四.終夜の酒

下弦の月が昇る夜半、 千草は万事屋に続く階段を登っていた。

呑みに来ないか、と銀時から誘われたのは診療所の掃除をしていた夕暮れ時。

今日明日、松本夫妻は温泉旅行でいない。福が商店街の福引きで温泉旅行のペア券を当てのだ。松本は急患が出たらどうすると行くのを渋っていたが……。一日くらいは羽根を伸ばしてもバチは当たらないと説得させ、夫婦水入らずの温泉旅行に出掛けていった。
休診日となった今日、 千草は特にやることもなく、テレビを観たり、昼はお洒落なカフェでランチをしたりとのんびりと過ごしていた。
そんな折りだった。
診療所の電話が鳴って、受話器を取ると、電話口から「もしもーし、良玄せんせーの助手さんはおられますかぁー?」と気怠げな、ふざけた口調の声が聞こえてきた。声の主が容易に想像がついて、 千草はくすくすと笑った。
松本が出ていればきっと怒鳴られていたに違いない。

「ふふ、坂田さん。私ですよ。どうしたんですか?」
「お、 千草ちゃん。丁度良かった。今夜暇?暇だよね?いい酒入ったからさ、呑みにこねぇ?」

夕食はスーパーの惣菜で済ますつもりでいたが、たまには酒を呑みながら肴を摘まむのも悪くはない、と銀時の誘いに一つ返事で応じた。


殺人的な猛暑の日中だったが、八月も半ばを過ぎれば夜になると暑さも少し和らぐ。それでも熱気を含んだ生暖かい風が身体に纏いつき、汗が流れ落ちる。
万事屋の玄関の前で立ち止まり、 千草はハンカチで額から湧き出る汗を拭った。

「あ、やっぱ千草ちゃんだったわ」

呼び鈴を押す前に玄関が開いて、銀時がひょっこりと顔を出した。

「坂田さん、今晩は」
「入れよ」

既に一杯やっていたのか、銀時の顔はほんのりと赤い。それに今夜の銀時の姿はいつもと違っていた。黒いインナーでも片袖を抜いて使っている着物でもなく、藍色の着流しひとつだ。珍しい格好に千草は目を瞬かせた。

「坂田さん、今日は珍しい格好していますね」
「ん?……あー、あのジャージなぜーんぶ洗濯中なんだよ」

あれはジャージだったのか。そう言えば、ずっと前に万事屋の従業員である少女がズンボラ星のジャージを売っている店がなんとか……と騒いでいたような気もする。
お邪魔します、と口にして銀時に続いて玄関を上がる。部屋の中はしんと静まり返っていた。
いつも笑顔で出迎えてくれるはずの子供達の姿はみえない。

「……神楽ちゃんはいないんですか?」
「んー、お姫……友達んとこに泊まりに行ってる」

五月蝿いのがいないから楽でいいわ、と銀時は笑いながら口にする。

「新八はお通ちゃん親衛隊のオフ会かなんかで一日中、カラオケだってよ。あの眼鏡、音痴のくせしてよくやるぜ」

千草は知っていた。口では皮肉めいたことしか言わない銀時だが、その実、万事屋の子供達のことを大切にしていると。
銀時の子供達へ向ける眼差しは、慈愛に溢れているのだ。
何時だったか、頭から血を流した新八を抱えた銀時が診療所へ飛び込んできたことがあった。依頼中に新八が転んで木材で頭を打ったと。幸いにも、傷は浅くまた新八の若さもあって消毒とガーゼにネットをするだけの処置で済んだが、その時の銀時の焦り様は今でも鮮明に覚えている。真っ青な顔をして松本に「ちゃをんと診ろよ!」なんて詰め寄ったりもしていて、最終的には新八に「銀さん!いい加減にして下さい!」と叱咤されていた。

ふふ、と思い出したように笑えば銀時が訝るような視線を向けてきた。

「なに笑ってんの?」
「……何でもありません」
「……変なやつ。ところで、その包みなに?食い物?」
「さつま芋の甘露煮です。急いで作ったので、お口に合うか分かりませんが、良かったらどうぞ」
「お、甘いもんか!ラッキー!」

途端、銀時の死んだ目にぱっと輝きが差して、嬉しそうに顔を綻ばせる。千草は甘味を前にすると子供みたいな顔を見せる銀時を密かに可愛いと思っていた。
本人に言うときっと拗ねるので口にはしないが。

依頼先から譲って貰ったという酒を呑みながら、銀時と千草は他愛もない話をしていた。万事屋が受けた依頼先で起こった出来事を銀時がべらべらと話すのが殆どであるが、千草はそれを聞くだけでも楽しい。万事屋の三人と一匹にとっては、何気ないありふれた日常だろうが、ほんの一年前まで研究室に閉じ籠って顕微鏡ばかりを覗いていた千草にとってはまるでお伽噺のようで胸が弾む。


