番外編 帝都レヴュウ 前


本編の展開と繋がりはありません。


ー最近、坂田さんの帰りが遅いわねぇ。
ーまぁ、彼もお若いし、なにより天下の帝大生となると女の子たちがほうって置きませんものねぇ。
ー坂田さん、モテそうですし。

と、女中さん達がひそひそお話しているのを偶然聞いてしまいました。
言われてみれば、最近の坂田さんは夜遅くに帰って来ることが多く、何処か浮かれているような雰囲気もありました。
坂田さんが、もし誰かとお付き合いをしているのでしたら……其れは私の密かな恋が終わるということ。

嫌だわ、そんなの。

胸がしめつけるように苦しくなって、ふらふらとする足取りで居間へ行きソファに腰を沈めて、ぼんやりと宙を眺めました。

(坂田さんのことだから、きっと美人な女性とお付き合いされているはずだわ)

ご学友から坂田さんへの恋文を預かることもあり、坂田さんがおモテになるのはもうずっと前から知っていることでした。

坂田さんは書生で、私は籠の鳥。
自由恋愛など、夢のまた夢。
決して実らない恋なのです。

「お嬢さん」

学校に行ってらして、今この時間はいないはずの坂田さんの声が聞こえてくるなんて、私の恋煩いはいよいよ重症化してきているのでしょう。

「お嬢さん」

また、声がしました。
嗚呼、嫌だわ。私の耳はどうかしてるわ。
閉じていた目を開けると、坂田さんの顔が、彼は床に膝をついて私の手を取り、至極心配そうに私の顔を覗き込んでいたのです。

「どうされました?顔色が悪いですよ?」

かぁっと頬が燃えてしまいました。
だって、殿方から手を握られるのなんて、滅多にあることではないですし、相手が坂田さんなら尚更。
坂田さんの手は私の手をすっぽりと包み込んでしまうほど大きくて。少し節くれだっていて、温かくて……。
こんなにも、坂田さんの体温を近くに感じたのは初めてのことでしたので、胸が爆ぜてしまいそうでした。

「い、いいえ……、なんでもありません。大丈夫です。それにしても、坂田さん。随分とはやいお帰りですね」

坂田さんに悟られぬよう、必死に平素を装いました。
坂田さんは、尚も私の手を握ったまま、上目遣いで此方を見上げてくるのです。

「今日は半ドンの日でしたからね。帰ったら、上の空のお嬢さんがいらして、やけに顔色も悪い。チッケンライスを食べ過ぎてお腹を壊されたかと思いました」
「ち、違います!失礼ね!大体、どうして私がお昼にチッケンライスを食べたと知っているんですか!」

ひとが悩んでいるというのに、坂田さんはどうして意地悪をするのかしら。腹立たしいわ。
顔を上げて、坂田さんを睨んでやりますと、彼は口端を持ち上げ、したり顔で笑っていたのです。

「お嬢さん、」
「なんです、あ……っ」

坂田さんの大きな手が伸びてきて、頬に触れ、そうして私の唇の端を親指で拭っていったのです。

「いくらケッチンライスが美味しいからといって、口の端にケチャップをつけたままというご令嬢はお嬢さんぐらいだ」
「……っ!?」

なんてこと!
お昼に洋食屋でケッチンライスを食べてから、ずっとケチャップをつけたままでいたなんて。
町も歩いたし、ご近所さんにも挨拶したわ。
なんてこと!なんで誰も教えてくれないのかしら。
嗚呼、恥ずかしい。
坂田さんにまで、見られて……!笑われて!
穴があったら入りたいわ。

身体中の熱が顔に集まって、涙がじわりと滲んで、恥ずかしくて坂田さんの顔を見ることが出来ません。

「……あー……」

ばつが悪そうな声が降ってきました。

「お嬢さん、すいません。からかいが過ぎました」
「……もう、お嫁にいけないわ」
「……いけないもなにも、お嬢さんには、おおぐ……土方様という許嫁がいるでしょう」
「そういう意味ではないわ」

意中の殿方に醜態を晒すなど、乙女の恥。
など、口が割けても言えません。

それなのに、坂田さんはクスクスと笑っているのです。
悶々と悩んでいた私が馬鹿みたいだわ。
話を替えるべく、私は咳払いをひとつして、「坂田さん」と真剣な声で言いました。

「はい?」
「つかぬことをお聞きしても宜しいでしょうか?」
「なんです。ケッチンライスと、ライスカレーどちらが好きかですか?難しい質問だ」
「そんなんじゃありません。……わたしもどちらも選べませんが……。って、違う、違う。坂田さん、最近お帰りが遅いじゃありませんこと?なにをしてらっしゃるの?お父様も心配されているわ」
「……あー、いや。実は大学で出された課題が大変なものでして。大学に残って課題をしているだけですよ」

