ひかる夜の片隅へ


 真夜中、仕事終わりの体はくう、と悲鳴をあげた。
 連日ハードな仕事をこなしていた私は、朝食も昼食も、はたまた夕飯すらも欠いた状態であった。そりゃ腹も減るわ。
 自宅の扉を雑に開け、足を締め付けていたパンプスを脱ぎ捨て開放感とともに部屋に入る。暗い室内にはもちろん人の気配はなく、おいしい食事の用意なんて以ての外だ。
 ため息を吐く。誰かが待っている部屋も、あたたかい食事も、期待なんてしていた訳ではない。少し、ほんの少しだけ……もしかして、を期待していただけで。
 ただ、疲れている時に想い人の顔くらい直接見たいなと思うだけで。同じ職場のはずなのに、何日も顔すら合わせていないその人は、きっと私以上に日々を忙しなく消費しているのだから、この部屋に温度を添えることなんて当分の間ないと思う。
 でも、何億分の一くらいの可能性でも、その「もしかして」に賭けてみたいくらいには、私は疲弊していたのだ。

「…………お腹空いた」

 夜に溶け出したひとりごとに引っ張られるように、荷物をソファに投げ捨てしゃがみこんで戸棚の戸を開く。
 詰め込まれたインスタント食品を見て、唇の端が下がっていくのがわかる。お湯を注ぐだけのカップ麺、カップ焼きそば、レンジで炊けてしまうご飯、インスタントのカレー。
 それぞれ魅力的な食べ物だとは自分でもわかっているのだが、食べ続ければ飽きるというものだ。そろそろ作りたてのあたたかいご飯が食べたい。けれど、食事に出掛ける元気すらどこかに置き忘れてしまったのだ、困ったことに。
 「ううん、」唸りながらひとつひとつを吟味する。つやつやとしたビニールに描かれた文字が目を滑る。


「いつもいつもそんな体に悪そうなものばっか食べてさあ、たまには栄養のあるバランスのとれたご飯食べた方がいいよ!」

 日々を駆け足で、一段飛ばしで駆けるように過ごしているクラピカにそんなことを言ったのは、遥か遠くの話だ。
 すぐに摂取できる栄養食だけで食事を済ませるクラピカを見兼ねて、みんなが口々に心配していた。私も自分のことは棚に上げ(普段はお弁当を買ってきて食べる他はさっさと食事に出かけてしまうことが殆どだったからだ)、そんなことを口走った。
 けれど、クラピカときたら、

「必要最低限のものは口にしている。心配の必要はない」
「問題ないと言っているだろう」
「くどい」

 なんて言って、みんなの心配も撥ね退けてしまう。そうされてしまうと、こっちだって折れるわけにはいかない、と意固地な気持ちになる。
 拮抗状態が続き、その結果「思ったの、ナマエが用意してあげればいいんじゃないかしら?」とセンリツが爆弾を落とした。
 ギョッとする私を横目に、クラピカは「それならば」とイエスの答えを出した。意味がわからない。お前の作ったものなど口にできそうにない、とか言いそうなクラピカから快諾されてしまうなんて。
 そこまで来て、ハタと気付く。これは、もしかしたら、私への挑戦か、宣戦布告か何かなのではないかと。「どうせナマエにはできないだろう、こう言われれば諦めるだろう」クラピカはそんな風に思っているのではなかろうか。
 私は、そんな風に思われたまま、はいそうですかと終えられる程おとなしい人間ではなかった。売られた喧嘩は買うタイプ。(けれどこれは私の勘違いなのだと、後にわかることなのだが)

 こうして、たまに私が食事を提供することになってしまった。引くに引けなくなった私はなけなしの料理知識と僅かな料理センスを駆使することになった。最悪だ。

 それでも何とか形にしたが、初回の提供は悲惨だった。人のためにも、自分のためにも、料理をしたのははじめてに等しかった。
「いただこう」「いただきます」
 ふたりで並び、お互い一口、用意した食事を口に含む。むっつりと押し黙ったクラピカをそろりと見上げ、口を開く。

