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秘密基地に背を向けて


 夜の街を女が駆けていた。息は荒く、額には汗の玉が浮かんでいる。時折後ろを振り返りながら走るその様子は、鬼気迫るものがあった。
 息が苦しい。足がもつれる。それでも必死に足を動かし、走り続けた。背後に迫る影から少しでも遠ざかりたい一心で。
 女は路地裏に入るとそのまま建物の隙間に入り込み、奥へ奥へと進んでいく。袋小路になっている行き止まりまで辿り着くと、壁際に身を寄せてしゃがみ込んだ。一度だけ大きく息を吸い込み、両手で口を覆う。できるだけ呼吸音を立てないように鼻から空気を取り込み、細く長く吐き出していく。心臓が破裂しそうなほど脈打っていた。落ち着け、落ち着けと頭の中で唱えながら、自身の気配を絶つよう努めた。
 どれくらいそうしていただろうか。女を追う気配はとっくに消えていたが、彼女はその場を動かなかった。いや、動けなかったのだ。まだ近くにいるかもしれないという不安と恐怖が彼女の身体を縛り付けていた。
 だがいつまでもここにいるわけにもいかない。震える膝に手を置き、ゆっくりと立ち上がる。そして、意を決して元来た道を引き返そうとしたその時だった。
 突然、頭上から声をかけられたのは。

「それで絶のつもりか」

 反射的に顔を上げると、路地の壁の上に男が立っていた。驚きのあまり悲鳴を上げることもできず立ち尽くしていると、その人物は軽々と地面に着地してみせた。黒い外套を纏った小柄な男だった。口元まで覆われているせいで表情は読み取れないが、鋭い眼光が向けられていることだけはわかった。
 男の視線に射貫かれた瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。全身から血の気が引いてゆき、嫌な汗が噴き出す。
 逃げなければと思うも、既に遅かった。今度は背後から別の人間の気配を感じ取る。振り返らずともわかる。先程散々追いかけ回してきたあの男だ。挟み撃ちに遭ってしまったのだ。前方と後方――どちらも逃げ場はない。女の顔色はみるみると青ざめていく。前方に立つ男はそんな彼女をじっと見つめたまま動かない。一方、後方にいたはずの男の方はいつの間に距離を詰めてきたのか、すぐ傍にまで迫ってきていた。
 絶体絶命の状況の中、女は声を震わせながら問いかけた。

「あなたたち、何なんですか。どうして私を……」
「あ? なんだお前、まだ気付いてねぇのかよ」

 背後の男が呆れを含んだ口調で言う。女は咄嗟に振り返り、相手の姿を見た。こちらはジャージ姿の体格の良い男だった。目つきが悪く、どう見ても堅気に見えない風貌をしている。
 何のことだかさっぱりわからないといった様子の女を見て、男は大仰に溜息を吐いた後こう告げた。

「十年ぶりで忘れちまったか? 泣き虫弱虫のナマエちゃん」
「えっ……」

 男の言葉に、女――ナマエの目が見開かれる。まるで信じられないものを見ているかのように。次の瞬間、ナマエは何かに気付いたように息を呑み、その瞳を大きく揺らした。

「もしかして、フィンクス?」
「お、正解」

 フィンクスと呼ばれた男は口角を上げ、ニヤリと笑みを浮かべる。ナマエは些か呆然としていたが、すぐに我に返ると慌てて黒衣の男の方に向き直った。

「じゃあそっちはフェイタン?」
「やと気付いたか」

 フェイタンは苛立ちを露わにした声で答えた。ナマエは再び二人の顔を交互に見る。そこでようやく事態を理解したようで、安堵の表情と共にその場に蹲った。

「よ、良かった……私てっきり変な人に追いかけられてるんだとばかり……」

 半べそ状態で言うナマエに、二人は目配せすると互いに肩をすくめてみせた。

「オイオイ、変質者扱いとはひでーな。オレらは一目見てすぐに分かったぜ?」
「相変わらず鈍感ね」

 二人からの容赦ない言葉を受け、ナマエはうっと言葉を詰まらせる。

「だって暗くてよく見えなかったし、二人とも雰囲気変わってるし……」

 そう反論しながらナマエは立ち上がった。それから改めて二人の姿をまじまじと見る。たしかに彼らはナマエがよく知る人物だった。だがそれは今よりずっと幼い頃の話である。当時の面影はあるものの、今の彼らにはあの頃の幼さなど微塵もなかった。

