二.夜叉おにの蛩音

松本診療所はかぶき町でひっそりと開かれている。医者の松本良玄とその妻の富、看護師の福、そして松本の助手を務める千草で切り盛りしていた。
開業して五年も満たないが、診療所には毎日子供から年寄りの姿があり、それなりに繁盛していた。
そして、ならず者が集まるかぶき町特有なのか時折、厄介な事件に巻き込まれたであろう患者もやってくるのだ。

今日もまた一人。
診療時間も終わっているのにも関わらず、診療所のドアを叩いて男がひとりやってきた。

「坂田、てめぇいい加減にしねぇとその内おっちぬぞ。全く、此処にきた時から全く変わりゃしねぇな」

「痛ってぇ!ちょっと、じーさん。説教垂れる前にちゃんと治療してくんない?」

松本は目の前できゃんきゃんと喚く銀髪天然パーマの男、坂田銀時をねめつけて、彼が肩口に作った大きな傷に消毒液を遠慮なく塗りたくった。
銀時は松本がまだ大きな病院で働いていた頃に、知り合いの闇医者から診て欲しいと言われて引き受けた患者その一であった。患者その一であったはずの男は、松本がかぶき町に診療所を開業したと聞き付けるや否や、月に一回、多い時では三回も診療所に訪れ、怪我の治療を依頼してくる常連の患者になったのだ。しかも、診察費はツケ払い。
銀時の怪我は普通に暮らしていれば負うことのない刀傷ばかりで、またある時は土手っ腹に穴を空けることもあった。銀時が堅気ではないことは明らかだ。しかも、かぶき町で万事屋を営む坂田銀時は、お登勢の番犬ときく。剣の腕も滅法強いとか。
表向きは町医者だが、松本は真選組お抱えの医者でもある。基本的に真選組の屯所で治療をすることが多いのだが、見廻りついでと隊士達が顔を見せることもある。だから、怪しい者をおいそれと引き受けることは危険な行為であるが、怪我している者を見捨てておけないのが松本の性分であった。

「先生、梅さんから往診のお電話です。梅さんどうやらフラダンスをしていたら転んで足を捻ったらしくて。至急、診て欲しいと」

治療室の戸口からひょっこり顔を出したのは助手の千草であった。

「梅ばばあのヤツ……あれほどフラダンスは控えろっつったのに。千草、悪ぃが後を頼むよ。傷は縫ったし、後は消毒して包帯巻くだけだ。ま、坂田の傷なんてほっといても直ぐにくっつくがな」

「俺はボンド人間かよ。んな直ぐにくっつくわけねぇだろ。あー良かった。じじいより千草ちゃんのほうが優しく治療してくれるから、千草ちゃんが治療してくれたら傷も直ぐに治っちゃうよ」

「坂田、てめぇどさくさに紛れて千草に手を出したら溜まった分のツケ代としててめぇの内蔵売りさばくからな」

「それもう町医者のいうことじゃねぇよ。闇医者の言うことだよ!」

ぎゃんぎゃん喚く銀時を無視して、松本は往診用の鞄を持って治療室を出た。
診療所の戸を開けると生温い湿った風が顔に掛かる。外は土砂降りの雨が降っていた。天気予報では一日中晴れと出ていたのに。舌打ちし傘を差す。

松本と千草が出会った時も土砂降りの雨であった。もう一年も前のことだ。
どしゃぶりの雨の中、かぶき町の路地裏で膝を抱えて蹲ってた千草を見つけたのが松本であった。長時間雨に打たれて高熱を出していた為、自分の診療所へと連れて帰ったのだ。
熱が下がって何故、あのような処に居たのかと訪ねると、千草は泣きながら此処に家はないのだと言う。天人も見たことがないと、自分の知っている江戸ではないと言う。聞けば医術の心得があるようで、丁度、助手を雇おうかと思っていた松本は千草を助手として住み込みで働いて貰うことにした。素性はよく知らないが泣きじゃくる娘を放り出せる程、鬼ではない。
実際、千草はよく働いている。容姿は平々凡々なのだが、松本含め歳をくった者しかいない診療所でたちまち看板娘となった。
真選組の隊士達にも人気がある。そして、あの坂田銀時も……千草がやってきてから、診療所に来る数がやたらに増えたのだ。喧嘩で出来た傷は勿論のこと、やれ風邪を引いた、やれ万事屋の子供達にぼこぼこにされて掠り傷を負ったなどと医者いらずの対した傷でもないのに頻回に顔を出している。此は長く生きてきた者の直感だが、銀時は千草に気があるのではないのかと……松本は思っていた。

ーー冗談じゃねぇや。誰があんな万年金欠プー太郎に千草をやるか!