怪しい。
なんとも歯切れの悪い物言いでした。
此は何かを隠しているにちがいありません。
確証はありませんが、女の勘というものです。

そこで、私は或ることを思いつきました。
坂田さんを尾行し、彼が学校終わりに何をして、誰とお会いしていのか探るのです。
尾行なんて、まるでシャアロックホォムズのようだわ!
少年探偵団ならぬ、婦人探偵といきましょうか!
胸の高鳴りが抑えきれず、口元を緩めていますと「お嬢さん、大丈夫ですか?本当に、今日のお嬢さんは何処か変だ」と、坂田さんから訝るような目を向けられました。
全部、貴方のせいなのに。失礼しちゃうわね。





或る日の放課後のことです。

「あら、急いで何処に行かれるの?餡蜜を食べにいきません?」
「すいません、今日は用事があるの。餡蜜はまたね。さようなら」

ご学友からのお誘いをお断りして、私は急いで帝大に向かいました。
私が通う女学校から帝大まではバスに乗って数分程度の距離でございます。

帝大前で降りて、門の辺りで待っていますと帝大生の方々が大勢出てきました。

「女学生がいるぞ」
「誰かに恋文でも贈ろうと待ち伏せしているのか」
「君ではないのか」
「まさか。女学生のお嬢さんたちはみんな、あの四人組目当てだからね」
「はは。そうに違いない。全く、羨ましい限りだよ」

四人とは誰のことかしら。帝大にも、Sのような風趣があるのかしら……。
ああ、其にしても皆さん此方を見てくるわ。

帝大生たちからちらちらと視線を向けられ、少々恥ずかしくなり、近くの公衆電話に入り、電話をかけている風を装いながら、坂田さんを待ちました。

暫くすると、ご学友らしき殿方たちとやいのやいの騒ぎながら坂田さんが出てきました。

「坂田、お前またあそこにいくのか?」
「ああ」
「連日通いつめてよくやるよ。お世話になっている旦那様に知られては不味いのではないか?」
「大丈夫だって。あそこはヅラや辰馬の紹介状があんだ。そう易々と知られはしないさ」

ーー行くって、何処に行くのかしら。
お父様に知られては不味いところって……なにかしら。……ああ、坂田さんもあんな顔して笑うのね。

普段の坂田さんは、何処か飄々としていて余裕がある雰囲気の方ですから、歳相応の顔をなさる坂田さんは新鮮で、その素に近い坂田さんと接することの出来るご学友の方々が羨ましく思えました。


「じゃあな。坂田。また明日」
「おう」

坂田さんはご学友と門の前で別れますと、我が家とは反対の方向にいそいそと足を進めました。私はその後を、なるべく距離をとって、建物の影や電柱の影に身を潜めながら、こっそりつけるのです。

ワトソンくん。相手に見つかってはいけないよ。それが探偵の基本だ。
わかっているよ、ホームズ。

ふふ、なんてやり取りをホームズさんたちもしているに違いないわ。


途中、坂田さんは紳士服を仕立てるお店に入っていきました。そうして、しばらくすると真新しいスーツに身を包んで出てきたのです。
普段の坂田さんは袴や学生を身につけていますので、スーツ姿はとても新鮮で。
ふわふわな銀髪を後ろに撫で付け、真っ黒いスーツにネクタイを締める姿は、なんといいますか、とても……本当に素敵な、まるで青年実業家のような……いいえ、活動写真のなかにいる英国紳士のようでした。

女性たちは、ちらちらと坂田さんに視線を向けては頬を染めて通りすぎていくのです。
断髪の、如何にもモガといった風の綺麗な女性に声を掛けられることもありました。しかし、坂田さんは肩に乗せられる女性の手をやんわりと取って、丁重に断っているのでした。


坂田さんが向かった先は、一軒の立派な建物でした。
英国の建築様式を真似て造られたと話題になった、帝都倶楽部。
殿方しか入れない会員制の社交倶楽部でした。
どんな高貴な身分だろうと、社交倶楽部に女は入れません。
困ったわ。此所に来て足止めをくらう羽目になるなんて。でも、坂田さんは何故社交倶楽部に出入りしているのでしょうか。
お父様は知っているのかしら。


「お嬢さん、そこで何をしておいでですか。此処は男しか入れない場所だ。貴女のような可憐な女性が来る処ではありませんよ」

いきなり背後から肩を叩かれ、きゃっと悲鳴をあげてしまいました。

「嗚呼、すいません。驚かせてしまいましたね。断りもなしに、ご婦人の肩に触れるなどマナーに反する」
「い、いえ……私のほうこそ失礼致しました……あ、」

此処で追い返されては元も子もないと、取り繕いの笑顔を浮かべて振り返りました。

まぁ!