「それにしても二人とも大きくなったね。なんか別人みたいだよ」
「十年経ちゃ成長もするだろうよ。ナマエはあんま変わってねーけどな」
「泣きべそかいてたガキのままよ」
「……前言撤回。口を開けば悪態つくところは全然変わってない」

 ナマエが不満げに唇を尖らせて言い返すと、フィンクスとフェイタンは揃って笑い出した。懐かしいやり取りにナマエも頬を緩ませる。

「でも本当に久しぶりだよね。まさかこんなところで再会できるなんて思わなかった」
「だな。オレらも驚いたぜ」
「うん。ほんとにびっくり。二人にはもう二度と会えないと思ってたから……」

 そう言ってナマエは目を伏せる。その表情からは喜びと同時に複雑な感情が窺えた。それを察してかフィンクスとフェイタンは一瞬だけ視線を交わす。だが何も言わず、再びナマエの方へと視線を戻した。
 彼らは同じ故郷で生まれ育った仲間だった。共に孤児であり、物心ついた時から一緒に育ってきた。親がいない分、兄弟同然の存在だったのだ。
 だがある日、突然別れが訪れた。ナマエが流星街から忽然と姿を消したのだ。当時の流星街ではまだ人攫いが横行しており、ナマエもまたその犠牲になったことは容易く想像できた。
 その後、二人は彼らの仲間と共にナマエの行方を捜したが、結局見つかることはなかった。生きているのか死んでいるのかさえわからないまま月日だけが過ぎていった。そして十年の時を経て、ついに再会を果たしたというわけである。
 過去の出来事を思い起こしているのか、ナマエの眼差しに僅かに憂いが混じる。しかしそれも束の間、彼女は気を取り直すように顔を上げると、明るい口調で話し始めた。

「こうしてまた会えるなんて夢みたいだよ」

 屈託のない笑顔を見せるナマエに対し、フィンクスは一瞬言葉を詰まらせると頭を掻きながら言った。

「あー……まぁ、なんだ。とりあえず元気そうで安心したぜ」
「なに照れてるか。キモチワル」
「うるせぇな!」

 フィンクスがフェイタンに噛み付く。そんな二人の様子を見て、ナマエは楽しげに笑っていた。
 ひとしきり笑ってから、ふと思い立ったように彼女は口を開いた。

「それにしても、どうして二人がこの街にいるの?」
「ああ、ちょっと野暮用があってな」
「そうなんだ。……あれ、ということは他のみんなも一緒?」

 ナマエの問いにフィンクスとフェイタンが再び視線を交わし合う。一拍置いて、今度はフェイタンが答えた。

「ワタシ達だけよ」
「へぇー、相変わらず仲良しだね」
「オイ、気色悪いこと言うな」

 フィンクスからすかさずツッコミが入る。フェイタンも不服だと言わんばかりに眉間に深いしわを寄せていた。ナマエは苦笑しつつ冗談だよと言って場を濁すと、改めて二人に向き直った。

「ね、こんなところで立ち話もなんだし、どこか入らない? 積もる話もいっぱいあるしさ」
「お、いいねぇ」
「賛成よ」

 三人の意見が一致したところで、飲み屋が軒を連ねる大通りに向かって歩き出す。その道すがら、彼らは昔の話で盛り上がった。
 ナマエがしょっちゅう二人の悪巧みに巻き込まれては泣かされていたこと。ナマエも負けじと悪戯を仕掛けては毎回返り討ちに遭っていたこと。だけどナマエが他の誰かに泣かされた時は、決まって二人が相手に仕返ししてくれたこと。他にも様々な思い出話が飛び出してくる。主に話題の中心にいたのはナマエで、彼女は終始笑顔を絶やすことなく喋り続けていた。十年ぶりに再会した彼らのことを、まるで昨日のことのように鮮明に覚えているようだった。
 不意にナマエが並んで歩く二人を交互に見やる。そして、しみじみと呟いた。

