夜よ明け、明日を見よ


 夜は深海のように静かにその身を横たえている。
 その中に紛れるのは容易だ、溶けるようにしてしまえばいい。けれど、それを得意とするのは私たちマフィアだけではなく、奴さんたちも同じだった。迂闊だったなと自身に息を吐きたくなる。考えても、後の祭りなのだけれど。

 今回の任務は、名家のボディーガード。どうやら、バカンスに行きたいが一家を狙う輩がおり難儀しているとのことだった。
 ぼんやりと生温い空気を背負った一家の長が話す様を見て、なんてバカな奴らなんだろうと呆れた。
 命とバカンス、どちらが重いというのか。ボディーガードを頼む前に、その足りない頭で考えたらどうだろうか。臆面もなくここで言ってしまえたらどれだけスッキリするだろう。(そんなことをしたら、帰ってクラピカの怒号が飛ぶから控えるけど)
 まとまった話を携帯電話でクラピカに伝えれば、了承の意が返ってきた。こちらもこちらで呆れた様子を見せているけれど、ファミリー再建のため必要な金を積み上げられれば了承しない訳にもいかない。私たちの財政はピンチなのだ。

 護衛対象は三人。一家の主人、その妻、そしてその娘。
 方法は任せる、というクラピカの言葉の元、私はそのご令嬢と姿かたちを入れ替える方法を取ることにした。背格好も似たようなもの、カツラや化粧である程度は誤魔化せる。そして、最たる理由はか弱げに見える女子供が一番狙われやすのだ。そこを押さえておくに越したことはない。

 出発は依頼日の深夜、ひっそりと呼吸だけをする街を背に。

「深夜に動く方が目立つっつーのに」
「仕方ねえじゃねーか、出発便はずらせないの一点張りなんだ」

 バショウに息巻いてもしょうがないことなのはわかってる。でも、浅はかだと思う。

「というか、本当にこの作戦でいいのか? 絶対にクラピカの奴、怒るぞ」
「怒られるだろうけど、これが一番安全策でしょ。旅行先は入国が制限されてるから、狙うとしたら行き帰りだけだし」
「そうだけどよォ」

 今までに私が絞られてきたことを脳裏に描いてバショウは言い淀んだ。クラピカは、わざわざ危険に身を晒すような作戦は好まない。自分はすぐそうする癖に、仲間がやるとめっぽう怒る。理不尽だ。
 けれど、こればかりはもう決行となってしまったのだからどうしようもない。何事もなく行って帰ってこれることを祈るしかない。

 ……なんて、無意味な祈りは行きの飛行場に着く前にへし折られたのだ。
 車を降り歩く中、肌を撫でたのは違和感だった。やっぱり、いるのだ。こちらに害意を持つ何か。けれど、正確な位置が掴めなくて眉を顰める。
 ただ、こちらが気付いたのと時を同じくして、奴さんも動いたことだけはわかった。複数人の気配、バショウを一瞥して小さく頷いた。
 
「ああっ!」

 わざと転んだようにして、護衛然として私の隣を歩かされていた本物の令嬢をバショウの方に追いやった。偽物の令嬢の周りには誰もいない。
 すると、どうだろうか。違和感が足元から這い登る。
 止まる呼吸、いや、強制的に押し止められた呼吸。そして、身動きを封じられていた。柔らかく頑丈なものに締め付けられている感覚、これ、念じゃん。自分に起きたことなのに、他人事のように思った。
 私だけが絡め取られ、ずるずると何処かに引き摺られていく。元いた場所では騒ぐ一家の声が聞こえた。それを上手く使って飛行機へと誘導するバショウの声も。
 これでいい、手筈通りだ。飛行機さえ飛んでしまえば、一旦の安全が確保される。
 そして遠く遠くへ飛び去ってくれれば私たちの勝ちだ。あとは、うちの連中が私を追ってくれさえすれば。
 そんな勝利宣言を考えていれば、ずんぐりと大きな睡魔が入り込んできて、私の意識はすうっと遠くに呼ばれてしまった。



 ダンッと体が弾む衝撃で目が覚めた。
 うつらとしながら、首を持ち上げれば霞んだ視界に男が映る。倉庫の一室のような無機質な空間の中で、下卑た笑みでこちらを見下ろしている。私を張っ倒したのもコイツであろうことから、苛立っているのは明白だった。

