとうとと閉じかけているテアの太股にノアは手を掛け、跪いた。

「テ、テア、テア……」

 だが何を言えば良いのか分からず、なぜだか泣きそうになりながらノアがテアをじっと見る。
 そんなノアの眼差しだけは察知したのか、テアは不意に目を開け、ノアに向かってあのいつもの屈託ない明るい顔で、笑った。


「……だいじょうぶ、おれはだいじょうぶだよ、ノア」
「テア……」

 きっと先程までウォルと何の違和感もなく元気に遊んでいただろうテア。
 その突然の体調の変化はノアを怯えさせ、しかし自分を不安にさせぬようにと笑うテアにノアもまた、テアが不安がらぬようにと、笑顔を見せた。

「……うん、大丈夫、大丈夫だからね、テア」
「テア、今からヒート小屋に連れていくよ? 良い?」

 ノアの隣に居るロアンもまたテアを安心させるよう、優しくいつもの柔らかな声で囁き、テアに問いかける。
 その言葉にテアはぼんやりとロアンを見たあと、小さくこくんと頷いた。


 ヒート小屋とは、主に番いが居ないオメガがヒート時に使うための小屋であり、オメガ小屋の更に奥、群れから一番離れた場所にある。
 そこは安全で、良質なベッドがあり、綺麗なシーツやタオル、着替えなどが沢山用意されていて、腹持ちが良く手軽に食べられる備蓄品と水まで揃っている。
 そしてヒート小屋は勿論オメガしか入れず、完全にプライバシーは保たれているものの、オメガ小屋とヒート小屋を繋ぐ糸があり、ヒートが来ているオメガがそれを引っ張るとオメガ小屋にある鈴が鳴る仕掛けになっていて、何かあった時の対策もしっかりとなされてあるのだ。
 だが大体はヒートが終わった時にその糸を引っ張るぐらいで、その鈴が鳴ればヒート小屋の側にあるオメガ専用のお風呂を他のオメガが薪で沸かし、お疲れ様とねぎらい世話をしてくれる事が、常となっていた。


 そんなオメガにとって大事で神聖なヒート小屋にテアを連れていくといったロアンにノアが息を飲み、しかし促されるよう立ち上がらせるのを手伝い、ロアンと二人でテアを支えながら、外に出た。

 その後ろを心配そうにアストルが付き、四人でオメガ小屋の方へ向かっていれば、テアの異変に気付いたのか、驚いた様子で駆けてきたウォル。

「テア!? どうかしたの!?」

 小鹿のような大きな瞳を更に丸くさせ、慌てたウォルがテアの側に寄ろうとしたが、ロアンはそれを目線だけで制し、首を振った。
 その様子にウォルは傷付いたような表情をしたが、だがそれからテアがオメガになりヒートが来たと気付いたのか、きゅっと口元を結んだ。

 そうしてウォルも共に歩き、オメガ小屋を通りすぎヒート小屋の近くまで来たが、しかしロアンは三人に、お前達はここまでしか付き添えないよ。とテアの体を引き寄せノアの手からテアを引き離した。


「っ、」
「ここはオメガしか入れない。……ノア、大丈夫。俺がちゃんとテアの世話するから」
「……はい」

 自身の魂の片割れと不本意に引き離されているような感覚にノアが悲痛な表情を見せ、だがテアにとってそれが一番最善な策だと無理やり自身を納得させたあと、ノアは唇を噛み締めた。

「……テア、愛してる」

 こつん。とテアの額に自身の額を付け、それから鼻先をすりっと触れ合わせたノア。
 その囁きにテアもすりすりと鼻先を擦り付け、ロアンの腕のなかで小さく安堵の息を吐いた。

 それからロアンは心配げに見ていた他のオメガと共にテアを連れていき、ノアとウォルはぽつんと突っ立ったまま暫くその場でじっとしていたが、ポン、と背中をアストルに優しく撫でられ、ようやく踵を返した。




***



 ノアがとぼとぼとウォルやアストルと共に歩いていれば、何か騒ぎがあったと感じ取ったのか、シュナが広場付近に居るのを見かけ、ノアは堪らずへにゃりと唇をひしゃげ、シュナへと駆けていった。