「なんかまだ現実味がないや。こうして二人と一緒に歩いてるなんてさ」
「そりゃこっちのセリフだわ。十年も消息不明でとっくに死んだと思ってたぜ」
「化けて出られた気分よ」
「ひっど!」

 ナマエは抗議の声を上げたが、すぐに口元を緩ませる。

「まー、あれから色々あったけど今はこの通りピンピンしてるよ!」
「なんだよ、色々って」
「まぁそれはおいおい話していくとして。それよりさー……」

 そこでナマエは言葉を切って、改めてフィンクスとフェイタンを見る。

「二人がこの十年何してたのか教えてよ」
「オレらのことはいいだろ」
「えー、聞きたいよ!」
「特に変わりねぇよ。ナマエが知っての通りだ」
「十年経ってるんだから私が知らないこともたくさんあるはずでしょ」
「いや、大体のことは知ってんだろお前」
「え?」

 きょとんとした表情を浮かべるナマエに、フィンクスはこともなげに続ける。

「だから、オレらのことはもう調べ尽くしてんだろ」

 ナマエの目が驚きに見開かれる。だがそれも一瞬の出来事で、彼女はすぐさま元の表情に戻すと首を横に振った。

「そりゃあ二人のことを調べなかったわけじゃないけど、何も……」
「何も手がかりは見つかりませんでした、ってか?」

 遮るようなフィンクスの言葉にナマエは口をつぐむ。不穏な空気を感じ取ったのか、そのまま一歩後退った。だが逃げようとするよりも先にフィンクスの言葉が追いかけてくる。

「ナマエよぉ、お前さっき他の奴らも一緒か聞いてきたけど、なんでオレらがまだ連んでるって知ってんだ?」
「え……だってそんなの……」
「十年経ってんだ。誰かしら抜けてたっておかしくねぇだろ。でもお前は全員が今も一緒にいると疑わなかった。なんでだ?」

 途端に沈黙が落ちる。ナマエは言葉を詰まらせたまま、視線を泳がせた。
 単純な言葉の駆け引きだ。普段の彼女であればいくらでも誤魔化すことができただろう。しかし不意をつかれて動揺を見せてしまったことで、もはや取り繕うことは難しくなっていた。
 ナマエの反応を見て、フィンクスはふぅーっと長く息を吐き出した。

「つれねーよな。オレらはマジでナマエに会いたかったんだぜ? なのにお前はずっとオレらを避けてたなんてよ」

 ナマエの顔が強張っていく。だが、それでもなお彼女は言い繕おうとした。

「避けてたなんて、そんなつもりじゃ……」
「お前まだその白々しい芝居続ける気か」

 フェイタンが苛立たしげに吐き捨てる。鋭い眼差しがナマエに向けられた。

「ナマエはワタシ達から逃げたね」
「違う! あの日、私は本当に人攫いにあって、それで……」
「攫われたのはマジだったみてぇだな。だがブローカーに売り飛ばされた先で行方をくらましてからは一切の足取りが掴めなくなってる。不自然なくらい何の痕跡も残ってねぇ。まるで人為的に消されたかのようにな」
「…………」
「まー十年もオレらの目を掻い潜れたのは素直に感心するわ。シャルも褒めてたぜ? こんだけ巧妙に痕跡を消せるなんて大したもんだってよ」