「ああ、起きたね、お嬢ちゃん。あのさあ、キミのお父さんが電話に出ないんだけど」
「っ、た、助けて」
「助けてあげたいから、お父さんの本当の電話番号を教えてくれるかな?」
 
 凍りついたような表情を作り出して、そんなことはできないと首を横に振る。我ながら名演技だな、と拍手喝采を送っていれば、唐突に男は笑みを切り捨て私の頬を殴り付けた。
 コイツ、女にも容赦なく手を出しやがった! このクソ野郎!と喚き散らす胸中とは裏腹に、私の外面は極めてか弱い女性の皮を誂えた。瞳は潤み、体を震わす。「ヒィ」と小さく呻くオマケもつけた。

「もっと大きな悲鳴の一つでもあげてくれよなあ」

 じわ、と口内に滲んでいく血の味を噛み締めると腹が立って来た。無闇矢鱈に拳を押し付けてくるコイツにも、それを押し退けられない無力な自分の状態にも。
 口内に溜まる血液を吐き出してしまいたかったが、ご令嬢はそんなことしないかと飲み込んだ。うえ、まず。
 まだもう少し、私は令嬢である必要がある。時間の経過がわからない以上、コイツらがあちらを追える状態にはできなかった。何もできない令嬢なのだから、念なんて使う訳にもいかないし、できることは当たりどころをうまくずらすことくらいだ。

 痛みに咽び泣くような真似をしていくらか経ったときだった。キツく拘束されていた、念が解かれている。
 それに、壁を挟んだ向こう、もっと遠くかもしれないが、声がわずかに聞こえ始めた。気付いたのは、男より私の方が早かった。
 きっともうすぐこの場を脱するチャンスがくる。わかる。どんどん近付いてくるそれが誰の声なのか、微かな音だけでもわかったから。

「い、いい、ます」
「あ?」
「父の、……ばんごうを、」

 なるべくか細く声を出した。集中しても、僅かに聞き取れない微妙なレベルを意識して。すると男は「聞き取れねえよ」と舌を打ちながら、私の体を起こした。
 近付いてきた男に向かって番号の羅列を教えてやれば、嬉々として電話をかけ始めたのだ。


 ――部屋の外で電話が鳴ったのは、男が着信を入れたのと同時だった。

「……外?」

 時間にしていえば、一時、ほんの少しの間だっただろう。けれど、それで十分、こちらから意識がそれた男を余所に、オーラを拳に集中させる。さっき自分がやられたことをこの一発に込めてやるという気概を持って、驚きで体を固めた男の顔面にそのまま拳を叩き込んでやった。
 どしゃりと尻を床につけた男はそのまま動かなかった。鼻が折れたと思うし、悪ければ鼻が陥没したかもしれない。
 いいザマだわ、と拘束の解けた体を伸ばす。硬い床で寝そべっていた後遺症と、殴られた結果が合間って体を苛めてくる。男を野放しにするのもマズイので、一旦拘束して肩を落とした。すると、

「っナマエ!!」

 名前と荒々しい音とともに扉に飛び込んできたのは、クラピカだった。
 駆けつけてくれた彼の眼光は鋭く、私の姿を一瞥して苦虫を噛み潰すようにした。

「無事、ではないな」
「いや、見てわかんないの。無事でしょこれ、どう見ても生きてる」
「お前の価値観と私の価値観はどうも一致しないようだな、生きているからといって、無事とは言えまい」

 バッサリと会話を切り上げ、部屋の外にいる部下たちに指示を出す。
 わらわらと中に入ってきた組員たちは、私が伸した男をさらに強く拘束しさっさと退散していった。その急ぎようときたら異様に見えた。
 というか、傷付いた仲間がいるっていうのに、ちょっとは心配してくれてもいいのでは?
 納得がいかずくちびるで不服を表せば、裂傷があったようでビリビリと痛んだ。「いっ……た」と漏らせば、クラピカは体が氷でできているのでは?と思わせる視線を投げかけ、行くぞと言った。

