淑女は中指を突き立てない


 とある廃墟の一角にて、地を這うような女の怒号が辺り一面に響き渡った。


「テンメェェエ! 何っっってことしてくれやがったッ! 今日という今日はゼッテーにブチ殺すッッ!」

 あたしは仮宿の岩壁をべきりと剥ぎ取ると、標的目掛けて思いきり投げ飛ばした。それは生半可な力ではない。憎悪と怨恨とを粘着質な念へ昇華させ、強化系を極めたあたしの全力を以って放たれた“巨大な隕石”のような一塊だったからだ。
 もしもこの一投がそこいらの一般人を掠めでもしていたら、たちまち細胞ごと身体が吹き飛んでいたに違いない。それほどまでの威力を誇っていた。
 だが、あたしの獲物となったクロロは、いとも容易くその攻撃を避けた。少しも取り乱すことなく。
 そのため活火山が大噴火するかの如く、更なる怒気があたしの身の内から湧き上がってきたのは言うまでもない。

「避けてんじゃねェぞこのクソ野郎ッ! タマキンついてねェのかテメェはよォ! 真っ向からあたしの怒りを喰らいやがれ!」
「断る。さすがにお前の攻撃を受けて、無傷というわけにはいかないからな」

 クロロは不敵な笑みを浮かべた。その余裕綽々な表情が、ますますあたしの殺意に拍車をかける。
 そもそも、何故こんな事態に陥ったのか。

 ―― 事の発端はこうだ。

 あたしは無論“大悪党”と称される盗賊であるが、これだけは譲らないというポリシーは持っていた。世界中のどんなお宝を、どんな小汚い手を使ってでも奪い取る卑怯者のあたしだが、“スイーツ”だけは盗みを働かないと心に決めていた。
 何故ならば、あたしが普段美味しいスイーツを食べられるのはパティシエさん達の並々ならぬ努力のおかげであり、あたしはそんな彼らに常に敬意を払って生きているからである。
 だが、もしもバカな輩がスイーツ泥棒などしでかしたら何が起こる?
 やる気に満ち溢れたパティシエさん達の気概を潰すことになるし、そもそもそんな乱暴な真似をしたらスイーツ自体が潰れてしまうかもしれないではないか。
 無論、そんなアホで間抜けで深刻な事態は避けたいわけである。
 ゆえに、あたしはスイーツだけはきちんと正規の店舗に足を運び、行儀良く代金を支払い、ありがたく食べさせて頂いているのだ。

 そんな日々の生活の中で、あたしには密やかな楽しみがあった。
 超有名店舗が数量限定で販売している、そんじょそこらの宝石よりも美しいティラミスを味わうことである。
 早起きが苦手なあたしが目覚ましアラームを1分毎にかけ、早朝から粛々と行列に並び、何とか手に入れることができた至高の逸品であった。
 努力の甲斐あり極上ティラミスを手中に納めることが出来、あたしは天上に昇るような多幸感で胸を打ち鳴らしていた。ドブネズミのように卑しくても頑張って生きてきて良かった、と思えた瞬間でもある。
 ただ、普段どうあっても昼過ぎまで惰眠を貪っているあたしに早朝5時起きはかなり厳しいものがあった。今すぐこの宝物で舌鼓を打ちたい。そんな欲求も当然芽生えたが、それ以上に猛烈な睡魔があたしに襲いかかってきたのだ。
 だが、焦る必要は何もない。ティラミスちゃんはどこにも逃げない。あたしだけの宝玉だ。
 ティラミスちゃん、待っててね。あなたのことは15時のおやつにでも大事に大事に食べてあげるから。そう最愛の恋人にキスを送り、あたしはしばしの休息を取った。
 愛しのティラミスちゃんとの触れ合いを心待ちにしながら。