 ナマエは何も言えなかった。ただ唇を噛み締めて俯くばかりである。そんな彼女の様子を見かねたようにフィンクスが口の端だけで笑って言った。

「だからよ、そろそろ種明かししてくれや」

 ナマエの額から汗が一筋流れ落ちる。
 立ちはだかる二人を前にして、彼女は今日二度目の絶望を感じていた。もう誤魔化しは通用しない。逃れられない。そう悟った瞬間、足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
 ナマエは観念して肩を落とす。それから深く息をつくと、ゆっくりと顔を上げて言った。

「……全部分かった上で泳がせたってわけね。ひどい人たち」

 ナマエの顔に浮かぶ諦観の色。だがその眼差しには確かな敵意が込められていた。
 フィンクスとフェイタンは揃って肩をすくめてみせる。

「ひでーのはどっちだよ。十年も逃げ回りやがって」
「ワタシ達欺こうなんていい度胸よ」
「…………」

 二人が一歩前に踏み出すと、ナマエは反射的に身を固くした。お互い手を伸ばせば届く距離で睨み合いが続く。そこには先ほどまでの和やかな雰囲気など微塵も残っておらず、互いの出方を窺うかのような張り詰めた空気だけが漂っていた。やがて、ナマエがおもむろに口を開く。

「全部分かってるならどうして探し出したりなんかしたの」

 二人から注がれる視線を受け止めながら、ナマエは続ける。

「どうして、放っておいてくれなかったの」

 声音こそ静かだったが、そこに込められた感情は決して穏やかなものではない。ナマエの目つきがさらに鋭くなる。それを受けてフィンクスは鼻で笑った。そして、事も無げに答える。

「さっきも言っただろーが。オレらはお前に会いたかった。ただそれだけだ」

 それはあまりにもあっさりとした一言だった。だからこそナマエは衝撃で言葉を失う。こちらの意思などまるで無視しておきながら、会いたいから探したなどと平気で言えるその傲慢さが信じられなかった。

「そんな、そんなの……勝手すぎるよ」
「あ? 何言ってんだ。オレらお前に散々振り回されてきたんだぜ? 」
「そんなことした覚えない!」
「自覚ねぇのかよ。質悪ぃな」

 フィンクスが呆れた様子でため息をつく。感情的なナマエとは対照的に、彼はどこまでも冷静で落ち着いていた。それがまた彼女の神経を逆撫でする。

「なんで今さら私の前に現れたの? 私にどうしろっていうのよ」
「別に何もしなくていいぜ? ただこれからはオレらの傍で大人しくしてればいいんだよ」
「ふざけないで!」
「あーもうめんどくせぇな」

 彼は舌打ちすると面倒くさそうに頭を掻きむしった。すると、それまで黙って成り行きを見つめていたフェイタンが口を挟む。

「ナマエの都合なんてどうでもいいね。ワタシたち盗賊。欲しいものは奪い取るだけよ」
「そーゆーこった」

 ――次の瞬間、ナマエの視界からフェイタンの姿が消えた。咄嵯に身構える暇もなく、首の後ろに強い衝撃を受ける。途端に全身の力が抜けていき、ナマエは為す術なく頽れる。地面に倒れ伏す直前でその体をフィンクスが受け止めた。

「おい、傷つけてねぇだろうな」
「そんなヘマするわけないね」

 フィンクスの腕の中でぐったりとするナマエを見て、フェイタンは満足そうにほくそ笑む。
 一方、ナマエは薄れゆく意識の中、かろうじて二人の会話を聞いていた。

「とりあえずどっかに隠しとくか。他の奴らに知られたらうるせーだろうからな」
「ワタシが運ぶね」
「お? 珍しく気が利くじゃねーか」
「いいからささとよこせ」

 フェイタンはフィンクスからナマエを受け取ると、そのまま軽々と抱きかかえた。

「……っ」

 一瞬、抵抗するように腕に力が入る。だがそれもすぐに収まり、ナマエは完全に脱力してしまった。フェイタンは彼女の顔を覗き込むと、その目を細めた。

「ワタシたち切り捨てようとした罰よ」

 囁かれた言葉を最後に、ナマエの意識は闇へと沈んでいった。


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