「肩くらい貸してくれてもいいじゃん、若頭さん」
「そんな戯言を言える程度の怪我ならば何よりだ」

 吐き捨てるようにそう言われて、小さく舌を鳴らす。もう少し労ってくれてもよくない? 不服指数は増すばかりだ。
 まあ、相当お怒りなのはわかっていたので、すぐに罵声を浴びせられる状態じゃなかったのは、よかったのかもしれない。
 それに肩は貸してくれないけれど、言葉とは裏腹に歩むスピードはゆっくりで、傷は痛まない。


「あの一家はうまく国外逃亡できたの? それに、他の組員は?」
「ああ、既に遠く空の上だろう。組員はバショウの指揮の下、犯人たちを連れていった。私たちは先に戻る」

 騒がしさが残した静寂があたりを占めていた。本当に、私たち以外はいなくなってしまっている。
 クラピカが乗ってきたであろう車だけがポツンとあり、目だけで急かされたのでさっさと助手席に潜り込んだ。
 クラピカはエンジンを掛けず、一言もこぼさなかった。
 二人っきり、この狭い車内で大声を出されたら、結構キくかもしれない。私も別に怒られることが大丈夫なわけではないから、自然と背筋が伸びた。
 空間を切り取ったこの場所は呼吸音だけが震えていた。

「ナマエ、」

 絞り出された声は、夜の深いところで消えてゆきそうな儚さがあった。
 火照る頬に触れたのは冷えた手のひら。

「私が言えたことではない。だが、あまりにも、……無茶が過ぎる」
「……無茶が、私たちの専売特許みたいなもんじゃん」

 なぞられれば、ピリリとした引き攣れを起こす。
 痛いのは私の方なのに、目の前にある綺麗な顔の方が痛そうに歪むから言葉すら息を潜めた。まるで言葉を続けるなと言われているかのよう。

「無事を前提とした無茶にしてくれと、何度も言っている」

 そう言われるとぐうの音も出ない。けれど私は、仲間のことを信頼している。自分の力や頑丈さをある程度、信用している。だから無茶ができる。
 きっとこれは、いくら擦り合わせようと近づくことがない私たちの溝だと思う。
 クラピカだって同じ考えのはずなのに、その部分では他人に寛容になれない。でも、だからこそ、クラピカは確実に私を見つけてくれるとも思っていた。

「……クラピカここまでが来るとは、思ってなかった」
「私のダウジングを当てにしていたやつの言うこととは思えないな」

 そりゃ当てにはしていた。でも、ボスが現地に出向くなんて、普通は思わないでしょ。
 そこではた、と気付いた。ここまで早くクラピカが駆け付けられた理由って、

「クラピカ、私のこと信用してなかったんじゃん」 
「信頼はしているさ。だが、ナマエのことは当分信用しないことにするよ」
「今までも信用されてない気はするんだけど」

 私がこういう行動を取る可能性を見ていたってことだ。方法は任せるなんて言っておきながら、なんてやつだよほんと腹立つわ。
 「私だってクラピカの言葉なんか信用してやるかっつーの」と返せば、ふっとクラピカが笑みを落とす。今の流れで笑うところあった?

「信用してくれなくて結構だ。好き勝手した分だけナマエの給料が減るだけだ」

 いやが応でも私の無茶を許したくないらしい。給料は流石になくない!?と反論しようと身構えたのに、クラピカの指が輪郭をなぞるから黙るしかなくなった。
 擽ったくて身を捻れば、追うように指先が追ってくるから、もう観念してしまって、伸ばされた手のひらに身を任せて目を閉じる。
 うなじの辺りを掻き抱くように引き寄せたのに、手のひらだけはひどくやわらかくていねいに扱われているのがわかった。
 本当にここにあるか、確かめるような動きに胸が軋む。そういう不器用なやさしさが、まぶしく見える。

「……心配だった、って素直に言えばよくない?」

 返事はなかった。さっきより少し乱暴な手が私を囲い直しただけで。これ以上の返答はないみたいだったから、しょうがないかとこの一時のあたたかさを堪能した。

 肩に埋もれた視線を上げれば、さらさらと流れ落ちる金色の髪越しに窓の外が見える。
 夜闇と混じり合い、まるで夜明けが来たかのようで、やっと深く息を落とすことができた。
 傷だらけの夜は、このまばゆい人によって明かされるのだと、わかったから。


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