 目が覚めた時、あってはならない光景があたしの目の前に広がっていた。
 見覚えのある包み紙を手にし、今、正に何かを嚥下したと思われる所作を取った男と目が合った。

 あたしの視線に気付いたクロロは包み紙をくしゃりと握り潰すと、こう言い放った。あたしのわずかな期待を踏みにじる残酷な一言である。

「中々悪くない味だった。だが、オレには少し甘すぎたがな」

 ―― そんなわけで、あたしはクロロに向け全力ファッキューをかましたというわけだ。

 「くたばれこのドグサレがァ!」と罵るあたしの追撃を、クロロは簡単に受け流していく。余計にあたしは怒り心頭となる。うじ虫もせせら笑うであろう、最低最悪な無限ループである。

「くだらないな。そんなに目くじらを立てることか?」
「はぁぁあん? テメーの勝手な価値観押し付けてくんじゃねえぞ! 言っておくけどあたしはなァ、テメーが地獄の業火でミジメったらしく何万回でも焼かれねえと気が済まねえんだよ!」

 それぐらいの所業をしでかしたことを思い知りやがれ! とあたしは再び拳を振り上げる。
 最後の一撃は、せつない。

 ◇

「お前はもう少し頭を働かせることを覚えたほうがいいな」

 本気で殺す! と息巻いていたあたしだが、5分後にはあっさりとクロロの下敷きとなっていた。所詮どうあがこうと、クロロはあたしが敵うような相手ではなかった。元から実力差がありすぎたのだ。
 しかし、“どう頭を働かせよう”と判決を下されるのは120%クロロであるはずなのに、どうしてあたしばかりがこんな苦しみを味わわねばならぬのか。あたしの怒りは極限まで達し、いつしか悲壮感へと変移していた。だって、こんなひどい仕打ちったらない。めそめそと泣けてくるのは当たり前ではないか。
 あたしの透きとおった涙にクロロの心が動かされた、のかはあたしには判別はつかなかったが、ぼろぼろと頬を伝う雫を、彼はやわらかい手付きで拭ってきた。
 もしかしたら、彼なりに反省しているのかもしれない。

「ナマエ、悪かった」
「…………うん」

 冷静に振り返れば、あたしはクロロに弁解の余地すら与えてあげなかった。ティラミスに“ナマエのもの”と明記することも怠っていた。
 少なからずあたしにも落ち度はあったかもしれない。むしろ、ティラミスごときで激昂するなど大人げない真似をするのではなかった、と恥じるべきだと思った。「こっちこそ、急に怒ってごめんね」そう口を開きかけた時 ――

「と、オレが言うとでも思ったか?」

 耳を疑うような一言が、頭上から降ってきた。

「……は?」
「流星街暮らしが抜けて思考が少し鈍ったんじゃないか? お前が大切に思っている物を、オレが同じように扱う道理もないだろう。つまりお前は馬鹿の極みだ」

 念を使用し過ぎた反動で、あたしは指先を動かす気力がない。クロロに反論する余力すら残っていなかった。その事実を分かっていながら、クロロはあたしの上から動く様子も見せない。それどころか、懐から書物を取り出して読み始める始末。
 ……この野郎。
 今、全てを理解した。わざとだ。クロロの行動全てが、わざとだったんだ。

 あたしの大切な恋人を見せつけるようにあたしの目の前で蹂躙したのも、一端謝罪すると見せかけてあたしに罪悪感を与えたのも、言葉による暴力(上げて落とす糠喜びシステム)を強いたのも、クロロによって仕組まれた至極くだらない嫌がらせに過ぎなかったのだ。
 あたしはクロロの術中に易々と嵌まり、手のひらで転がされていた。いや、何してくれちゃってんのコイツ。テメーこそもっと有意義なことに頭を働かせろよボケ。
 いい加減うっとうしかったため、クロロに「重いからそろそろどいてくれない?」と尋ねても、「お前がアジトを半壊させたせいで座るところがないんだ」と意味の分からない返答をされた。死ね。

 あたしは心のノートに「ティラミスのうらみ」とでかでかと書き込むと、堆積した恨みつらみをこの男にどう返してやろうか、と復讐心に身を焦がすのであった。


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