「……不味くて申し訳ない、完全に私の負けだわ」
「お前は何の勝負をしているんだ? それに…………不味いとは言っていない」
「美味しいとも言わないじゃん! しかもその間!」
「栄養バランスは取れているのだと、見た目でわかる」
「それ見た目じゃんか……味じゃないじゃん! 絶対負かす!」

 美味しくもない料理だった、自分でもそう思う。けれど、誰かと並んで、会話をしながら食事を摂る。それがどんな素敵な料理よりも魅力的に見えた。まるで魔法のようだと思った。

「ナマエ、先ほどからお前はひとりで何の勝負をしているんだ?」

 呆れたように息を吐き出したクラピカの、けれどほんの少し持ち上げられた口角が、さらに心の片隅にぬくもりを灯すのを感じたのだ。


 そんな出来事も、急務の仕事が増えたことでお互いバラバラに動かなければならなくなり、機会は消失してしまった。
 カップ麺両手にぼんやりと懐かしんでいると、急速に食欲が消失していくのを感じた。……もう、今日は何も食べなくていいか。明日は待ちに待ったお休みなのだ。明日はゆっくり起き出して、少し着飾って、海辺のカフェにでもランチに行けば、いいよね。
 そう思った瞬間だった。

「……お前という奴は、」

 背後に人の、気配。しかも、慣れ親しんだ気配だ。
 そして落とされた声色に、急いで振り向こうとした動作を止めてしまう。聞いたことのある、声だった。久しぶりに耳殻を撫でた声は不機嫌な色なのに、胸を震わせるには十分な効力を持っていた。
 けれど、彼がここにいる訳がない。そう考えると、私は相当疲れているのだということになる。

「やばい、幻聴すら聞こえ始めた……」
「人の声を幻聴とはよく言ったものだな。幻聴かどうか、振り向いて確かめてみたらいい」

 ふてぶてしい声が振り向くことを促す。幻聴だったらどうしてくれよう、と思いつつそろりそろりと後ろを振り向いたら、本当にいる。
 本当に、いたのだ。クラピカの姿形の人が。驚きで手に持っていた食料たちを取り落とした。

「ク、クラピカ……? ほ、本物?」
「本物に決まっているだろう。何を言っているんだ、お前は」
「いや、それはそうなんだけど」
「この部屋へ入室できているという時点で、私以外にいないと思うが」

 それとも、他に誰かいるとでも?と不機嫌そうに尋ねられて、すぐに首を横に振る。変な諍いは起こしたくないし、事実、この部屋の鍵を持っているのは私とクラピカのふたりだけだ。

「いやいやいや、クラピカしか入れないのは分かってるよ。でも、絶対いないと思っていた人がいたらビックリくらいするでしょ!」
「驚かせたことはすまないと思うが、私の気配にすら気付かないとは……ノストラードの構成員としての力量が心配になるな」
「ぼんやりしてたんだって……しかもクラピカだったからだよ。普段は気が付く」

 気を抜き過ぎていたのは反省しよう。でも、ここは死地でもなければハンター試験の最中でもないのだ。自宅でくらい少し気を抜いたって誰も咎めないはずだ。
 けれど、クラピカは私のそんな心中などお構いないしに、更に追い立てるように言葉を紡ぐ。「それに、」視線の先には、私の夜食たち。

「栄養が偏りすぎている、一人でいると食事をしなさそう、料理をしなさそう、ちゃんとした食事を摂れ、などと、」

 それらを睨むように見て、クラピカは息を吐き出した。

「よく言えたものだな」
「いや、これはたまたま……忙しかったから……」

 まあ、嘘だ。クラピカに言った手前、彼の前では料理をしてみせたこともあるが、基本的には私も栄養の偏った食事ばかりしている。ただ、私の場合は栄養食だけで済ますことはしないのだから、彼よりはだいぶマシなはずなのだ。
 けれど、彼は掘れば宝物でも出土するのかという勢いで私の弱点を掘り当てようとしてくる。久々に会ったと思ったらこれなのだから、少し肩を落としたくなってもしょうがないと思う。

