それからぽつりぽつりと何気ない会話をし、そこでお互いの家がなんと約二駅分しか離れていない事を知ったりとしながら、二人は程なくしてやってきた電車に乗り込んだ。
 電車の中は夜の九時を過ぎているからかさほど混んではおらず、適当な場所を見つけ二人はシートへと腰掛けた。


 カタン、カタン。と心地よい振動が体に走り、反対側の窓から通りすぎてゆく街並み。
 流れていく景色はぼんやりとした灯りに彩られキラキラと輝いており、その中で翠はチラリと横に座る隆之へと視線を投げた。

 眼鏡のレンズが光を反射し目元が見えず、だがすっと通った鼻筋に薄い唇、それから骨っぽさが浮き出た喉仏が格好良くて、翠が何度もチラチラと横目で盗み見ていれば、不意に隆之が顔を向けた。

「っ!」
「何ですか?」
「な、なんでもない! ……それより、ほんと色々ありがとね」
「いえ」
「今度何かお礼させて」
「俺がしたくてしてるだけなんで大丈夫ですよ」
「またそう言う……」
「……じゃあ、また今度あの自販機で何か奢ってください」
「ふはっ! うん! 何本でも奢る!」
「いえ、一本で十分です」
「謙虚なのは良いけど、こういう時は遠慮なく先輩に奢られるもんだよ音無君」
「ははっ」
「えへへ」
「……隆之、で良いですからね」
「へっ?」
「名字で呼ばれる事あんまないですし、冬月さん先輩ですし。だから、気軽に隆之って呼んでください」
「っ! あ、そ、そうなんだ! へ、へぇ〜、友達みんなそう呼んでるんだ!?」
「そうですね。……あとはまぁ、家族には小さい頃たかって呼ばれてました。今でも兄達にはそう呼ばれてますけど」
「……」

 フランクに名前を呼んでくれて良いと言う隆之にテンションが爆上がりしつつ、……“たか“って何それ可愛い〜〜ッッ!! と小さい頃の隆之も知っているせいでよりそう呼ばれていたのが鮮明に浮かんでしまった翠はキュン死にしそうになりながら、意を決しておずおずと口を開いた。

「あ、じゃ、じゃあ、もし嫌じゃなかったら、俺も、たかって、呼んで良い……?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい。別に嫌でも何でもないですし」
「っ、あり、がと……」

 うわ、うわ、うわぁぁ!! 何これ奇跡!? あだ名で呼べるの!? 親密度えぐいって!! だなんてもう空も飛べそうなほど翠が高陽感にバクバクと鼓動を鳴らし、どもりながら謎のお礼を告げる。
 そんな翠の様子に何故か隆之は小さく笑うだけで、その微かな笑みにでさえギュンッと心臓を握り潰されながら、嬉しすぎる……!! と翠はキラキラ輝く笑顔で隆之を見た。

「えへへ! あ! 俺の事も呼び捨てで良いし敬語使わなくて良いからね! 翠って呼んで!」
「……ふ、さすがにタメ語は無理ですけど、じゃあはい、翠さんって呼ばせてもらいます」

 翠の勢いが面白かったのか、口元に拳を当てながらふっと笑った隆之。
 だがその深く柔らかな凛とした声に名前を呼ばれた翠は、今日一日で人生の運全部を使ってしまったのではないかと思うほど幸せすぎる体験にプルプルと体を震わせては、ノックアウト寸前だと言わんばかりに顔を真っ赤にした。

「……うぅ、」
「翠さん? どうしました?」
「っ、な、なんでもない……」

 隆之の口から紡がれる、自身の名前。
 その度に動悸と息切れと眩暈が起こりそうで、これは幸せすぎて死んでしまうやつ……! と翠が息を飲むも、隆之は急に黙り込み顔を真っ赤にしている翠を心配するよう、何度か『翠さん?』と名前を呼んでは、無自覚に翠の寿命を縮めてくるばかりだった。




 ***



 電車の中で何度も『翠さん』と呼ばれ、死にかけながらも何とかギリギリ耐性を付けた翠がようやく普通の表情を保てるようになった、頃。
 タイミング良く電車が最寄りの駅へと到着し、二人は電車を降り改札を抜けた。