松本夫妻には子供がいない為、千草を実の娘のように可愛がっていた。そんな大切な助手を万年金欠の足の臭い天然パーマ野郎に渡してたまるか。とっとと往診して帰らねば、と松本は薄暗い夜道を急ぎ足で歩いた。





銀時が松本診療所に世話になって数年が経つ。松本とは彼が大病院で働いていた時からの知り合いだった。
腕利きの名医として有名だった松本が大病院を辞めて、ならず者が集まるかぶき町で診療所を開業すると聞いた時には物好きな爺だと誰もが思っていたが、金のない者、戸籍も職もなく保険に加入していない者を見付けては手を差し伸べ、無償で治療をしている。今ではかぶき町に無くてはならない人物となっていた。

「坂田さん」

名を呼ばれ、ぼんやりと天井の染みを数えていた銀時は視線を転じて、目の前に座る千草を見下ろした。

「包帯、ここのとこ押さえてて貰えますか?」

「ん」

指示通りに包帯を押さえ、千草の白い手が器用に包帯を巻き付けていくのをぼんやりと眺めた。
鼻腔を擽る、鈴蘭の香り。
銀時はこの香が好きであった。そして時折、無償に嗅ぎたくなる匂い。

「なぁ、千草ちゃん」

「はい?」

「前から気になってたんだけどよ、千草ちゃん香水とかつけてんの?」

え、と千草が首を傾げる。銀時が鈴蘭の……と口にすると、言葉の意味を理解したように、ああと頷いた。

「お福さんが、趣味で石鹸を作っていらして、鈴蘭の石鹸を頂いているんです。多分、それでかと。自分ではあまり分からないのですが、そんなに強く匂いますか?不快にさせてしまって申し訳ないです」

眉を下げて謝る千草に、そんなんじゃねぇよと否定を入れる。銀時は結構、気に入っている匂いだった。

「俺ぁ、この匂い嫌いじゃねぇよ」

千草の首筋に鼻先を寄せ、すんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
途端、千草の顔が真っ赤になった。
ぐらぁと銀時の理性が揺らいだ。嗜虐心が沸き起こる。

「今日は、ばばあ二人はいねぇの?」

「ばばあって……お二人に殺されますよ。お福さんは息子さんが風邪を引かれたみたいで早目に帰られていますし、富さんは町内会のご友人達と温泉旅行へ行っています」

「ふーん。じゃあ、二人きりってわけか。上半身裸の怪我した男と、それを介抱する女。なんかエロが始まりそうな展開じゃね?」

銀時はニヤニヤ笑いながら言った。

「……っ、もう坂田さんってば!また、そんなこと言って!」

銀時の言葉にまた千草の顔が赤く染まった。

ーー嗚呼。その顔、たまんねぇなぁ……。

千草には苦悶の表情が似合うであろうと、銀時は常々思っているが、恥辱にまみれた表情もまたそそられる。
白い首筋に舌を這わせてみたいという欲求が沸き起こったが、何とか捩じ伏せた。

「ほんと、坂田さんってどうしていっつも下ネタしか言わないんですか。只のエロいおっさんじゃん」

「おっさんじゃねぇっ。じゃあ俺と歳の近い 千草ちゃんはおばさんになっちまうけどいーのかなぁー」

煩い、とねめつけ立ち上がる千草の手首を掴んだ。細い手首であった。銀時が力を入れたら、折れてしまいそうな程に細い。よくこんな細腕で倍以上の体躯の男たちを治療をしているなと感心した。僅かに力を入れて引き寄せれば、千草の身体は銀時の腕の中へと傾く。

「さ、坂田さんっ?」

「……死んじまうような怪我した時ほど、男は性欲が強まるってこと、千草ちゃんならよく分かってるだろ?」

耳許に唇を寄せて、色を含んだ低い声で囁く。すると、千草は小さく息を呑んで、肩を揺るがした。これ以上にない程、真っ赤になり熱を孕む千草の身体。その熱は銀時の掌越しにも面白い程に伝わってくる。
ぞくりと銀時の背筋が粟立ち、下半身が妙な熱を持ち始めたが此れも何とか治めた。

「なんてな、冗談だよ。千草ちゃんに手を出したら、じーさんに殺されちまう。ま、タコみてぇに真っ赤になる千草ちゃんの顔は傑作だったけどな」

「……さ、最低!このドS馬鹿!」

千草は銀時の顔面に包帯を投げつけたが、痛くも痒くもない。

漸く此所まできた、と銀時はほくそ笑んだ。
診療所へ通い詰めて半年。
銀時は何でもないふうを装いながらも、こうやって千草と距離を詰めていた。
全ては千草が己を意識してくれるようにと目論んでのことだ。
銀時が初めて千草を見た時の印象は、何処にでもいそうな平凡な女というものであった。それこそ、名前を直ぐに覚えられない程だった。それが何時しか千草に会いたいと思うようになっていた。そう、彼女が鈴蘭の香りを身に纏うようになってから、全てが可笑しくなったのだ。千草から香る匂いを嗅ぐ度に惑わされる。千草を自分の物にしたいという欲求が腹の底から沸き起こる。別段、恋人のような関係になることを望んでいる訳ではない。

此は恋ではない、恋と呼ぶには程遠い男の欲望なのだ、と銀時は思っている。

ひっそりと、しかし着実に 千草の心の隙間へと銀時は近付いていた。



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