「……クラピカ、ここまでダメ出ししに来たの? こんな時間に」

 クラピカからのお小言なんて慣れっこではあるし、興味のない相手に対してここまで言うことも無い人なので、言葉を受け止めること自体はいい。けれど、久々にお互い顔を突き合わせたのに、出てくる言葉が全てお小言なのは参ってしまう。
 それに、長期での任務に出ていたはずの彼がなぜこんな時間にここにいるのか。聞きたいことは山ほどある。
 私の言葉に、ハッとしたようにくちびるを結んだ。

「……すまない」

 視線を彷徨わせ、バツが悪いという表情で小さく謝罪される。落ち着いた勢いに安堵して、聞きたかった問いを口にする。

「いいけど、なんでうちに来たの? 長期の任務だったと思ってたけど」
「それは今日、無事終了した。先ほど屋敷に戻ったら、ナマエも先ほど帰ったところだとセンリツが」

 「お前が、連日の任務でひどく疲れているようだったと、聞いたんだ」と、なんだか言いづらそうに話す。センリツが気を利かせてくれたおかげで、クラピカが来てくれたのなら万々歳だが、それだけで彼がこの家に来ることはないように思う。

「私が死んでないか見に来てくれたってこと? 疲れてるけど、生きてるよちゃんと」
「いや、それもあるが……」
「あるが?」

 なぜか言い淀むクラピカに追撃のように語尾を繰り返す。真剣な顔で、言うか言うまいかを思慮しているようだったが、私の視線に耐えきれなくなったのか折れるように瞬きをひとつ落とした。

「任務を終え、屋敷に戻った時……その、お前の顔が思い浮かんだ」
「……え」
「これは私の我儘だが、久々に共に食事がしたいと思った。こんな時間に不躾だとも、思ったのだが」

 こちらを見ないようにゆっくりと胸の内を言語化していく様子を信じられない気持ちで見ていた。それから、言葉を追うごとに少しずつ赤みを増していく耳朶も。
 だって、こちとら何億分の一に賭けていたのだ。信じられるわけがない。

「……部屋に入ってカップ麺を眺めるナマエを見つけた時は、頭が痛くなったが」
「だから……それは忙しかったからだって」
「だが、ナマエが悩んでいたおかげで、お前の不摂生を止めることができそうだ」

 そう言って、やっとこちらに視線を合わせたクラピカ。皮肉のような言葉も羞恥を抑えるためのものだと思えば、可愛く思えてしまう。それから、私ばかりが可能性に賭けていたのではないと言うことを知って、素直に……嬉しいなと思う。
 率直ではない言葉をいくつも重ねるクラピカに、こちらも肩の力が抜けてしまう。

「あのさ、一緒にご飯を食べようって、普通に誘ってよ」
「その…………ナマエ、食事に行かないか」

 その言葉を聞いただけで、むくむくと食欲が蘇ってくる。現金な体だと我ながら笑ってしまう。きっと、こんな夜中にやっている高価なレストランなんてない。開いていても、牛丼屋かファミレスくらいだろう。それでもいいのかと問えば、

「構わない」
「クラピカが牛丼食べてるのレアだから、牛丼にする? いや、それがいいよ、そうしよう!」
「理由が不純すぎるな……」
「牛丼食べてるクラピカを写真に撮ってみんなに見せてまわるわ」
「明日を穏やかな休日にしたいのならば、その考えは改めることだな」

 呆れたように言うクラピカのくちびるは笑顔の形を作っている。
 夜景の見えるレストランじゃなくても、海岸線をのぞみながらのおしゃれなランチじゃなくても。クラピカが顔を見せてくれて、一緒にいただきますとご馳走さまが言えるなら。
 どんな食事もとびっきりのものに変わるんだって、そんな簡単なことをクラピカには教えてやらないのだ。


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