其の背後にいた方が、大変な美青年でしたので、私は思わず息を飲んでしまいました。


絹糸のような艶やかな髪。
翡翠色の瞳はビィドロを彷彿させるほどに美しく、異人の血が混じっているのでしょうか。
低い声音は、うっとりする程に心地よく、それを紡ぐ形のよい唇。
まるで生きた芸術品とでもいいましょうか。
少女誌でみた高畠華宵の描く美少年が現実の世界に抜け出たような、目を見張らんばかりの美しい殿方が、微笑んでいたのです。

でも、何処かでみた顔のような……。
こんな美しい方、一度お会いしたら忘れるはずがありませんのに……。

「貴方は確か……」
「嗚呼、貴女は銀時がお世話になっている公爵家のお嬢さんですね。私は銀時の学友で、高杉晋助といいます」

高杉……あの、高杉財閥の!?
高杉財閥は、政界のせの字も分からない私でさえ知っている、日本有数の財閥家のひとつです。高杉財閥のご子息とお友達だなんて、本当に坂田さんは凄い方なのね。

うっとり溜め息をついていますと、高杉様がひとつ咳払いをして「それで。お嬢さんはどうして此方に?お父上でも待っておいでですか?」
と尋ねました。

「あ、いえ。……坂田さんを……」
「銀時を?」
「はい。……あの、実は……」

私は高杉様に全てを話しました。
途中、高杉様は何故だか笑いを堪えたりしていましたが……彼は親身になって私の話に耳を傾けて下さったのです。

「……なるほど。そういう訳ですね……。銀時は最近、撞球(ビリヤード)にハマっていましてね。撞球で勝負をして、勝ったら金を貰う。まぁ、博打みたいなものですよ」
「博打、ですか」

御父様は博打の類いが大嫌いなお人ですので、もしお父様にこのことが知れたら大事になるはずです。もしかしたら、坂田さんを追い出さしてしまうかもしれません。それだけは、絶対に嫌。坂田さんには居なくなって欲しくありませんもの。

坂田さんを止めなくては、今すぐに!

私は高杉様に頭を下げました。

「高杉様。無理を承知でお願いがあります。私は今すぐ、坂田さんを止めないといけません」
「ほう……。それは何故です?」
「父は博打がお嫌いなので、父に知れたら大問題になりますわ。ですから、坂田さんを連れ戻さないといけません。此所は殿方しか入れないと重々分かっております。だけれど、私は行って坂田さんを叱ってやりたいのです。
高杉様のお力でなんとか入ることは出来ないでしょうか」
「流石に、俺にはそんな力はありませんよ」

高杉様は申し訳なさげに柳眉を下げて言いました。
高杉様ほどのお人でも、此ばかりは流石に無理なのでしょう。
さて、どうしたものかしら。
新たな策を考えていますと、高杉様がお嬢さん、と声を静めて「女性を入れることは無理ですが、男は付き人なら身分なく入れる場所だ」とおっしゃいました。

「女性が無理なら、男になればいいのです」
「は?」
「だから、男ですよ。お嬢さんが男の格好をすれば、少年にしか見えないはずだ」
「え!?それは、つまり私が男装をするといはうことですか?」
「ええ。俺も此処の会員でしてね。一高を目指す内の書生ということにしておけば、俺の付き人として入れるってわけです。服は俺のお古をお貸ししましょう」


まぁ!まぁ!
男装なんて、まるで少女歌劇のようだわ!
つい最近、お友達とみた少女歌劇の男装の麗人を思い出し、私の胸は高鳴るばかりでした。

こんなに胸がわくわくするのなんて何時ぶりかしら。

女学校はよき嫁になるために、裁縫や礼儀を学ぶ場所。
算術や語学の勉強はおまけ。
女は家に尽くして、男に尽くす籠の鳥。
ずっと、ずっと自由がない世界に縛られていました。
そんな籠の鳥みたいな生活は時代錯誤といえましょう。
此れからの時代、新婦人として自由に生きたいと切に願っていました。
ですので、高杉様の提案は、とても魅力的だったのです。
男装して、殿方の世界に潜入する。
婦人開放の一歩のような気がして、私はひとつ返事で了承しました。


かくして、私は探偵小説のなかの主人公の如く、変装……いえ、男装の麗人になりきって(お父様や学校の先生が聞いたら卒倒してしまいそうですが)、殿方の世界に足を踏み入れることになったのです。





高杉誰だお前!となったでしょうが、高杉さんも猫かぶりです。お嬢さんとお話している高杉様は余所行きの顔です。

・モガ=モダンガールの略。
・ケッチンライスは、チキンライスのこと。
作中ではケチャップ味として書いていますが、ケチャップで味付けされたのは大正末期からだそう。
・S=sisterの略。上級生と下級生が仲良しになって手紙を交換したりする。大正〜昭和初期、女学生さんたちの間で流行りました。
・高畠華宵=大正、昭和に活躍した画家。美少年・美少女画家として有名。
・少女歌劇=後の宝塚歌劇




12/12
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