「あ、あのさ、駅から俺の家そんなに遠くないし、ここまで送ってくれただけでありがたいのにほんとに家まで送ってくれるの? 用事大丈夫?」

 離れたくはないが、迷惑をかけたい訳じゃない。と翠が家への道を歩く前に再度確認するよう、申し訳なさそうに問いかける。
 だがそんな翠に、隆之は薄く笑うだけだった。

「大丈夫です。むしろここら辺の方がこんな夜遅くに一人で歩くの危険そうですし、家まで送らせてください」
「っ、で、でも、この辺りは小さい頃から知ってるご近所さんばっかりで地域全体仲良いしさ。それにもし万が一不審者とか変な奴とたまたま遭遇しても、俺ほんとに喧嘩強いから、ほんとに無理しなくて大丈夫だよ?」
「でも二人で居れば変質者に襲われる可能性がぐっと低くなりますよね。だったらその方が安全じゃないですか。翠さんだって何も好き好んで喧嘩してる訳でもしたい訳でもないでしょう?」
「う……、ま、まぁ、そう、だね……。じゃあお願いします。ありがとう」

 一人よりも二人の方がトラブルに巻き込まれる可能性は低くなるだろうという隆之の正論に、お願いします。と呟くしか出来なかった翠が、どっちですか。なんて道を尋ねてくる隆之を見ては、本当にどこまで心配性で男前なんだ。とキュンキュンとしながら、あっち。と家の方角を指差す。
 それから二人は、街の喧騒とは正反対のひっそりと寝静まった住宅街を歩きだした。


 コツコツ。と響く二人の靴音だけが夜を彩り、等間隔に並ぶ街灯がアスファルトを明るく照らしている。

 家々の塀や選挙のポスターなどが連なるその慣れ親しんだ景色のなか、だが隣に隆之が居る事が翠にとっては非日常で奇跡でしかなく、うわぁぁ……!! だなんて心のなかで叫んでいたが、不意に秋風が肌を撫で、ぶるっと体を震わせた。

「……っ、くしゅんっ」

 今日は学ランを羽織っておらず、ワイシャツ一枚だけだった翠が思わずくしゃみをしてしまい、ずびっと鼻を啜る。
 それから何だか間抜けな所ばかり見られていると、気恥ずかしさからへらりと笑って隆之を見た。

「ごめん」
「何がですか?」
「くしゃみ、煩かったかなって」
「生理現象ですし、可愛いくしゃみでしたよ」
「っ、かわっ!?」
「最近寒いですけど、夜だと更に冷えますよね」

 あまりにもさらりと可愛いなんて言った隆之に、……は!? え、待って今可愛いって言った!? だなんて人生で数えきれぬほど可愛いやら綺麗やらと称賛されてきたくせ、思考を停止させる翠。
 だがそんな翠をよそに隆之は何故か徐に着ていたパーカーを脱ぎ始めていて、それに翠は可愛いからの衝撃冷めやらぬままあんぐりと口を開け、目すら見開かせた。


 するり。と服を脱いだ隆之の、乱れた黒髪。

 それがはらりと眼鏡の縁に落ち、顔を小さく振る仕草がまるでスローモーションのように感じた翠が、ヒュッと息を飲む。
 それは何て事のない動作だったが、けれど翠にとっては何だか見てはいけないものを見たような気持ちになってしまい、途端にドクドクと煩く鳴り響く心臓を抑えるよう、無意識に胸元をきゅっと握った。

 ……いや服を脱いだだけなのに格好良すぎる。だなんて薄手の白い長袖一枚になった隆之も格好良いとただぼんやりポーッと見惚れていた翠だったが、

「これ、俺が着てたやつで申し訳ないですけど、それでも良かったら」

 だなんて言いながら着ていたパーカーを差し出してくる隆之に、想定外過ぎて驚きの声をあげてしまった。

「えっ!?」
「嫌ですか?」
「ち、ちがっ!! 嫌とかじゃなくて、音無君が寒くなっちゃうじゃん!!」
「俺は寒くないんで大丈夫です。着てください」
「いやっ、でも、」
「ほんとに大丈夫なんで」

 困り顔で遠慮をする翠に、パーカーを手にした隆之が、受け取ってください。と言うよう翠を見つめてくる。
 その眼鏡越しの眼差しすら格好良く、翠は眉を下げながらもおずおずと手を伸ばした。