「シュナさん……!」
「ノア? 何があったんだ、」

 泣いてしまいそうなノアの様子にシュナが目を見開き、おいで。というように腕を広げ待っている。
 その広い胸に何時ものよう力強く抱きついたノアは、グスッと鼻を鳴らし、テアが……と小さく呟いた。
 しかし何時もなら無条件に腰や背中に回される筈の優しく大きな手は来ず、珍しくシュナが何かに耐えるよう小さく唸ったのを聞いたノアは、シュナさん……? とシュナの首から顔を離し、見つめた。


「……テアが、オメガになったのか」

 ボソリと呟いたシュナがそっとノアの体を離し、だから群れがざわついてたのか。と鼻の先をくしゃりとさせている。

「どうして分かったんですか?」

まだ何も言っていないのに、どうしてすぐ分かったの。というよう、ノアが涙目のまま、シュナを見る。

「お前に付いてるテアの匂いが変わった」
「匂い……」
「……俺はアルファだし、オメガの匂いはすぐ分かる」
「……」
「番いも居ないし……」

 アルファ性がオメガの匂いを嗅ぎ分け、そして番いが居ないシュナにとってオメガのヒート時の匂いは良くも悪くも、強烈らしく。
 だからテアの匂いが染み付いてる今のお前に近寄れない。とシュナが人一人分の距離を空けてノアの隣に立てば、ノアはぱちくりと目を瞬かせたあと、ひくっと唇の端をひしゃげた。

「……シュナさんは、テアに欲情するんですか?」
「……は?」
「……」
「っ、いや違う!! そういう事じゃない!! ただ匂いが強烈だって言いたかっただけだバカ!!」

 驚きと、どこか傷付いた様子のノアが呟いた言葉にシュナがぎょっと目を丸くし、慌てて首を振って、それからノアの手を取った。

「テアは弟みたいなものだ。そういう目で見てないし、今後もそういう目であいつを見ることはない。テアだってそうに決まってる。……それに番いが居ないアルファだからって、誰にでもその、よ、欲情とかする訳じゃない」

 シュナが必死に弁明するようノアの小さな指を武骨な指ですりすりと撫ぜ、じっとノアを見つめる。
 その言葉と真剣な眼差しにノアはじっと真意を探るような瞳でシュナを見つめた。

 それから安堵した様子で頷いたノアだったが、しかしその安堵が、兄と慕っているシュナがテアを性的な目で見ていない事への信頼を取り戻した安心からなのか、はたまた違う意味なのかシュナは今一分からず、それから反対の手でガリガリと首の後ろを掻いたあと、ノアの腕を引いた。

「……ちょっとこいつ借りてく」

 ノアの後ろで突っ立ったままのアストルとウォルを見ては、ウォルのケアを頼む。と言いたげにアストルに目で合図をするシュナ。
 それにアストルも頷き、テアの件で未だ驚き落ち込んでいるウォルの肩を抱いて、歩いていく。
 その二人を見たあと小さく頷いたシュナがノアの腕を握ったまま歩き出せば、何も言わずにただそっと着いてくるノア。
 そして二人は、何時ものようにシュナの小屋へと向かった。



 バタン。と扉が閉まった音を背に、シュナが問答無用でノアをベッドに座らせ、そして肌寒くなってきた季節のため既に出していた毛皮の毛布で、ぐるぐるにノアを包む。
 その突拍子もなさにノアは目を見開き、それから身を捩った。

「な、何ですか、いきなり」
「……」
「暑いですって」

 そうノアがむくれたよう唇を突き出すものの、シュナが返事をする事はなく。
 それどころかノアの髪の毛に頬を擦り付けたかと思うと顔を埋め、耳の裏を鼻先で擦った。

「わは、シュ、シュナさ、なに、あははっ、擽ったいからやめてくださいっ、」
「……」
「シュナさんってば」
「……よし」

 ノアの柔らかな笑い声の制止は、何の抗力もなく。
 それに満足げに小さく一度唸ったシュナはようやく、まぁいいだろ。という表情でノアの首筋から顔を離した。


「……何なんですか、もう」
「上書き」
「え?」
「まだテアの匂いするけど、まぁこれくらいなら平気」
「へ?」

 ノアの小さな困惑を無視し、シュナが隣に腰掛ける。
 二人分の重さでベッドが軋む音が小屋のなかに響き、それからノアはシュナの言葉を理解した途端、ふにゃりと頬を弛めた。