「千草ちゃん、こっちきて、銀さんに酌してよ」

ぽんぽんとソファを叩いて銀時は自分の隣へと促した。千草は銀時の言葉に従うように、隣にちょこんと座る。僅かに距離を空けて座れば、「なんか遠くね?」と銀時が距離を詰める。しかも、何気に近い。

「近くないですか?」
「え、そう?」
「……」

銀時は至って普通に酒を煽っていたが、千草はそれどころではなかった。
今日の銀時が妙に艶っぽく感じてしまうからだ。
これはきっと銀時が何時もと違う格好だからに違いない。視線をちらりと向ければ、はだけた着流しから覗く厚い胸板が目に入った。酒の入ったお猪口を持つ指は武骨で、酒を口に含んで嚥下するたび上下に動く喉仏に男らしさを感じて、思わず目をそらす。

坂田さんって、こんなに色っぽい人だったけ……。

「千草」
「へ?」

優しい声音で名を呼ばれた。千草が返事をするよりはやく、伸びてきた銀時の手が千草の後れ毛に触れ、指で弄ばれる。微かに指先が頬に触れ、擽ったさに思わず身をよじった。

「さ、坂田さん……っ、擽ったい……っ」

ふ、と声が漏れた。その刹那、千草の視界は反転する。木目の天井を背にした銀時の顔。背中には少し硬いソファの感触。押し倒されている、と気付いた時にはもう遅い。銀時はお伽噺に出てくる猫のように、にんまりとした愉しげな笑みを浮かべていた。

「なぁ、千草ちゃんさ。その坂田さんって呼び方、そろそろやめね?他人行儀みてぇで、嫌なんだよねー。銀時、銀さん、銀ちゃん、銀時さん、銀時さま……なんでもいーから、下の名前で呼んでよ」

大きな手が頬を撫でる。少し汗ばんでいて熱い掌だった。

「でなきゃ、ちゅーすんぞ」

唇を尖らせ、冗談めいた物言いで銀時は 千草の唇を親指の腹でなぞった。銀時の紅い瞳は弧を描き、目許は朱に染まっていた。顔に掛かる吐息は熱っぽく、酒の匂いがする。

この天パ、酔っている!

「ちょ、離して下さい!」

何時もみたいにからかわられているだけだと思うも、これは冗談が過ぎる。
鋼のような筋肉で覆われた胸板を押すが、びくともしない。それどころか、銀時は 千草の手首を掴み、易々とソファに縫い付けたのだ。

「ほら、呼んでみ?」
「ひっ」

耳元で低く、甘さを含んだ声で囁かれ、千草の肩がびくりと跳ねた。

「……呼べって」

千草が静かな抵抗を示して口を閉ざしていると、今度は有無を言わさない口調で言われた。
千草は観念したように、小さく口を開く。

「……ぎ、銀さん……っ」
「……よく出来ました」

ご褒美、とふんわり笑って銀時は千草の額に唇を落とす。ちゅ、と可愛らしい音がした。

誰だよ、お前っ!
この人、こんなに甘く笑う人だったっけ……!?

千草が事態を飲み込めずにいると、銀時の行為は徐々にエスカレートしていき、耳朶を食まれ、耳の穴に舌を差し込まれ、ねぶられる。鼓膜に直接響く水音に、背筋がぞくりと粟立った。

「……っ、あっ」
「……可愛い声出すじゃん」

堪らなくなって、口から嬌声が漏れた。
それに気をよくしたのか、顔を上げて千草の顔を覗き込む銀時は意地の悪い笑みを浮かべていた。

「そんな声、男を煽るだけだって」

くつりと喉を鳴らして笑った銀時は赤い舌先で自分の唇をぞろりと舐めた。
獲物を狙う獣のようにぎらつき、熱を帯びた燃えるような深紅の双眼に見詰められ千草の身体まるで金縛りにあったかのように動かせなくなった。

「さ、坂田さんっ」
「銀さん」
「銀さ、ん……っ、や……もう、離しっ……ふっ」

批難の声を呑み込むように唇を塞がれた。肉厚の舌が千草の咥内へぬるりと侵入し、歯列や上顎をなぞり、舌を吸われ絡め取られる。
息苦しさに千草の目尻にじわりと涙が滲んだが、銀時は全く気にも止めず、ねっとりと咥内を犯し、まるで美酒を味わうかのように堪能していた。
千草は世界が反転するような酩酊感に襲われ、軈て全身の力が抜ける。
そこで漸く、銀時が名残惜しげに唇を離した。
解放された、とほっと胸を撫で下ろした矢先。
今度は、首筋を舐められた。髪を掻き分けられ、首の付け根を何度も吸われ、甘く噛まれる。
千草のしどけなく開いた口から甘ったるい嬌声が漏れた。何か妙な感覚が千草を襲った。身体が痺れ、下腹部がじんわりと熱い。