「ほ、ほんとにいいの?」
「はい」
「……あり、がと……」
「いえ」

 そっと受け取ったパーカーは、未だ隆之の温度がじわりと残っていて、温かく。

 それに心臓が煩いほどに高鳴るのを感じながらも袖を通した翠が、ポスン。と顔を出す。
 少しだけ大きく、柔らかで温かな素材のパーカーは着心地が良くて、だがふわりと香る爽やかな柔軟剤の匂いがまるで隆之に抱き締められているみたいだと、途端に翠は顔を真っ赤にしてしまった。
 しかしすぐに、いやいやいや無し今の無し!! 何考えてんだ俺!! だなんて不埒な妄想を吹き飛ばすよう慌てて軽く頭を振った翠は、火照る頬のままへらりと笑った。

「っ、あ、ありがとね! めっちゃあったかい!」
「なら良かったです」

 少しだけ余ってしまう両手の袖を無意味にパタパタとさせ、蕩けそうな笑顔を浮かべる翠の子どもじみた仕草がおかしかったのか、隆之がふっと笑う。
 その笑顔はやはり何度見ても格好良く、またしてもポーッと翠が見惚れていれば、なぜか不意に隆之が手を伸ばしてきた。

「っ、へぁっ!?」

 焦った声を出す翠を他所に、そっと両手でフードの襟を掴み被せてきた隆之が、顔を覗き込むように見つめながら、またしても表情を綻ばせる。

「寒いんで、ちゃんとフードまで被った方が良いですよ」

 だなんて呟くその声も、そして顔も先程よりも穏やかで柔らかく見え、翠は目を見開いたままその優しい表情をただただ間抜けに見つめるしか術がなかった。

「もうそろそろ家だと思うんであんまり意味ないと思いますけど、でも被らないよりは被った方が温かいと思うので」
「っ、あ、ぅ……、あり、ありが、と……」

 まさかこんなキザな事をされるとは思ってもみず、もう呼吸すら上手く出来ない翠がしかし何とか声を絞り出し、小さくお礼を呟く。
 けれどそんな翠に追い討ちをかけるよう、隆之は微かに首を傾げては、翠を見た。

「それと、音無君じゃなくて、たかって呼んでくれるんじゃないんですか?」

 だなんて聞いてくる隆之の、さらりと揺れる黒髪。
 その仕草も相まって、翠はもう口から心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほどにドクドクと鼓動を高鳴らせ、体が四散してしまいそうになりながら、口をぱくぱくとさせた。

 うそ、うそじゃん。うそ。むりむりむり。かっこよすぎる。むり。まってしぬ。

 だなんて翠の脳内で巡るのは、とりとめもない言葉だけ。
 しかし隆之はそんな翠の驚いた表情のまま絶句している姿がおかしいのか、ふはっと顔を横に向け口に拳を当てながら笑うだけだった。


「ふ、すみません」
「……」
「行きましょうか。多分すぐそこですよね?」

 未だ何も言えない翠に、歩きましょう。と隆之が促してくる。
 その数歩先を行く広い背中を見た翠は、えっからかわれた……? ていうかほんとなに。天然タラシなの? むりかっこいいんだけど。だなんてやはりアホみたいな語彙力で脳内ショート寸前になりながら、隆之のあとを震える足を叱咤し何とか着いていった。





 それからほどなくし、道の角を曲がった隆之が、

「……ここ、ですよね?」

 と一軒家を指差している。

 そこは隆之の言葉通りまさに翠の家であり、えっ何で。とまたしても翠が本日何度目か知らぬ驚きの表情をしたが、隆之は悪戯っぽい笑顔を浮かべては、家に入ってください。と言うだけだった。

「っ、え、な、なんでっ、えっ!?」

 隆之のにやりと片方の口角だけをあげる笑顔を初めて見た翠が、うっ!! 何その顔可愛いッッ!! と心臓を貫かれながらも、何で? とパニックになったまま隆之へと問いかける。
 それに隆之が口を開いた、その時。