「……今俺にマーキングしたんですか?」
「……テアの匂いがしてると落ち着かない」
「あははっ」

 シュナがまたしてもノアの首筋に自分の額を押し付けすりすりと擦れば、朗らかな笑い声がノアからあがる。
 その声にシュナは躊躇うことなくノアの手を握り、それから、これでちゃんと話が聞ける。と口を開いた。


「……テアがオメガになった事、嫌だったのか?」
「っ、」
「さっき、泣きそうになってただろ」

 シュナの言葉に途端に表情を強張らせ、ノアが息を飲む。
 それから唇を噛み締めたあと、ゆっくり口を開いた。

「……嫌、とかじゃなくて、テアが心配で……、」
「うん」

 握ってきたシュナの手を強く握り返し、ノアが吃りながら呟くが、シュナはただ穏やかに相づちを打つだけで。
 その鋭く切れ長のシュナの眼差しはそれでも温かく、ノアは瞳を伏せながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「……それに、俺たちはずっとオメガになる事を怖がってたから、だから、いざ本当にテアがオメガになると、どうしたらいいのか分からなくなりました」
「……もうお前たちを傷付ける奴は居ない」
「それは分かってます。でも、なんだか現実味がなくて……。それにテアはすっごく苦しそうに見えました。否応なしに自分の意思と反して身体だけが大人になったみたいで……、だから、……それにテアが俺を置いていくみたいで、それがなんだか凄く、……」
「……怖かった?」

 シュナが声を潜め、ノアの顔を見るよう覗き込みながら呟く。
 それにコクンと頷いたノアは、迷子の子どものようにきゅっとシュナの手を強く握った。


「……大丈夫だ、ノア。オメガになろうが何になろうがテアはテアで、お前たちの絆も、これからの未来も、何も変わらない」

 その断定しきった言い方は独善的で、しかしシュナの真っ直ぐな瞳と言葉に唇をひしゃげたノアはそれから全身の力を抜き、安心しきった表情を見せては、……はい。と呟いて笑った。
 それから甘えるようノアがシュナの首筋に顔を埋め、すりすりと鼻をうなじに擦り付けられる擽ったい感触にシュナは小さな笑みを浮かべながらも、ノアの手をそっと優しく握り返した。



「……俺はオメガになると思いますか、シュナさん」

 暫く無言のまま寄り添っていた二人だったが、その静かな空間はノアのぽつりとした呟きによって裂かれ、一瞬だけぎこちない空気が流れる。

 その珍しく抑揚のない声で呟かれた言葉にシュナはこてんと自身の肩に頭を乗せているノアをちらりと一瞥するよう目を横に向けたあと、その頭にもたれては、未だ繋いだままの指をすりすりと撫ぜた。

「俺はお前が何になってもずっと側に居る」

 囁くよう答えたシュナの言葉はやはり独善的で、端的で、しかし寄り添うその身体と触る指先は、温かく。
 その言葉にノアはシュナの強く優しく穏やかな香りを肺一杯に吸い込みながら、ゆっくりと目を閉じた。

 外からはノアが途中で放置した夕食の支度が出来たのか、良い香りが漂い始めている。

 そしてパチパチと松明の燃える音が微かに聞こえ、いつも通りの穏やかな群れの様子を伝えてきたが、しかし暗くなった小屋はランタンを灯してもいなかったせいでシュナの輪郭さえ曖昧にするばかりで。
 だがそれでも、隣に居るシュナの温もりと匂いは確かにここにあり、二人は未だ暫く動く事もなく、夜に沈みかける小屋の中でぴったりと寄り添い、無言のまま手を繋ぎ合っていた。

 それはひどく優しく、穏やかで、このまま時が止まってしまっても良い。なんて馬鹿げた事を思いながらも、ノアはただひたすらに癒しを求めるようシュナの匂いを嗅ぎながら、そっと目を瞑り続けた。




 

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