「あー、たまんねぇ。止まんなくなっちまう。ゴム、あったかな。最近、ご無沙汰だったし……ナマは流石に不味いか」

気怠げな物言い。しかし、何処か切羽詰まったような声に、千草はきゅうと身体を縮ませた。男女が二人きりの夜に、酒の勢いに任せて……の先は容易に想像がつく。場馴れした大人ならよくあることだろう。だが、千草はそうも行かなかった。
経験がなかった。
男と付き合ったことはあるが、勉強にかまけていたらいつの間にか自然消滅だ。
着物の合わせ目から忍び込んだ銀時の手が、するりと大腿を撫でた。途端、千草は更に身体を縮ませ、両目を硬く瞑る。

「……なに、緊張してんの?男とこーいうことしたことねぇの?」
「……っ、わ、悪いですかっ……あ、生憎とずっと勉強しかしてこなかったから……」

消え入りそうな声で呟いた。顔が熱い。恥ずかしくて死にたい。千草は唇を噛んだ。何が悲しくて目の前の男に自分の男性経験を話さなければならないのか。

「……。そーなんだ」

やや閥が悪そうに呟いた銀時の顔は俯いて見えない。

「その、なんだ……悪かったな。……軽々しく男と二人きりになっちまうと、こーいうことになりかねないから、気をつけろよ。男は狼ってよくいうだろ……。もう、何もしねぇから、ちょっとだけ、こうさせて」

千草の胸に頭を乗せ、まるで子供のようにすりより、甘える。
銀色の癖毛がふわふわと動く。綿毛のような柔らかなそれに、千草は手を伸ばし、気づけば撫でていた。

「ふわふわ、くるくる……」
「……好きで天パに生まれたわけじゃねぇーし」
「……でも、触り心地がいいです」
「……千草ちゃんさぁ……ほんと、そーいうの……うん、まぁ……いいか。特別に、触らせてやる……」

それ以降、微動だにしなかった。銀さん、と 千草が名を呼べば返ってくるのは、微かな寝息だけ。

ね、寝てる!
信じらんない!!

抜け出そうにも、銀時にがっちりと腰を掴まれ抜け出せない。成人した男の、しかも筋肉質な銀時の身体は重く千草は身動きが取れなかった。

酔いが覚めた銀時の慌てふためく姿がありありと目に浮かぶ。きっと、今夜の出来事など綺麗さっぱり忘れてしまうのだろう。
酒に呑まれて正体を無くした銀時の数々の失態を風の噂で耳にしたことがある。
今夜の出来事も酔った勢いで起こした不祥事のひとつとして片付けられるのかと思うと腹が立つし、何だかとても悲しくもなる。

「……ていうか、朝になって神楽ちゃんや新八くんが帰ってきたらどう説明すんの……銀さん、銀さん」

背中を少し強めに叩いてやると、銀時がもぞりと動いた。

「んあ……」
「私、もう帰りますから……離して下さい」
「……やだ」
「……やだって……」
「だって、 千草ちゃん抱き心地いーんだもん。いー匂いするし」

きゅ、と腰に回った腕に力が籠った。どうやら離す気はないようで、少しすると鼾混じりの寝息が聞こえる。
しがみついて離れない。大きな犬みたいだと 千草は思った。
これは諦めるしかなさそうだ。

「もう……本当に、仕方のない人」

柔らかな銀髪を撫でながら、千草は小さな溜め息を溢した。




腕のなかにいる千草から微かな寝息が聞こえたのを確認した銀時は、ぱちりと目を開けて、静かに上体を起こした。
元来、人の気配には敏感な質で子供達以外の気配には未だに慣れず、深く眠ることが出来ない。例え、千草であってもだ。酒に酔った勢いで手を出してしまいそうになったことへの気まずさから 銀時は狸寝入りを決め込んでいた。

やっちまったなぁー

胸の内で盛大な溜め息を溢す。
千草を散々からかってきたが、銀時は彼女が己の手に堕ちるまでは手を出さないと決めていた。自分に堕ちてこそ味わうセックスは極上に気持ちがいいからだ。

最初こそは何時ものようにからかうだけだったはずなのに、千草の鼻にかかったような嬌声や頬を赤く染めて涙ぐんだ表情を見たら止められなくなってしまった。未通の生娘だったと知った時、背筋が粟立った。もっと啼かせてやりたいと、己の肉棒をぶちこんで欲を放って自分色に染め上げてみたいと思った。がしかし、そんなことをすれば、この先ずっと嫌われるに決まっているし、何より松本に殺されかねない。相手は真選組とも繋がりのある人物だ。訴えられてぶた箱行きだろう。
昂る欲を何とか沈め、後は甘えるような行為をすれば千草は気を許してくれた。つくづく、警戒心の無い女だと呆れ果てる。

あーあ、無防備な顔で寝ちまってまぁ。

銀時は千草の前髪をそっと掻き分け、額をつついた。 千草が小さく身動いだが起きる気配はない。

「もうちょっと警戒心持たねぇと……悪いオニに喰われちまうぞー」

銀時の囁きは夜の闇に呑まれて消えた。




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