 ──プルルルル。と突如携帯電話の着信音が静かな住宅街に響き渡った。

 その音に二人とも少しだけビクッと身を跳ねさせ、しかしそれからジーンズの後ろポケットに手を突っ込んで、自分でした。という顔をした隆之。
 そして着信画面を見ては少しだけぴくりと眉を寄せたのに気付いた翠は、ハッとして声をかけた。

「あっ、で、出て良いよ勿論! ごめんね送ってもらっちゃって! ありがとう!」
「いえ、何度も言ってますけど、ただ俺がしたかっただけなんで」
「っ、」
「それじゃあ行きますね。おやすみなさい、翠さん」
「あっ、うん、おやすみ! ほんとにありがとう!! ……じゃ、じゃあまたね、た、たか……!」

 未だ電話の音が響くなか、慌ただしく別れの挨拶を交わす二人。
 だがしかし勇気を振り絞った翠が隆之を愛称で呼べば、目を瞬かせた隆之がそれからふっと表情をやわらげた。

「はい、また。翠さん」

 そう微笑んで凛とした声で翠の名前を呼び、じゃあ、と隆之が踵を返す。
 それに、あっ。と名残惜しい声をあげそうになった翠は慌てて口を閉じながら、隆之の後ろ姿を見つめた。


「もしも、……用事出来たからそれ済ませてた。……分かってるって。だから今からそっち行くって。忘れてない。ていうか忘れて行ったのはトモの方でしょ。あといつも言ってるけど、電話出るまでずっと鳴らさないで。少しして出ないなと思ったら切りなよ。あとからかけ直すって言ってるじゃん」

 だなんてようやく電話に出た隆之が、しかし翠と話す時よりも格段に砕けた口調で話をし始めている。
 少しだけ当たりがきつい言い方だったが逆にそれが仲の良さを表しているようで、翠は隆之の口から出た“トモ“という人物の名前にズキンッと胸が痛んだのを感じつつ遠ざかってゆく背中を見ていたが、不意に後ろを振り向いた隆之と目が合ってしまって、ヒュッと息を飲んだ。

 どうやら隆之もまだ翠が家の中に入っていないとは思ってもいなかったのか驚いた表情をし、それから携帯の受話器口を手で押さえながら、くるりと振り返った。

「翠さん? 何かありました?」
「っ、あ、いや、えっと、な、何もないよ! ただ、その……み、見てた、だけ……!」

 隆之の不思議そうな顔に、上擦った声で見ていただけだと白状する翠。
 そうすればまた少しだけ驚いた表情をしたあと、隆之は先程と同じ悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。

「じゃあ見送りは良いんで、寒いし危ないから、……家、早く入って、ください」

 そう言った隆之が、ひらりと一度手を振って、早く。と促してくる。
 街灯に照らされたその姿は見惚れるほど格好良く、だがこれ以上迷惑をかけたくないと慌てて翠も手を振り返し、扉を開けて家の中に飛び込んだ。


 ガチャンッ。と扉が閉まる音が響く、玄関。

 慌ただしく家の中に入った翠はしかしそのまま扉に背中を付け、今日という最高の日に未だドクドクと鳴り響く心臓を落ち着かせようとしたが、しかしそれからハッとして口を両手で覆った。

 ……えっ、待って、たか、さっき何て言った……? あの言葉って……、それに、俺の家を知ってたのって、まさか……。

 だなんて、昔助けてもらった時に聞いた最後の言葉と同じ事を言った隆之に息を詰まらせ、もしかして隆之も覚えてくれていたのだろうか。と翠は奇跡でしかない馬鹿げた期待で胸を高鳴らせながら、……もう無理。とその場にずるずると踞ってしまった。

 ……無理だよもう、こんなの……。惚れるしかないじゃん。無理。……たかが好きすぎて、おかしくなりそう。

 なんて心のなかで呟きジワジワと浮かぶ涙を目に溜めながら、これはもう誤魔化しようもなく何の抗う術もなく、ただただ恋をしている。と認めるしかない気持ちに翠は甘い溜め息を吐き、玄関先で踞りながら自身の体を抱いた。

 その瞬間パーカーから香る隆之の匂いが更に恋しさを膨らませ、帰ってきたのかと出迎えに来てくれた母親に情けない姿を見られても翠はしばらく何も発せず動く事すら出来ず、ただただ隆之への募る恋心に、泣いてしまいそうになるだけだった。






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